

4.築城者
2.所在地
1.別名

6.遺構
7.天守閣の構造
1535年(天文4年)宮川吉左衛門尉安定の創築と伝える。一柳伊豆守直末の城主時代、豊臣秀吉の意をうけて天守閣が創建された。(1588年完成)
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦では西軍の総帥石田三成の本拠となり、戦後、徳川譜大名が次々に配置されたが、1635年(寛永12年)戸田氏鉄が摂津尼崎から入封して以後は、11代にわたり戸田氏の治政が続いた。
1936年(昭和11年)国宝に指定されたが、1945年(昭和20年)7月、戦災のため惜しくも焼失。1959年(昭和34年)に市民の浄財により昔の姿に再建された。
| 年代 | 歴代城主 | |
| 1500年(明応9年) 1535年(天文4年) |
竹腰尚綱 宮川安定 |
築城年、築城者については2説にあり、いずれともはっきりしない。 |
| 1549年(天文13年) 〜1590年(天正18年) |
織田信秀が、この地を手に入れて以来、織田氏、竹腰氏、氏家氏、池田氏、三好氏、木下氏、加藤光泰、一柳氏、羽柴氏の八氏が入れ替わっている。 1563年(永禄6年)、氏家直元が、本丸、二の丸の二郭しかなかった城に、松の丸を加えて、櫓ならびに総囲を築いて城を堅固にする。 1585年(天正13年)、一柳直末(ひとつやなぎ ただすえ)が豊臣秀吉の命に従い、天守を建てる。 |
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| 1596年(慶長元年) 〜1600年(慶長5年) |
伊藤祐盛 | 伊藤祐盛の手により1596年(慶長元年)に天守は改修される。 |
| 1600年(慶長5年) | 石田三成 | 関ヶ原の合戦の前に、大垣城に迫る。このときの大垣城主伊藤盛宗は城明渡しに一度は拒む。しかし、西軍に囲まれてどうすることもできず、開城。 城に入城した石田三成は、ここで来るべき決戦の作戦会議をこの城で何度も行う。しかし、東軍が到着し、三成の居城佐和山城を攻める構えを見せたため、この城に、三成の娘婿、福原長尭を城代において、関ヶ原に向かう。 関ヶ原の合戦で、勝利を得た東軍は大垣城に攻め込む。城内で裏切りが続出するも、長尭のみが奮戦を続けるも、城兵の死を許すことを条件に降服勧告を受け入れ、剃髪して自刃した。 |
| 1601年(慶長6年) 〜1635年(寛永12年) |
1601年(慶長6年)、石川康通が入城する。 1613年(慶長18年)、石川忠総のとき、八幡郭の総堀、高橋脇竹島町南の総堀を造る。 石川氏の後に入った、松平氏は忠良の代のときに天守を改造して、現在伝わる天守閣となる。 その後、城主は岡部氏、松平氏と続く。 |
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| 1635年(寛永12年) | 戸田氏鉄 | 摂津国尼崎から戸田氏鉄が入城して、明治維新まで代々、戸田氏が城主を務める。 |
この日大垣城では、大垣博と言われるイベントが、関ヶ原合戦400周年を記念して、この年の大河ドラマ”葵 徳川三代”にちなんで行われていて、結構な盛り上がりを見せていた。ますは、東芝DVD館に行って家康編、三成編二通りを見た。それから、大垣城の天守閣に登り中を見た。中は展示室になっており鎧、兜等が展示してあった。その中でも、主にして展示がしてあったのが、歴代の戸田氏の大垣城主の紹介だった。それから、土産横丁を通り、決戦関ヶ原館に行った。中は大河ドラマ”葵 徳川三代”の紹介だった。まずは、登場人物、関ヶ原合戦の一日、武器の紹介、大河ドラマの途中までのダイジェストのビデオ放映だった。武器の紹介では武器が実際に手に持つことできたが、鉄砲の大きいものなど、最初、肩に担いでたら、係りの人に脇に抱えて持つと言われた。それ程の重量感があった。昔の人の体力がそのことから、かなりあったということが実感できた。それから大垣市郷土館に行ったが、戸田氏からの歴代の大垣城主の経歴等で、あまり、パッとしなかった。
この日はこれで帰ったけど、大垣博がやってなかったら、ホントに何もないところだなーと思った。大垣城自体が関ヶ原合戦、賤ヶ岳合戦以外は戦国期にあまり、登場する機会がなかったからかなーと思った。(私の知識不足でごめんなさいm(__)m。
もし、戦国期で大垣城に関することを知っている人が教えてください。)
しかし、大垣城が戦災にあう前に国宝に指定されていたことには驚きだった。戦災にあう前の大垣城にいってみたかったなー。この日はタイトルの下にある写真と天守閣をとったのがあるんだけど、天守閣を撮ったのは、私のカメラの腕の未熟さで、天守閣の上部がきれてしまっているので、大垣城の写真はタイトルの下のみです。(v_v)
天守閣を撮りに大垣方面に遊びに行くときにゲットしたいと思います。大垣城の収穫では、大垣博のパンフの一部と入場券とスタンプを載せています。
なお、今回の壁紙の模様は代表城主が戦国期では、代表と言える人物が見当たらなかったので、1635年から11代に渡って、城主を歴任した戸田氏の九曜紋を使いました。