明智光秀の逸話 
 
内助の功 
  内助の功というと山内一豊・千代夫妻が有名だが、光秀夫婦にも同様な出来事があった。
 光秀が朝倉家に召抱えられて間もない頃の話である。重臣たちの連歌の会を催す当番を命じられ、その会には相応の酒肴が必要であった。しかし朝倉家に召抱えられて間もない話であったので、金銭がなく金策に走っても手に入らなくて非常に困った。そのとき煕子は女の命とも言える自慢の黒髪をばっさり切って金銭を手にいれ、連歌の会相応の酒肴を用意した。これを知った光秀は煕子の思慮のなさを叱り付けたが、非常に感謝した。
 
 水害から民百姓を救った
  光秀が丹波国を治め始めた頃、福知山は水害でひどく悩まされていた。しかし、光秀は丹波国を豊かにするには福知山を水害のない地にしなければいけないと考え、丹波国治世の第一歩として福知山の水害対策を行った。
 そのため、享保年間(1716年〜1736年)頃、福知山の町民が連署を集め、時の領主に光秀顕彰の請願をした。その内容は次のようなものであった。「福知山が水害から救われ、このように豊かな城下町になったのは、すべて、光秀公のお陰である。よって、御霊を祀り、感謝の祭を行いたい」というものであった。
 これによって、城下の榎の森に御霊神社ができ、光秀御霊は宇気母智神(うけもちのかみ)と合祀されることになる。このときに始まった三丹(丹波、丹後、但馬)一の秋祭りと言われる「御霊祭」は現在も続いている。
 
 他の部将への挨拶の仕方まで決められていた明智家中
  「明智光秀家中軍法」は18条から成っており、1条から7条までは、軍団の秩序と規律について記し、職掌の明文化を図り、陣夫の運搬食料の重量までも決めており、8条から18条までは、100石単位の禄高に応じた軍役の基準を明確にしている。
 また、「定家中法度」では武具の置場所から織田家中の他の部将への挨拶の仕方まで記してあった。
 それまで織田家中にはこのような整然とした軍法は存在していなかったので、他の部将もこれに倣い、家中軍法を作ったりするようになった。常識人光秀らしいことである。 
 
 信長との溝を作るきっかけとなった家中軍法
  「明智光秀家中軍法」の第4条に、「軍の行軍の時、騎馬武者が後になってしまっては、突然の戦になったとしても、差し当たっての役には立たない。考えのないことである。そのような場合には、早々に領地を没収し、時によっては成敗することとする。」と記されている。この4条をあるとき青年武者たちが犯してしまう。この青年武者たちは身分の低い者達で禄も少なかった。そのため、光秀は少ない禄を取り上げては働く意欲も無くすだろうと考え、特例で許すかわりにその分働いてもらうこととした。
 しかし、このことが信長の耳に入り、軍法通りに処断しなかったことに対してひどく叱責を受け、光秀と信長の間に徐々に溝が生じてきた。
 
 本能寺の変後の光秀の誤算      
  本能寺の変にて信長父子を計画通りに討ち果した光秀だが、光秀にいくつかの誤算を襲った。
1.瀬田城主山岡景隆が瀬田橋を焼き落として、甲賀へ逃げたため、天下人の象徴たる安土城へなかなか入ることができなかったこと。
2.光秀が安土城に入った頃には、安土城の留守を守っていた日野城主蒲生賢秀が信長の側室を伴って城を退去しており、光秀の勧誘を固辞したこと。
3.懇意にしていた細川藤孝、女婿である藤孝の子忠興が光秀に合力しなかったこと。
4.与力の筒井順慶も光秀に合力しなかったことをはじめ、畿内の部将が誰も光秀に味方しなかったこと。
5.毛利家と戦闘中であった羽柴秀吉が予想以上に早く京へ攻め上がってきたこと。
 これらの予想外の誤算により、光秀は秀吉にあっけなく敗北してしまった。
 
 武将の鏡となった明智秀満
  山崎の戦いにおいて敗北したことを知った、明智秀満は安土城から「左馬助の湖水渡り」を演じ見事坂本城へ入城を果たす。
 その後、寄せ手の堀直政に明智家の家宝の数々を天下の道具であるため、城と共に無くすのは明智秀満の本意ではないとし、直政に財宝の数々を引き渡した。
 しかし、その財宝の中に郷義弘(ごうのよしひろ)の脇差がなかったため、不信に思った直政は秀満に問いただすと、「郷義弘は我が殿日向守光秀が命と共に秘蔵してきた一品。死出の山にてお渡しするため、それがしの腰にござる」と答えたところ、直政も納得した。
 
 光秀と小豆
  甘党の光秀が領国であった丹波で小豆の栽培を奨励し、後に名産品となったことから、領内にある「小倉山」、「亀山城」に因んで、つぶ餡を「小倉」、汁粉(ぜんざい)を「亀山」と呼ぶようになった。という伝承がある。確かに、丹波産の小豆は「大納言」と称されるほどの一級品として知られているが、この伝承は傍証となるものが残されていないことから、残念ながら、歴史的信憑性はかなり薄い。
 しかし、こういった伝承の存在は今現在も尚、地元から光秀人気が消えていないということであろう。