1.名前と官位  
丹羽 まんちよ
(にわ まんちよ)
(幼名) 
        ↓

丹羽 五郎左衛門 長秀
(にわ ごろうざえもん ながひで)
       ↓
丹羽 越前守 長秀
(にわ えちぜんのかみ ながひで)

       ↓
丹羽 惟住 越前守 長秀
(にわ これずみ えちぜんのかみ ながひで)
 
  
2.親族 
  祖先 長政
(ながまさ:父)
 
織田信長の養女(姪)
 
   兄弟
  息子 長重
(ながしげ:長男)
 
    
3.概要    
   1535年(天文4年)尾張国春日井郡児玉村に斯波家の臣、丹羽長政の子として、誕生する。
 1550年(天文19年)長秀16歳の時に、織田信長に仕えることになる。その後、信長と共に美濃攻め、姉川の戦い等、各地を転戦する。
 1571年(元亀2年)磯野員昌(かずまさ)が籠城していた佐和山城を落城させると、員昌の後に佐和山城を与えられる。この時、初めて一国一城の主となった。
 1582年(天正10年)本能寺の変の折には、四国討伐のため、織田信孝の副将として、堺にいた。その後、羽柴秀吉とともに山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いを戦うが、主家である織田家をないがしろにする秀吉の振る舞いに不満を抱く。
 1585年(天正13年)4月16日、持病が悪化し、切腹をする。享年51歳
    
4.エピソード   
  長秀のいやがらせ   
  長秀は晩年、主家である織田家をないがしろにする秀吉を苦々しく思っていた。しかし、持病が悪化してきたので、憤激の中、切腹をする。このとき、病根である握り拳大の結石を取り出し、遺書と共に秀吉に送り届けたという。
    
5.殿批評    
  戦略  ★★★  主君織田信長の命令を堅実にこなしたが、特に目立った功績もなく、失敗もないところから、人並みであったのだろう。
  武勇 ★★★  特筆する武勇伝がないことから武士としては一般的な程度。
  政略 ★★★★  米五郎左と呼ばれたことから、どちらかと言えば政務的なことが得意だったのかもしれない。
  人望 ★★★★  武勇、政略共に特筆するものがない長秀が、織田信長、羽柴秀吉に一目置かれていたのはやはり歴史には語られない人望があったのだろう。
  総評 ★★★★★
 戦闘、政務共に特筆するものがないごく一般的な武将であった長秀だが、個性の強い織田軍団の中では、長秀のような武将が各武将間の潤滑材のような役割をして、織田軍団をうまく調整していたのではないだろうか。
  ★★★★★:人並み外れて優秀 ★★★★:人並み以上 ★★★:人並み ★★:人並みより劣る :人並み外れて不得手
※総評のみ10段階評価
 
    
 6.殿語る...    
   丹羽長秀、一口で言うと非常に地味な武将である。武勇伝もなければ、政務的なもので逸話があるわけでもない。そのような長秀が米五郎左と呼ばれた。米というものは当時の日本では主食である。米がなくては生きていけないのである。すなわち長秀がいないと織田家は立ち行かなくなるということである。では何故、長秀がそのような米に例えられたかを考えてみると、一つに周囲の武将の個性が強すぎて長秀という人物があまり表に出てこなかったのではないかということが考えられる。もし、煩悩な武将なら織田信長により佐久間信盛、林通勝のように追放されてもおかしくないのである。それなのに、安土城築城の普請奉行、信長が本能寺で倒れる直前には四国征伐の総大将を務める織田信孝の副将をも任されている。それらを考えると、もし、長秀が織田家ではなく、他家へ仕えていたならもっと歴史に名を残すことができたのであろう。しかし、活躍する同僚を尻目に織田家内で潤滑材の役割をして、織田家を縁の下から支えていたのである。それが長秀が米五郎左と呼ばれる所以なのであろう。
    
         
    
米五郎左と呼ばれた男
丹羽長秀