慶長5年(1600年)
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2月8日  北条氏規、死去。
5月3日  徳川家康が上杉家に問罪使として派遣した伊奈忠次が家康の元へ戻ってくる。
5月16日  徳川家康は麾下の将士3000余名を率いて大坂を出立し、伏見城に入る。
6月16日  徳川家康、大坂城を出発して伏見城に入る。
6月18日  徳川家康、伏見を出発して上杉討伐に向かう。
7月2日  大谷吉継、上杉討伐のため居城を出て、美濃の垂井(たるい)に着く。
 徳川家康、江戸城に到着。
7月12日  石田三成・大谷吉継が佐和山城で安国寺恵瓊と会合を開く。
7月16日  毛利輝元、船で大坂に着き、木津の私邸に入る。
 石田三成、居城佐和山城を出て、大坂へ出てくる。
7月17日  増田長盛ら、西軍の諸将は大津に使者をたて、京極高次に人質を出すように迫り、やむなく長子を人質に出す。
 石田三成、大坂城へ入城する。
 中村一氏、突如発病し、死去。
7月18日  毛利輝元、徳川家康の留守居役として大坂城西の丸にあった西野綱正を追い、そこに居座った。
 毛利輝元、長子秀就を大坂城本丸にいれ、「内府ちがいの条々」という弾劾状を発表。
7月19日  三河国刈谷城主水野忠重、石田三成の家臣に刺殺される。享年60歳。
7月20日  西軍により鳥居元忠が籠る伏見城への攻撃が始まる。
 増田長盛より、石田三成と大谷吉継と安国寺恵瓊が佐和山城で徳川家康の打倒の会談をしたという知らせを受ける。
7月21日  細川藤孝が籠る田辺城、西軍に包囲される。
7月24日  徳川家康、小山(小山秀綱の廃城跡)に着陣して、石田三成挙兵の知らせを受ける。
7月25日  徳川家康、軍議を開き、石田三成を討つ事に決する。(小山軍議)
7月28日  徳川家康、上杉景勝、佐竹義宣の押さえとして、息子秀康に2万の兵を授けて、小山を出発する。
8月1日  伏見城、西軍の手により落城。
8月5日  徳川家康、江戸城に到着。
8月6日  石田三成、直江兼続の密使により、徳川家康が上杉討伐を中止して、西上してくることを知る。
8月9日  石田三成、佐和山城から、兵6千7百を率いて、美濃国垂井に着陣。
 大垣城主伊藤盛正、石田三成より城を借り受けることを申し渡され、これを承諾して、城を出る。
8月11日  石田三成、大垣城に入る。
8月14日  福島正則、藤堂高虎らの東軍の先鋒部隊が清洲城に到着。
8月18日  福島正則ら、豊臣恩顧の東軍の武将が集結している清洲城に徳川家康からの使者として、村越茂助が到着して、家康の意向を伝える。
8月20日  豊臣恩顧の東軍の武将、織田秀信が籠る岐阜城への攻撃を開始する。
8月22日  豊臣恩顧の東軍の武将、竹ヶ鼻城を落とす。
8月23日  織田秀信、城から討って出て東軍諸将に対して迎撃を試みるが、あえなく敗退し岐阜城を明渡す。
8月25日  長束正家、長宗我部盛親ら、1万5千は富田信高が籠る安濃津城を落とす。
9月1日  徳川家康、3万2千7百余を率いて、江戸城を出発し西上する。
 遠藤慶隆、親族の金森可重と共に旧領奪還のために稲葉貞通の末子通孝が守る郡上八幡城に攻め込む。
9月2日  9月1日に攻め込まれた郡上八幡城主稲葉通孝、遠藤慶隆・金森可重に降伏する。
9月3日  伊達政宗、上杉景勝に講和を申し入れる。景勝、これに応じる。
 西上してくる東軍に対して犬山城に出陣していた稲葉貞通、本領郡上八幡城の急をしり、本領へ急行し、夜半に到着。
9月4日  稲葉貞通、朝方より郡上八幡城奪還のために遠藤慶隆軍に攻めかかり、敗走させる。
9月5日  稲葉貞通、遠藤慶隆・金森可重軍の逆襲を恐れ遠藤・金森軍と和睦する。
9月8日  3千の城兵が籠る大津城が毛利元康旗下1万5千に包囲される。城主京極高次は抗戦する。
9月9日  直江兼続、山形城攻略のため、米沢城を進発する。第一陣直江兼続、色部光長、春日元忠、上泉泰綱、水原親憲、溝口勝路、第二陣木村親盛、松本善右衛門、横田旨俊、篠井泰信等。
9月12日  直江兼続の軍、長井を経て、白鷹山塊の狐越(きつねごえ)街道を通り、畑谷城に迫る。
9月13日  直江兼続軍、畑谷城に攻撃をしかけ、これを落とす。
9月14日  直江兼続軍、戸上山(とがみやま:富神山とも)東方の高台まで進出し、長谷堂と上山(かみのやま)城と山形城の連絡を絶つ。この時ここから見た山形城は霞が村山盆地にたなびいて山形城を覆い隠したという。
 大津城、落城する。城主京極高次は頭を丸めて、高野山に入る。しかし、後日、西軍1万5千の兵を引きつけていた功を賞され、5万石の大津城主から、9万石の若狭国小浜城主に出世する。
 徳川家康、東軍の本営赤坂に到着し、岡山に陣取る
 石田三成、関ヶ原に向かう。
9月15日  東軍率いる徳川家康、西軍率いる石田三成が関ヶ原の地で激突する。(関ヶ原の戦い)この戦いにより、西軍を破った家康は天下をほぼ手中に収める。
 大谷吉継、小早川隊の裏切りにより敗色が濃くなることを知ると、自刃。享年43歳。
9月17日  徳川家康、小早川秀秋、脇坂安治、朽木元綱ら関ヶ原の戦いでの裏切り組みに石田三成の居城佐和山城を攻めさせる。
9月18日  佐和山城、落城。石田一族はことごとく自刃。
9月21日  逃走中だった、石田三成、伊香郡古橋村で田中吉政の手のものに捕まる。
 中仙道から関ヶ原に向かっていた、徳川家康の息子、秀忠が家康のいる大津城に到着。
9月23日  榊原康政の弁解により、徳川秀忠、父家康に面会を許される。
9月25日  石田三成、大津城に護送され、城門の柱に後ろ手に縛られて、つながれる。東軍諸将の罵倒をこのとき受ける。
9月26日  徳川家康、大津城を出発する。
9月27日  徳川家康、大坂城に帰城し、豊臣秀頼に戦勝の報告をする。
9月30日  最上氏を攻略中の直江兼続軍に関ヶ原の戦いの西軍敗報が届く。
10月1日  伊達、最上連合軍を前に直江兼続軍撤退を敢行する。
 最上義光の元に関ヶ原の戦い、東軍の勝報が届く。
 石田三成、京六条河原で首をはねられ、死去。享年41歳。
 小西行長、京六条河原で処刑。
 安国寺恵瓊、京六条河原で処刑。
10月2日  豊臣家臣、福原長堯、幽閉先伊勢国朝熊(あさま)で自害。
10月4日  西軍に属した豊後国臼杵城主、太田一吉が開城する。
10月12日  九鬼嘉隆、関ヶ原の戦いにおいて西軍に属したことを咎められるが、東軍に属した息子守隆のおかげで嘉隆の助命が許された。しかし、報が届く前に自刃。享年59歳。
この年の
出来事
 藤堂高虎、今張の地をを今治(いまばる)と改名する。