
天守と隅櫓 |
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| 1.別名 | 積翠(せきすい)城 | |||||
| 2.所在地 | 岐阜県郡上市八幡町柳町一の平659 | |||||
| 3.城の種別 | 山城 | |||||
| 4.築城者 | 遠藤盛数 | |||||
| 5.築城年 | 1559年(永禄2年) | |||||
| 6.遺構 | 城跡 | |||||
| 7.天守閣の構造 | 木造4層5階(昭和8年10月再建) 木造再建城としては最古。 |
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| 8.簡単な沿革 | ||||||
| 1559年(永禄2年)遠藤盛数が八幡山に砦を築いた。その後1583年(天正13年)岐阜城主神戸信孝が柴田勝家と謀って羽柴秀吉に反抗したとき、城主盛数の子慶隆は信孝に味方した。そのため、秀吉は慶隆を加茂郡小原城主に左遷、稲葉一鉄の子貞通を八幡城主とした。1588年(天正16年)城主として入城した稲葉貞通は山頂に天守台を作って本丸とし、また山腹には二の丸を構えるなど、大修築を行なった結果が今に伝わる城の構えと伝えられている。 1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの折には、岐阜城主織田秀信が西軍に味方したので、貞通も犬山城に入って東軍に備え、郡上八幡城は末子通孝が僅かの家臣と共に守っていた。一方、先の城主遠藤慶隆は東軍に味方することに決め、親族の金森可重の助けを求め、9月1日郡上八幡城に攻め込んだ。攻防の末、翌2日には城方が攻城軍に降伏する。 犬山城にあった貞通は郡上八幡城の急を聞き、急ぎ兵を集めて八幡城に急行。翌3日には八幡に到着した。その朝は霧が深くて遠展がきかず、また、和議成立直後のため、遠藤勢は貞通の反撃を予想していなかったため、急襲された遠藤勢は大混乱となり、慶隆は金森勢の陣中に逃げ込む形となり、貞通はなんなく入城することができた。しかし、翌日には和を乞い、貞通は髪を剃って謹慎の意を表した。 その後、慶隆は関ヶ原に向かう。戦後稲葉氏は豊後国臼杵に移封。11月上旬慶隆は晴れて郡上八幡城を受け取り、郡上郡2万7千石を領有、城の修築を行なった。 遠藤氏、井上氏、金森氏を経て青山氏が入り明治維新を迎える。 昭和8年天守台跡に模擬城として天守・隅櫓・高塀を建て、今日に至った。天守台一帯の石垣は、昭和30年岐阜県史跡に指定され、貴重な文化遺跡となっている。 |
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| 9.歴代城主 | ||||||
| 年代 | 歴代城主 | |||||
| 1559年(永禄2年) 〜1562年(永禄5年) |
遠藤盛数 | 承久時代よりこの地方で栄えてきた東氏を滅ぼして八幡山に城を築いて移ったのが郡上八幡城の始まりとされる。 | ||||
| 1562年(永禄5年) 〜1588年(天正16年) |
遠藤慶隆 | 1562年(永禄5年)10月14日盛数が死去。その子三郎四郎慶隆が13歳で2代目として継ぐ。 1564年(永禄7年)慶隆が美濃国井之口に滞在中、一族の胤俊は不意を襲って八幡城を奪い、慶隆とその弟慶胤へ叛旗をひるがえした。慶隆は急を知り戻り、美濃国関城主永井道利(慶隆の母の再縁先)の助けで八幡城を奪い返した。敗軍の将となった胤俊は木越城をその弟胤基に譲ると剃髪して出家し八幡城下の宗祇水のそばに草庵を結んで棲んだ。のち慶隆は織田信長の配下となり姉川の戦いをはじめ各地に転戦して戦功を挙げた。 |
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| 1588年(天正16年) 〜1600年(慶長5年) |
稲葉貞通 | 1588年(天正16年)慶隆は岐阜城主織田信孝に通じていたので豊臣秀吉に疎まれ美濃国加茂郡小原に移され、八幡城には美濃国安八郡曽根から稲葉一鉄の子稲葉右京亮貞通が封ぜられた。貞通は八幡城の大改築を行なった。この改築の結果が現在の城の様子と伝えられる。 | ||||
| 1600年(慶長5年) 〜1632年(寛永9年) |
遠藤慶隆 | 1600年(慶長5年)徳川家康に願い出て飛騨国金森可重の援軍を受け9月1日八幡城の稲葉通孝を攻めた。翌2日和睦をすることになる。そのころ犬山城にあった稲葉貞通は八幡城が包囲されたとの報をうけ、急遽兵をまとめて9月4日の明方慶孝の愛宕山本陣を奇襲した。慶隆は小野山の可重の陣に危うく逃れ、貞通は難なく八幡城に帰城した。しかし、翌日には和を乞い、貞通は髪を剃って謹慎の意を表した。 関ヶ原の戦いに慶隆は遊軍として参加し、11月には慶隆は再び八幡城主に返り咲いた。一方稲葉貞通は豊後国臼杵へ封ぜられた。 |
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| その後、遠藤氏、井上氏、金森氏、青山氏と城主がかわり明治維新を迎える。 | ||||||
| 10.ご案内 | ||||||
