織田信長の逸話
 
信長が呼ぶと、百人の家臣が返事をする!?
 信長という人物は家臣からも大変恐れられていたらしい。宣教師フロイスが信長と会見したときの様子を記した手紙によると、信長がちょっと手で合図をしただけで、家臣達は獅子の前から逃げるようにしていなくなり、誰かを呼ぶと、部屋の外で百名もの家臣が返事をしたという。
 信長の声は甲高いと言われているから、どこにいても聞こえたのかもしれないが、家臣達は気難しい信長にビクビクしながら仕えていたのだろう。
 
実は優しい人、信長!
 信長という人は比叡山の焼き討ち、一向一揆の徹底とした虐殺などで、なにかと残虐なイメージがあるが、そんな信長にも優しい一面があった。
それは羽柴秀吉の妻おねが、秀吉の浮気性に腹を立て、信長に相談したときのことだった。後日、信長はおねにおねを気遣う、手紙を送っている。その内容の一部を紹介すると、「とりわけそなたの眉目(みめ)のよさ、姿かたちはいつぞやお会いしたときよりも十も二十も若く美しく見えた。それなのに藤吉郎(秀吉の昔の名前:とうきちろう)はなにかと不平不満を並べ立てるとのこと。まったくとんでもないことだ。どこを捜しても、そなたほどの女性はいない。あのはげネズミ(秀吉のあだな)にはできすぎた女房なのだから、今後は気持ちを明るくもって、いかにも奥方らしく堂々と振舞うこと。やきもちなどを焼くのはそなたらしくない。やめるように。ただし、夫の世話をするのは女の役目なのだから、言いたいことも少しは我慢しないといけない。」
 このようにおねに大変を気を使った手紙を書いている。これからもわかるように信長は残虐非道のように言われるが、こういった優しさも信長は持ち合わせていたのであった。
 
信長は戦国時代を100年短く終わらせた!
 信長がした合戦は数多くあるが、その中でも代表とされるものの中に長篠の合戦がある。この合戦はそれまで、の騎馬武者主体の合戦ではなくて、鉄砲をうまく使った鉄砲主体の合戦であることが特徴にあげられると思う。それまでの合戦でも鉄砲は使われていたのだが、当時の鉄砲はどうしても弾込めに時間がかかるということで、諸国の大名は脅し程度にしかつかっていなかったのである。しかし、信長の三段撃ちにより、戦争の仕方がそれからは鉄砲主体の合戦になり、今までの合戦よりもすぐに決着がつくようになった。
 もし、合戦の仕方が騎馬武者主体の斬り合いの合戦だと、戦国時代は終わるのにあと100年はかかっていると言われている。
 
理解力抜群の信長
 1580年(天正10年)、宣教師オルガンチーノから「地球は丸い」と教えられたとき、「理にかなう」と言ってすぐに納得した。地球が丸いことを理解できた最初の日本人である。信長にはこういったズバ抜けた理解力があったのだろう。
 
年少期の奇行ぶり
 織田信長は周知の通り天下統一まで目前まで迫った人物だが、年少期はかなりのヤンチャぶりを発揮していたようだ。そのヤンチャぶりから「うつけ殿」(ばかもの)と呼ばれる始末だった。そのやんちゃぶりをいくつか紹介しよう。

1.信長は普段、髪は茶筅髷、金銀をちりばめた派手な色の鞘の太刀を携え、腕には麻縄を巻き、腰のまわりには、火打ち袋や、ひょうたんをつけ、虎と豹の皮を染め合わせた袴という格好で町を練り歩いていた。
2.父、信秀の葬儀では、喪主であるにも関わらず、遅れてきて、さらには普段着で入り込んできて、父の位牌に抹香を投げつけて、そのまま出て行ったというのだから、参列者はさぞかし驚いただろう。
 
民衆には優しかった
 信長が上洛して、ある日のこと。信長の足軽の一人が、通りかかった女性をからかうという出来事が起こった。たまたま、その工事現場に視察に来ていた信長はその足軽に近づくと、自らの刀で足軽の首を刎ねた。これは、その昔、京に上洛を果たした木曽義仲の軍勢が京の人々に乱暴、狼藉を働いたため、京の人々は信長が上洛したとき、木曽義仲の再来かと恐れ慄いた。しかし、民衆に安心感を与えるために、信長自らが行動を持って、示したのである。
 
信長もヒヤリ
 1570年(元亀元年)は信長にとって災難な年になった。この年、浅井家と同盟を組んだ信長は朝倉家を攻めていた。しかし、突如として、浅井家に裏切られ、信長は挟撃される形になった。それを知った信長は単騎、陣を払い、退却をする。なんとか、命からがら京に着き、一安心と思い、安堵して岐阜に戻るその途中、近江千草峠で、信長は狙撃される。弾は当たらず、信長は無事であったが、この信長を狙撃したものは、当時、南近江を支配していた、六角承禎(ろっかく じょうてい)の命令で杉谷善住坊(すぎたに ぜんじゅうぼう)という鉄砲の名手が狙撃したらしい。上洛を果たして、天にも昇る勢いの信長を狙撃するとは、やはり鉄砲の名手でも緊張して狙いが外れたようだ。