天下第一の桜
高遠城
6.遺構
5.築城年
4.築城者
3.城の種別
2.所在地
1.別名
兜山城
甲山城
長野県上伊那郡高遠町東高遠
平山城
武田信玄
石垣、空堀、土塁、郭跡、城門、太鼓櫓(明治時代に再建)
1547年(天文16年)
桜に彩られた桜雲橋・問屋門
7.簡単な沿革
 この地方は古くから諏訪氏の勢力圏にあり、南北朝期には名族高遠氏が支配したが、天文年間に武田信玄の侵略にあい、旗下に属した。遠江国進出を狙う信玄は1547年(天文16年)家臣の秋山信友、山本勘助らに高遠城の拡張・改築を命じた。築城にあたっては、築城技術に長けた山本勘助が指揮したと伝えられるが、これは「勘助曲輪」が城絵図等に記されていることによる。
 信玄の死後、1582年(天正10年)織田信忠の攻撃に対して武田勝頼の弟仁科盛信が城主として決死の防戦を努めたが、盛信を含めて城兵全て戦死という壮絶な戦いの末、落城している。その後、保科氏、毛利氏城代、京極氏城代が居城した。江戸幕府成立後は再び保科氏が城主となり、鳥居氏、直轄領、内藤氏と変遷して明治維新を迎える。
8.歴代城主
年代 歴代城主
 南北朝時代のはじめ諏訪氏の惣領信員が高遠城主となり、高遠氏の祖となったが、1545年(天文14年)7代目の高遠頼継が武田信玄に滅ぼされた。
1547年(天文16年)  武田信玄は高遠城の大改修を秋山信友、山本勘助らに命じる。
1556年(弘治2年)
〜1562年(永禄5年)
秋山信友  1556年(弘治2年)完成した城に一族の秋山信友を入れて城主とする。
1562年(永禄5年)
〜1570年(元亀元年)
武田勝頼  1562年(永禄5年)秋山信友が飯田城へ移り、武田勝頼が城主となる。また、この年、武田勝頼の母諏訪御料人が高遠にて死去する。建福寺に葬る。
 1568年(永禄11年)武田勝頼は高野山成慶院を高遠領内庶民の宿坊に決める。 
1570年(元亀元年)
〜1581年(天正9年)
武田信廉  1570年(元亀元年)武田勝頼は甲府に帰り、武田信廉が城主となる。
 1573年(天正元年)武田信玄は長野県下伊那郡駒場で没し、武田氏の領地は武田勝頼の支配となる。
1581年(天正9年)
〜1582年(天正10年)
仁科盛信  1581年(天正9年)武田信廉は大島城に移り、北安曇仁科郷森城の城主仁科五郎盛信が高遠城主となる
1582年(天正10年)
〜1590年(天正18年)
保科正直  1582年(天正10年)織田信忠が高遠城を攻め、城主盛信以下城兵全員戦死を遂げる。
 1585年(天正13年)松本城主小笠原貞慶が高遠城の保科正直北信出陣の不在に乗 じ高遠へ攻め入るも鉾持桟道の戦いで敗走する。
1590年(天正18年)
〜1593年(文禄2年)
毛利秀頼
城代
(毛利勝斉)
 1590年(天正18年)保科正直が下総の多胡に移る。高遠は飯田城主の毛利秀頼が管轄することとなり、城代によって統治される。 
1593年(文禄2年)
〜1600年(慶長5年)
京極高知
城代
(岩崎重次)
 1593年(文禄2年)毛利秀頼が没し、高遠は飯田城主京極高知の領有となり、城代がおかれた。
1600年(慶長5年)
〜1631年(寛永8年)
保科正光  1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの際、保科正光は徳川家康に属し浜松城の守備を命ぜられ、戦後、越前一国の支配を命ぜられた。この年11月保科正光は多胡から旧領高遠城主となり、二万五千石を与えられる。
 1601年(慶長6年)保科正直が没し、高遠の建福寺に葬られる。
 1616年(元和3年)将軍徳川秀忠の命により、徳川家光の弟、 正之を保科正光の養子とする。
 以後、保科氏、鳥居氏、直轄領、内藤氏と変遷して明治維新を迎える。
9.ご案内
見所  建造物として現存するのは藩校進徳館のみだが、明治時代に太鼓櫓が再建されている。また曲輪、堀などが築城当時の形を残している。高遠城の魅力は城址を埋め尽くすコヒガンザクラ。4月下旬の桜の季節は絶景が広がる。
入城券 大人(15歳以上) 小人(15歳未満)
個人 500 250
団体(30人以上) 400 200
開城時間
休城日
アクセス 鉄道 JR飯田線/伊那市駅・伊那北駅下車 バス25分
JRバス高遠線/JR高遠駅下車 徒歩15分
中央自動車道/諏訪ICより国道152号で50分
伊那ICより国道361号で30分
地図
高遠城址と言えば、天下第一の桜と称される程、美しい桜が咲き乱れるが、この桜はそもそも、荒れ果てたままになっていた高遠城址をなんとかしようと、旧藩士たちが馬場の桜を城址に移植したのが始まりという。しかし、地元では「1582年(天正10年)の高遠城攻防戦で散った者たちの血を吸っているので、これほど綺麗な桜になった」と語られている。
 去年高遠城の桜を見に行こうとして、結局郡上八幡城へ行ったので、一年越しで高遠の桜を見ることとなった。
高遠の桜は天下一と呼ばれており、どうせならと見頃の日を選んで行った。この日はインターネットによると見頃だったので期待していくと、高遠の桜が遠くから見えるところから車の列がずっと並んで1時間以上車の中に缶詰状態だった。その間、上空からヘリで高遠の桜を見れるヘリが何往復もした。長い渋滞を抜け、ようやく車を止めて階段を上って歩く事30分ぐらいしてようやく桜の森へやってきた。この辺りで山の上に城があったことが実感できる。はじめについた桜の森は三の丸跡で二の丸、本丸等がある園内に入ると想像以上の桜の数に驚いた。一応城跡ということではあるが、完全に桜の名所が優先している感じであった。しかし、その中でも堀の跡、櫓などがあり、城跡としてみても遺構が結構あることがわかる。しかし、桜の中で見ると桜に圧倒されて景色の一部としか映らないとても不思議な感じがした。忘れてはいけないのだが、二の丸は武田と織田が死闘を繰り広げて桜の色は戦没者の血を吸って色づいているとも言われている。
10.城に関する逸話・伝説
11.感想
天下第一の桜
平成18年4月22日 土曜日 晴れ