| 明智 秀満 | あけち ひでみつ | 左馬助、三宅弥平次。丹波福知山城主。五宿老の一人。1578年(天正6年)荒木村次に嫁いでいた光秀の娘、倫子が離縁されるとこれと再婚、明智秀満と名乗る。光秀の右腕として活躍。本能寺の変に際しては本能寺に織田信長を攻める。その後安土を守備するが山崎の合戦の敗北を知り光秀を援護に向かうが進軍してきた堀直政軍と交戦し敗北、ただ一騎琵琶湖を馬で渡り「左馬助の湖水渡り」として膾炙する。また坂本城入城後は包囲軍に城内の名物を目録と共に引き渡しあっぱれな武者として名を残す。その後一族と共に自刃したと伝わるがその子はその後も生き延び後細川家、寺沢家に仕えたという記録もありまた妻も再婚したという文献も残り事実は不明。一説に天海僧正は光秀ではなく秀満という説もある。 |
| 明智 光忠 | あけち みつただ | 治右衛門。丹波八上城主、若しくは周山城主という。五宿老の一人。一説には美濃明智城近在の農民の子だったとも。1575年(天正3年)の丹波国過部城攻めでは織田信長から感状を下され次右衛門を治右衛門に改める。本能寺の変に際し二条御所に織田信忠を攻めるが銃弾を浴び負傷、知恩院で療養中山崎の敗戦を聞き自刃したという。 |
| 明智 光秀 | あけち みつひで | 足利義昭を織田信長に引き合わせて、その後、信長の下で数々の武勲をあげ、出世するもわずかの供回りで本能寺に宿泊中の主君信長を討つ。本能寺の変を起こした理由は諸説あるが、未だ謎である。 |
| 明智 光安 | あけち みつやす | 斎藤道三と義龍の争いには道三方につき、敗れて美濃国明智城に籠城し、城と共に1556年(弘治2年)9月26日自害した。 |
| 磯谷 信介 | いそがや しんすけ | 吉田兼見の小姓逐電の際捜索を行う。 |
| 斎藤 利三 | さいとう としみつ | 母が光秀の妹になり、光秀の6歳下の甥になる。五宿老の一人。はじめ斎藤義龍に仕えた。後に稲葉一鉄の兄通勝の娘を妻とし、稲葉一鉄に属した。その後、織田信長に仕え、1580年(天正8年)光秀に仕え、1万石を与えられて丹波国黒井城主となる。本能寺の変、山崎の戦いに従い、敗戦後、近江国堅田で捕らえられ、斬られた。徳川家光の乳母春日局の父である。 |
| 並河 易家 | なみかわ えきいえ | 掃部。丹波衆。1576年(天正4年)の黒井城攻めの際、赤井・波多野の「呼び込み戦法」で明智軍が潰走した際に光秀を先導して無事京に帰還させたという。また八上城落城後は同城城代になるという。山崎では山手右翼先陣を務める。合戦中戦死。 |
| 藤田 行政 | ふじた ゆきまさ | 伝五郎。譜代衆。五宿老の一人。浅井・朝倉攻めから従軍。山城静原城攻め後、同城を預かる。山崎の合戦に際し筒井順慶の説得に向かうも不首尾に終わる。密かに順慶刺殺を目論んでいたといい、一説には郡山城で殺害されたとも。山崎では本陣右備を務め六ヶ所の傷を負い淀まで退却するも翌日自刃。 |
| 松田 政近 | まつだ まさちか | 太郎左衛門。丹波衆。山崎では山手右翼先陣を務める。先陣に抜擢されたのは地元山崎の豪族であったっため土地勘を買われたため、ともいう。 |
| 溝尾 茂朝 | みぞお しげとも | 庄兵衛。五宿老の一人。岐阜県可児市広見の出身で、光秀が織田信長に仕える以前からの家臣。1582年(天正10年)5月、光秀に従って徳川家康の接待役を務めた。本能寺の変後、勝竜寺城を守備する。山崎の戦いでは、光秀と共に退却。山科小栗栖で光秀が刺されると、介錯し、首を薮の中に隠して、坂本へ退却し明智秀満と共に、坂本城で殉死。 |
| 三宅 藤兵衛 | みやけ とうべい | 綱朝か。三宅弥平次(明智秀満)の父と伝えられる。光秀が朝倉家臣の時代から従っている家臣。本能寺の変時は勝竜寺城の留守居を務める。 |
| 與次 | よじ | 吉田兼見の元小姓。磯谷信介に発見され、その後溝尾庄兵衛の小者として仕えることになる。 |
