


| 年代 | 歴代城主 | |
| 南北朝時代のはじめ諏訪氏の惣領信員が高遠城主となり、高遠氏の祖となったが、1545年(天文14年)7代目の高遠頼継が武田信玄に滅ぼされた。 | ||
| 1547年(天文16年) | 武田信玄は高遠城の大改修を秋山信友、山本勘助らに命じる。 | |
| 1556年(弘治2年) 〜1562年(永禄5年) |
秋山信友 | 1556年(弘治2年)完成した城に一族の秋山信友を入れて城主とする。 |
| 1562年(永禄5年) 〜1570年(元亀元年) |
武田勝頼 | 1562年(永禄5年)秋山信友が飯田城へ移り、武田勝頼が城主となる。また、この年、武田勝頼の母諏訪御料人が高遠にて死去する。建福寺に葬る。 1568年(永禄11年)武田勝頼は高野山成慶院を高遠領内庶民の宿坊に決める。 |
| 1570年(元亀元年) 〜1581年(天正9年) |
武田信廉 | 1570年(元亀元年)武田勝頼は甲府に帰り、武田信廉が城主となる。 1573年(天正元年)武田信玄は長野県下伊那郡駒場で没し、武田氏の領地は武田勝頼の支配となる。 |
| 1581年(天正9年) 〜1582年(天正10年) |
仁科盛信 | 1581年(天正9年)武田信廉は大島城に移り、北安曇仁科郷森城の城主仁科五郎盛信が高遠城主となる |
| 1582年(天正10年) 〜1590年(天正18年) |
保科正直 | 1582年(天正10年)織田信忠が高遠城を攻め、城主盛信以下城兵全員戦死を遂げる。 1585年(天正13年)松本城主小笠原貞慶が高遠城の保科正直北信出陣の不在に乗 じ高遠へ攻め入るも鉾持桟道の戦いで敗走する。 |
| 1590年(天正18年) 〜1593年(文禄2年) |
毛利秀頼 城代 (毛利勝斉) |
1590年(天正18年)保科正直が下総の多胡に移る。高遠は飯田城主の毛利秀頼が管轄することとなり、城代によって統治される。 |
| 1593年(文禄2年) 〜1600年(慶長5年) |
京極高知 城代 (岩崎重次) |
1593年(文禄2年)毛利秀頼が没し、高遠は飯田城主京極高知の領有となり、城代がおかれた。 |
| 1600年(慶長5年) 〜1631年(寛永8年) |
保科正光 | 1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの際、保科正光は徳川家康に属し浜松城の守備を命ぜられ、戦後、越前一国の支配を命ぜられた。この年11月保科正光は多胡から旧領高遠城主となり、二万五千石を与えられる。 1601年(慶長6年)保科正直が没し、高遠の建福寺に葬られる。 1616年(元和3年)将軍徳川秀忠の命により、徳川家光の弟、 正之を保科正光の養子とする。 |
| 以後、保科氏、鳥居氏、直轄領、内藤氏と変遷して明治維新を迎える。 | ||