
南北朝の頃、越後に土着した新田一族が築いたと言われ、滅亡後、守護上杉氏の支城となり、長尾氏が起こるとその一族、上田長尾氏の本拠となった。
この長尾氏が歴史上に登場するのは、長尾為景が上田庄の管領家勢力を一掃してからで、長尾房長、政景父子としかわかっていない。上杉謙信の跡を継いだ景勝は政景の息子であったが、政景が死去してからは謙信の養子となり、春日山城に入った。景勝が春日山城に入ってからは、坂戸城は上杉氏の番城となった。上杉氏会津移封後は一時堀氏の支城として堀直寄が在城。1614年(慶長19年)直寄の信濃国飯山移封とともに廃城となった。

| 年代 | 歴代城主 | |
| 1512年(永正9年) 〜1552年(天文21年) |
長尾房長 | 1512年(永正9年)長尾房長(景勝の祖父)による坂戸城の本格的な築城 1514年(永正11年)越後守護の上杉定実派の上杉定憲が坂戸城を攻める(六日市合戦)。 1535年(天文4年)長尾為景派の下平久長が坂戸城を五十沢口から攻める。(天文の乱) |
| 1552年(天文21年) 〜1564年(永禄7年) |
長尾政景 | 1564年(永禄7年)長尾政景(景勝の父)、野田尻の淵において、水死。 |
| 1564年(永禄7年) 〜1575年(天正3年) |
上杉景勝 | 1575年(天正3年)上杉景勝、上杉謙信の養子となり、春日山城に入る。坂戸城は上杉氏の支城となる。 |
| 1575年(天正3年) 〜1598年(慶長3年) |
上杉氏 | 1578年(天正6年)上杉謙信が急死。上杉景勝と景虎の養子同士の家督争いが勃発(御館の乱)坂戸城にも北条勢が景虎の援軍で攻めよせるが、落城せず。 1598年(慶長3年)上杉景勝会津国に移封。 |
| 1598年(慶長3年) 〜1606年(慶長11年) |
堀直寄 | 1598年(慶長3年)堀直寄が上杉氏の跡を引き継ぎ入城。 1600年(慶長5年)堀直寄、関ヶ原の合戦に伴う越後一揆勢に攻められた下倉城を救援。 1606年(慶長11年)堀直寄、長岡の蔵王堂城主が病没したため、蔵王堂城主を兼任。そのため、蔵王堂城を居城とし、坂戸城は代官をおく。 |
| 1606年(慶長11年) 〜1610年(慶長15年) |
堀氏 | 1610年(慶長15年)堀家内紛により坂戸城は没収。堀直寄は改めて飯山4万石を与えられる。これにより坂戸城は廃城となり、現在に至る。 |
長尾政景の居城。上杉景勝、直江兼続の故郷で知られる城である。見るからの山城で頂上までは1時間ほどかかるとのこと。御年寄も一緒だったので、頂上までは諦めていたが、とりあえず行ってみるだけ行ってみようということで行くと、麓に駐車場があり、そこから先は徒歩で行くようになっていた。車止めがあったので、そこから先は無理だなと思って地図を見ていたら、近くに石碑があったので走って見てこようと思っていたが、、車止めを外して業務用の車が通って行くので、ダメもとで係りの人に年寄りがいるので、近くまで車で通してくれないかと交渉したら、快諾してもらった。車で石碑があるところまで上がっていった。道は車一台しか通れないような狭さだった。それでも少し走ると目的地へ辿り着いた。早速車から降りて写真を撮ろうとしたら虻等の虫がいっぱいいて、流石山城だと思った。石垣も残っており、山全体が居住空間と砦を兼ね備えていたのが、十分に窺い知ることができた。次回来るときは山城スタイルで虫があまりいない時期に行きたい。

土塁、石垣
南北朝時代
新田氏
山城
新潟県南魚沼郡六日町町坂戸
御館跡に建つ坂戸城跡石碑