松山城
堅牢な要塞
修築中の松山城天守
5.築城年
4.築城者
3.城の種別
2.所在地
1.別名
金亀城
愛媛県松山市丸の内1
平山城
8.簡単な沿革
勝山城
siroyaguradeirigutihe
7.天守閣の構造
加藤嘉明
1602年(慶長7年)
6.遺構
天守、乾櫓、野原櫓等7棟、紫竹門、戸無門等門塀14棟(重要文化財)、山全体(史跡)
木造3層3階、地下1階、本瓦葺
 関ヶ原の合戦において、戦功のあった加藤嘉明は伊予国20万石を得た。その戦功により、嘉明は1602年(慶長7年)に道後平野の勝山に築城を開始した。翌1603年(慶長8年)に嘉明は新城下に移り、名を松山と改めた。その後も工事は継続され、24年後の1627年(寛永4年)になってようやく完成した。しかしその直後、嘉明は会津若松藩へ転封となり、蒲生氏郷の孫、忠知が入国する。しかし忠知もしばらくすると病没。このとき、蒲生家は嗣子がないことを理由に、断絶となる。その後、伊勢国から松平氏が入国し明治維新まで、松平氏が藩主を務める。1870年(明治3年)三の丸が全焼。1872年(明治5年)には二の丸全焼。1933年(昭和8年)小天守、南北隅櫓、多聞櫓が放火のため焼失。1945年(昭和20年)乾門、太鼓門一帯が戦災により焼失。1968年(昭和43年)小天守、南北隅櫓、多聞櫓、十間廊下を復興。1982年(昭和57年)乾門同東続櫓復興。1984年(昭和59年)艮門同東続櫓復興。1986年(昭和61年)巽櫓復興。
9.歴代城主
年代 歴代城主
1603年(慶長8年)
〜1627年(寛永4年)
加藤嘉明  1602年(慶長7年)道後平野の勝山に加藤嘉明が築城を開始。翌年嘉明は新城下に移り、名を松山と改めた。
1627年(寛永4年)
〜1635年(寛永12年)
蒲生忠知  1627年(寛永4年)加藤嘉明が会津若松へ転封となったため、その代わりに蒲生忠知が入る。
 1635年(寛永12年)忠知が病没。蒲生家は嗣子がないことを理由に断絶。その後、伊勢国から松平氏が入国。明治維新に至るまで松平氏が藩主を世襲。
10.ご案内
見所 天守曲輪、本丸、二の丸の石垣が現存。失われた建築類も木造でほぼ復元されている。天守曲輪の天守群はまさに要塞と呼ぶに相応しい。
入城料 ロープウェイ 往復 片道
大人 500円 260円
小人 250円 130円
城閣入城料 大人 500円
小人 150円
開城時間 9:00〜17:00(2月1日〜7月31日・9月1日〜11月30日)
9:00〜17:30(8月1日〜 8月31日)
9:00〜16:30(12月1日〜 1月31日)
休城日 12月29日
アクセス 鉄道 JR予讃本線 松山駅下車 徒歩10分
松山道松山IC〜国道33号線
地図
11.感想
平成18年9月18日 日曜日 曇りのち晴れ
 松山城は下調べで大天守が修築工事中ということを知っていたが、逆に言うとこういう状態もなかなか見られるものではないと思い、結局行くことにした。また、この城は、やはり現存天守ということ、ウェブ上で城サイトを見ていると、国宝でないことがおかしい等高い評価を受けている城であることを含めると今回の旅ではぜひとも行っておきたい城となる。今回は時間の関係上ロープウェイで山頂付近まで一気にあがり、そこから見学という形をとった。
ロープウェイを降りて、天守を目指すと早速、立派な石垣が目に飛び込んできた。そしていくつものの櫓、門を抜けながら、城郭の中をグルッと回ると天守に到着するという構造である。山頂にある地形を利用した防御、それに加えて天守へ行くためにはいくつものの櫓、門を突破しなくては辿り着けないように工夫がなされていることからこの城が難攻不落な城であることは想像に難くない。また黒壁が威圧感、重厚さを出していた。本丸へ着くと天守群が見えるが、このときはやはり工事中で足場だらけになっており、外観はほとんどわからない状態だった。受付を済ませると大天守が工事中で外の景色を見られない分、一般公開していない小天守を公開しているので、そこから景色を楽しんでくださいとのことだった。一般公開していない小天守に入れる分得した気分になった。天守群の中は至る箇所で工事中の養生、足場があり、城本来の雰囲気はかなり損なわれていた。城内は現存天守だけあり、かなり満足できる内容だった。雰囲気としては姫路城に似た感じがした。次回はやはり、工事中でないときに是非来たい。