鎌倉時代から那古野今川氏の居城として存在していた。
1532年(天文元年) 3月11日 当時、那古野城主であった今川氏豊が織田信秀に城を奪われる。【※1】
1534年(天文3年) 5月12日 織田信長が誕生する。
1552年(天文21年) 3月3日 織田信秀病没し、織田信長が家督を継ぐ。
1555年(弘治元年) 4月20日 織田信長が叔父織田信光と結び、尾張下四郡守護代織田信友の清須城を攻略し、居城を那古野から清須城に移る。
11月26日 替わって、織田信光が守山城から那古野城へ入るが、織田信光は家臣坂井孫八郎に殺される。
信光死去後は重臣の林秀貞が留守居役を命ぜられる。
1582年(天正10年) 織田家家臣、明智光秀により織田信長横死(本能寺の変)
このころ、那古野城も廃城となる。
1609年(慶長14年) 徳川家康の命により、那古野城跡地に名古屋城が天下普請で築かれることが決定する。
1610年(慶長15年) 1月9日 徳川家康が西国諸大名に名古屋城の普請役を命じる。

織田信秀による那古野城の奪取の時期は1539年(天文8年)という説もある。

【その他の説】
織田信秀が那古野城を奪った方法として、今川氏豊が主催する歌会に招待されたときに、わずかの人数で城内を混乱させ、その混乱に乗じて城を奪ったとされるが、氏豊は当時12歳とされており、12歳の子が歌会を催していたことが疑問視されている。
また、那古野城近くの天王社、若宮八幡社が兵火によって、焼失したあと、1539年(天文8年)に再建されたという伝承もあることから、信秀による那古野城奪取は1539年(天文8年)と考えられるようになってきている。

※1:

〜那古野城の歴史〜