戦国の風雲児
織田信長
1.名前と官位  
織田 𠮷法師
(おだ きっぽうし)
(幼名) 
(0~13歳)
       ↓
織田 三郎 信長
(おだ さぶろう のぶなが)
(13~18歳)
       ↓
織田 上総介 信長
(おだ かずさのすけ のぶなが)
(18~33歳)
       ↓
織田 尾張守 信長
(おだ おわりのかみ のぶなが)
(33~35歳)
       ↓
織田 弾正忠 信長
(おだ だんじょうちゅう のぶなが)
(35~42歳)
       ↓
織田 信長
(おだ のぶなが)
(42~49歳)
 
  
2.親族 
  祖先  信秀
(のぶひで:父)
病没
  土田御前
(母:正室)
   
  濃姫
(正室)
生駒吉乃
(きつの:側室)
坂氏
(側室)
   兄弟  信広
(のぶひろ:兄)
信行
(のぶゆき:弟)
長益
(ながます:弟)
  信包
(のぶかね:弟)
その他数人の兄弟  
  息子  信忠
(のぶただ:長男)
母は生駒吉乃
信雄
(のぶかつ、のぶおともいう:次男)
母は生駒吉乃
信孝
(のぶたか:三男)
母は坂氏
  秀勝
(ひでかつ:四男)
勝長
(かつなが:五男)
信秀
(のぶひで:六男)
  冬姫
(長女)
徳姫
(次女)
徳川家康の嫡男信康の正室
その他男子7人、女子11人の子供
    
3.概要    
   1534年(天文3年)、信秀の子として生まれる。幼年期はあまりの粗暴な行動により尾張のうつけ者(ばか者)
と評される。しかし、信秀の病死により織田家の家督を相続すると、家臣団の統一、尾張国内の統一
を果たす。
 1560年(永禄3年)、大軍を率いた今川義元を10分の1の兵数で桶狭間(桶狭間合戦)において打ち破るとその
名を天下に轟かす。その後、戦国の有力武将を次々と滅亡させ、畿内(きない:近畿地方一帯)を平定し、信長自身が助けて足利幕府15代将軍につけた、足利義昭(あしかがよしあき)を追放し、足利幕府を滅亡に追い込むなど、比叡山延暦寺の焼き討ちを行い、天下統一まであと一歩と迫る。
 しかし、1582年(天正10年)中国地方を攻略中の羽柴秀吉を救援に向かう際、宿舎とした本能寺を明智光秀に襲われ、切腹。享年49歳
    
4.エピソード   
  信長は小さい頃から切れやすかった!   
  乳児の頃、信長は乳母の乳首をかみ切るので何人も乳母が交替したほど、癇の強い強い子だったと言われる。しかし、池田恒利(つねとし)の後室養徳院夫人が乳母になると、乳首をかみ切らなくなったという。
    
5.殿批評    
  戦略  ★★★★★  桶狭間の戦いの情報力からの1/10の兵力で勝利を得たり、長篠の合戦の鉄砲3段打ち、木津川河口での甲鉄船等、敵が思いもよらない戦略を立てるのは、新しい戦略を築いた点で素晴らしい。
  武勇 ★★★★  幼少の頃より、水練、鷹狩、遠馬など、体を鍛えていた。本能寺の変では自ら弓、槍を取って奮戦しているところを見ると、武勇もなかなかの物だったのだろう。
  政略 ★★★★★  楽市楽座、関所撤廃、撰銭令、徳政令、室町幕府を滅亡させたり、キリスト教の布教の許可など、中世の名ばかりの権力を全て、打ち壊して、独自の政策を打ち出して国を富ませた、その政略は戦略のように新しい発想が随所に入っており、素晴らしい。
  人望 ★★★★  超カリスマ的なリーダシップで家臣を引っ張っていたのは、目を見張るものがある。しかし、尾張国を統一するのに肉親と戦ったためか、猜疑心が強かった。そのため、疑わしき者は徹底的に処罰する、そのやり方に家臣は恐れ慄いた。そのため、明智光秀、荒木村重のように、明日は我が身と思い詰めて背く者も絶えなかったのも事実である。
  総評 ★★★★★
★★★★★
 長い戦乱は終息に導いたのは、信長の新しい発想力だったとは明らかである。また、彼の存在により、信長の事業を引き継ぎ日本を統一した豊臣秀吉、江戸幕府を開き日本に2世紀に渡る平和をもたらした徳川家康が、世に出ることができたのであるから、信長なくして戦国時代は語れず、また、日本に平和が来るというのも、もっと先になっただろう。
  ★★★★★:人並み外れて優秀 ★★★★:人並み以上 ★★★:人並み ★★:人並みより劣る :人並み外れて不得手
※総評のみ10段階評価
 
    
 6.殿語る...    
   信長は室町時代までの古い形式をすべて破壊して、新しく合理的な社会を作っていった人である。しかし、そこにいたるまでは多くの犠牲をがあった。また、古い形式と言っても、当時はそれが常識だったわけだから、信長の行動が理解できなかった人もたくさんいたのだろう。そのことが本能寺の変を生んだ原因の一つにもなるだろう。
 しかし、信長の新しく合理的な発想力が戦乱を終息に導いたのは、否めない。その後の秀吉、家康は信長のやり方を学んで、それに手を加えたことでを日本を統一したのだから。そう考えると、秀吉、家康というのは先人のやり方に手を加えるというところで、現代の日本人に似ているが、信長は全く新しいことを考える点で、日本人らしからぬ、日本人だったのだろう。
 また、人間は死様というので、その人の輝かしい功績も灰燼と化してしまうことがあるが、信長はあまりにも潔い死に方であったので、もし、信長が生きていたら・・・なんて考えさせてしまうところが、やはり信長の魅力だろう。
 そんな信長の存在というのは、歴史を知っている我々からしてみると、信長がいないと後に天下を統一した豊臣秀吉は世にでることもできず、一生農民、もしくは雑兵。徳川家康は三河の一大名で終わったのではないかと思う。とにかく、信長の存在は戦国時代を早く終わらせる要因になったことは間違いない。
    
         
    
5.殿批評