4.築城年
3.築城者
2.城の種別
1.所在地
愛知県新城市野田
山城
菅沼定則
1505年(永正2年)
野田城址に建つ石碑
6.簡単な沿革
5.遺構
堀、金堀衆があけた穴
1505年(永正2年)菅沼定則が野田の根小屋に館を構えたのが最初。1555年(弘治元年)作手の奥平、田峰、長篠の菅沼氏らが今川氏を離れ、織田氏に通じたため、今川氏はこれを攻めた。今川氏に従った定村はこの戦で討死する。子の定盈は桶狭間の合戦以降、徳川氏に従う。1570年(元亀元年)武田信玄の攻撃を受け、落城するが、この戦いを最後に信玄は病により死去している。また、この戦いに信玄が狙撃されたという話も伝わる。伊勢山田の村松芳休なる笛の名手が籠城中、毎夜笛を吹いた。敵も味方も笛の音にひかれた。2月2日の夜、鉄砲の名手、鳥居三左衛門が鉄砲を仕掛けた。笛にうかれて竹に近寄った人影をねらった。それが信玄であったという。
7.歴代城主
| 年代 |
歴代城主 |
|
1505年(永正2年)
〜1544年(天文13年) |
菅沼定則 |
1505年(永正2年)野田城を築く。
1516年(永正13年)防衛上、難があることから新しく野田城を築く。
1544年(天文13年)家督を長男定村に譲る。 |
1544年(天文13年)
〜1556年(弘治2年) |
菅沼定村 |
1544年(天文13年)父定則より家督を譲られる。
1555年(弘治元年)今川氏に従い、織田氏に通じた奥平氏を攻めるが、討死。 |
1556年(弘治2年)
〜1573年(元亀4年) |
菅沼定盈 |
1561年(永禄4年)桶狭間の戦いにより、今川義元が討死すると、今川氏を離反し、松平氏についた為、今川氏に攻められ、野田城を退去する。
1562年(永禄5年)定盈は夜襲により、野田城を奪回するも、大破していた為、応永年間に築かれた砦を大野田城と定め、野田城の修復がなるまで、ここを本拠とした。
1571年(元亀2年)武田氏の家臣、山県昌景・小笠原信嶺らの襲来により、大野田城を退去。定盈は修復中の野田城を再び本拠とする。
1573年(元亀4年)武田信玄に攻められる。水の手を絶たれて、援軍も期待できなかった為、定盈は城を開城する。 |
8.ご案内
| 見所 |
本丸と二の丸跡の形態は比較的良く残り、二の丸跡からは散策道がある。本丸跡と二の曲輪跡との間には空堀と土橋が残っていて、土橋を渡ったところに「野田城址」の碑が建つ。この碑の少し奥に武田信玄が水抜きを行ったという井戸がある。 |
| 入城料 |
無料 |
| 開城時間 |
― |
| 休城日 |
無休 |
| アクセス |
鉄道 |
JR飯田線・野田城駅下車徒歩約20分 |
| 車 |
東名高速・豊川ICから約20分 |
| 地図 |
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9.感想
平成18年4月1日 土曜日 曇り
桜淵公園に行った帰りに野田城址に立ち寄った。野田城址はいろいろ調べてみると、武田信玄が最後に城攻めを行なった城で、鉄砲で信玄が撃たれた伝説が残る城でもあり、一気に興味がわいて楽しみにして行った。城址は土塁が残っているが、その為整備がほとんどされておらず雑木林でいっぱいになっていた。その中でも本丸跡は多少整備されていたが、二の丸、三の丸はとても中に入って探索することは困難だった。本丸と二の丸の間のところに看板があり、その案内図に金堀衆の穴の跡があって一度中にはってみると、発見できなかったので、もう一度案内図をみてから中に入ってみると、本丸跡内の道からそれたところを探してみると、鉄柵で囲ったものが見えたので、近寄ってみると、大きく穴があいており、金堀衆が掘った穴が今も健在していることを目の当たりすることができ、感動もひとしおだった。武田信玄が狙撃されたと伝説が残る城跡だったが、その伝承となる地は発見できなかった。