豊臣家に殉死
片桐且元
1.名前と官位  
片桐 助作
(かたぎり じょさく)
(幼名) 
       ↓
片桐 直盛
(かたぎり なおもり)
       
片桐 且元
(かたぎり かつもと)
       ↓
片桐 東市正 且元
(かたぎり といちのかみ かつもと)
従五位下(じゅごいのげ)
 
  
2.親族 
   信州伊奈郡の出身で、為頼のとき近江国に移って伊香郡高月村に住んだ。
  祖先   為直
(ためなお:祖父)
 為頼の曽孫
 為直の時に浅井氏に使え、小谷城のふもとの須賀谷に屋敷を構えた。
 直貞
(なおさだ:父)
 孫右衛門
 姉川の合戦後、横山城に進出してきた羽柴秀吉の誘降により、いち早く織田方に寝返った。
 
  妻       
  兄弟 貞隆
(さだたか:弟)
 石見守
 大坂夏の陣の戦功で大和国小泉1万2千国を領し、その家は茶道石州流の家元として現在も続いている。
 貞昌の娘は徳川家康の家臣本多正純の弟忠郷に嫁ぐ。
 
  息子 孝利
(たかとし:嫡子)
 徳川家康の一族、伊奈忠政の娘を娶る。
元包
(もとかね)
 且元の死後遺領を継ぐが、1638年(寛永15年)に38歳で死去。
為元
(ためもと)
 兄、元包の急死後、特命により大和国竜田で1万石を与えられた。
    
3.概要    
   はじめ豊臣秀吉に仕え、1583年(天正11年)、賤ヶ岳七本槍の一人として活躍、3千石を与えられた。その後、九州・小田原に従軍、文禄の役には朝鮮に渡り、また諸国の検地奉行や方広寺作事奉行としても活躍し、秀吉の晩年を1万国を領した。1598年(慶長3年)、秀吉の死の直前に秀頼付奉公人・側近の監察を命じられ、以後秀頼に近侍した。関ヶ原の戦後も徳川家康の信任をうけ、茨木城主となり、翌年加増されて大和竜田藩に移った。以後、秀頼の名代・使節として家康と接触し諸種の奉行を勤めるなど多様な活動を行ったが、1614年(慶長19年)、方広寺の鐘銘事件が起ると、且元の行動は淀殿から疑われ、大坂城を退去して茨木城入った。大坂夏の陣後、加増を受け最後は大和国・河内国・山城国・和泉国で4万石を領した。
 1615年(元和元年)5月28日、自刃。享年60歳。
    
4.エピソード   
     
 
    
5.殿批評    
  戦略  ★★★  賤ヶ岳の合戦以降、目立った軍功はなく、内政面で活躍したようである。
  武勇 ★★★★  賤ヶ岳の七本槍に挙げられていることから、それなりの武勇はあったと思われる。しかし、それ以降は戦場に出る機会が少なかったこともあるが、ほとんど武勇を讃えられるような活躍はしていない。かなり甘めの四ツ星である。
  政略 ★★★  諸種の奉行を卒なくこなしていることから、政略としての才能も人並み程はあったようである。
  人望 ★★★★  賤ヶ岳の戦いを除いては、目立った活躍をしていないにも関わらず、秀吉より秀頼の傅役を任されるというのは、人望としてはあったに違いない。
  総評 ★★★★★  賤ヶ岳の合戦以降、目立った活躍をせず、秀吉の晩年に秀頼の傅役を任されるも、百戦練磨の徳川家康の術中にまんまとはまっている。武将としては並である。
  ★★★★★:人並み外れて優秀 ★★★★:人並み以上 ★★★:人並み ★★:人並みより劣る :人並み外れて不得手
※総評のみ10段階評価
 
    
 6.殿語る...    
   片桐且元と言えば、言わずと知れた賤ヶ岳の七本槍の一人であり、晩年は秀頼の傅役として有名である。
そんな名を歴史に残している武将なのに、それ以外はあまり知られていない。何故、そのようになったのか、賤ヶ岳の七本槍という武功を挙げながらも、それ以降の武功は何故ないのか。それは賤ヶ岳の戦いに勝利を収め、天下の実権をほぼ手中に収めた豊臣政権の中で、且元は賤ヶ岳の七本槍という武功を挙げながらも、石田三成達のような奉行職についてしまうからだ。そのため、武功は挙げられないばかりか、加藤清正、福島正則達の出世を横目でみながら、畑違いの職場で奉公するしかなくなったのである。
 しかし、もし且元が奉行職につかず、戦場を駆け続けたらそれなりに出世はしただろうが、秀頼の傅役などは任されず、関ヶ原の戦いで東軍について、正則のように潰されていくのが関の山であろう。では、何故秀吉は且元を奉行職につけたのであろうか。それは且元のまじめさが武将ながらもあったからではなかろうか。武功で身を立てた武将がいきなり奉行職につかされても、それなりの成果を挙げているのは、且元なりにまじめに取り組んだ成果と思う。そして秀吉も自分の死後、秀頼を任せたのはその且元のまじめさを買ったのであろう。しかし、そのまじめさが豊臣家を滅ぼす要因となったのも事実である。