| 見所 | 東海北陸道から見えるように小高い山にそびえる天守。この天守は木造再建天守として日本最古ということもあり、再建天守であるにも関わらず、内部は相応の貫禄があり、構造も2階部が拭きぬけになっており、見応えとして意外にある。また、城郭も隅櫓が2基ついており近くからみても外観は重厚感が結構ある。 天守の石垣には風雨に絶え続けた松の木があるが、天守からみると景色の妨げになっているため、少々やっかいである。 売店近くには折れた黒松がある。これは落雷から天守を守ったとされ、「お助けの松」と呼ばれている。 天守の麓には内助の功で知られる「千代」と「山内一豊」の銅像がある。この銅像の意味は実は千代が初代城主遠藤盛数の娘であるためである。 |
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| 入城料 | 大人 | 300円 (20名以上の団体は250円) | ||||
| 小人 | 150円 (20名以上の団体は100円) | |||||
| 開城時間 | 午前9時〜午後5時 (6月〜8月:午前8時〜午後6時) (11月〜2月:午前9時〜午後4時30分) | |||||
| 休城日 | 12月20日〜1月10日 | |||||
| アクセス | 鉄道 | 長良川鉄道 郡上八幡駅 | ||||
| 車 | 東海北陸道 郡上八幡ICより10分 | |||||
| 地図 | ||||||
| 11.城に関する逸話・伝説 | ||||||
| 人柱「およし」について | ||||||
| 1559年(永禄2年)に築城された八幡城は、八幡城の合戦などを経て石垣も崩れ落ち、大修理を加えなければならない時期が訪れた。多くの人々の努力により修復が重ねられたが、急斜面の工事は困難を極めた。 この時神路村(かみこむら:現大和町神路)の百姓吉兵衛の美しい一人娘のおよしは、進んで石運びにも加わり、人々に勇気を与えた上、遂に自分の身を捧げてこの城を守ろうと心を定め、「人柱」となって地中に入った。 およしは数え年17歳であったと伝えられている。 |
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| お助けの松 | ||||||
| 売店付近にある松で、平成7年7月27日雷の直撃を受けて枯れ、平成11年1月に現存の高さにして残した。この松のおかげで郡上八幡城は難を逃れることができた。 | ||||||
| 力石 | ||||||
| 1667年(寛文7年)城主遠藤常友が城をするためから領内から多数の人夫を集めたとき、その中の一人である大和町の作兵衛(通称、赤髭)が城下の河原から背負ってこの地まで運びあげたものである。(重さ約350kg、長さ約1m、厚さ約30cm)奉行の村上貞右衛門がその力量の優れているのをみて激賞すると彼は感涙し、たちまち力尽きてその場で卒倒し息絶えてしまった。 奉行は憐れに思ってこの石の使用を禁じたが、昭和8年に天守を建設する際この石が草の中にすてられているのを見た古川七兵衛氏が作兵衛の心根が世に忘れたれたのを嘆き、碑として安置した。 |
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| 12.感想 | ||||||
| 平成17年4月16日 土曜日 快晴 | ||||||
| 突然、訪れることになった郡上八幡城である。前日まで天気もよく桜もきれいということで高遠城・丸岡城・富山城など迷った挙句、郡上八幡城に決定した。 郡上八幡城は高速から何回か見たことはあったが、実際に行くのは初であったので、どんな所か楽しみだったが、到着してみると期待以上のものであった。ちょうど春まつりなるものも開催していて御輿も出ていて町はお祭気分で活気に満ち溢れていた。その町並みも昔ながらの城下町で城に登城する前に満足感でいっぱいになった。町並みはどちらかというと高山に似ており、小京都をそのものであった。 駐車場に車を止めて30分ぐらいかけて坂道をのぼり天守まで辿り着いた。途中、千代と一豊がいる桜のきれいな公園で写真を撮った。そこから見る天守もきれいでそれだけで予想を上回る感動であったが、天守に到着し、中に入ると単なるきれいな博物館になっているのではなく、木造の階段でその階段も犬山城などの急な階段ではないが、ある程度急な階段で個人的にはかなり感銘を受けた。中は1階から2階の部分が拭き抜けになっており、かなり凝ったデザインがまた気に入った。最上階には薪が割れてその中に”日本一”の文字が書かれていたという神秘的なものもあった。天守内で何よりも気に入ったのが全国の城(と言っても一部だが)パンフがあったのがすごくうれしかった。天守の外には城を雷から守ったという松の木もあり、中には人柱の伝説となった女性の供養碑もあり、神秘感溢れる城に大満足であった。 |
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| 平成21年4月11日 土曜日 晴れ | ||||||
| 歴史ブームでここも前回きたときよりも人が多くて驚きだった。それよりも驚いたことは車で天守の近くまでやっとの思いで辿り着いてからことで、ナント天守の石垣からニョキと生えていた松の木がなくなっていたのだ。入城口で係りの人に聞いてみると、害虫にやられてしまい、切ることに至ったそうだ。確かに石垣のところでバッサリ切られていた。無残な姿であった。天守へ上がると中も若干資料が変わっていた。最上階へ上がると今まで松の木があったところがなくなっていたので、見晴らしはよくなっていた。それにしても天守の石垣から松の木が生えているなんてものすごく珍しかったのに、なくなってしまって残念である。 | ||||||
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