武田信玄の逸話
 
なんとも情けない姿の信玄
 戦国時代は衆道(男色)が武士のたしなみとされていた。信玄も例外ではなく信玄26歳、1546年(天文15年)源助に対する信玄の浮気の釈明書状が残されている。その中で信玄は「自分は弥七郎(浮気相手)と一度たりとも夜伽をさせたことはない。この前もなく、昼も夜も伽をさせたことはない。今夜なんてとんでもない。源助と仲良くしたくて手を尽くしているのに、かえって疑われてしまう。神仏に誓ってなにもない」と書いている。なんとか修羅場を抜けるため懸命に源助に取り繕う姿は主君とは思えないほどである。源助は高坂弾正(春日虎綱)とされてきたが、近年では別人の可能性のほうが強いらしい。
 
人の目は当てにならぬもの
 信玄が少年期他家に嫁いでいた姉が貝合わせという遊びに使うためのハマグリの貝殻を4000個も送ってきた。すると信玄はその貝殻を小姓たちに数えさせた後、床にばらまいた。重臣らを呼び集め「この貝殻はぜんぶでいくつあると思うか」と質問をしたところ、家臣達は「1万5000」、「2万」など口々に答えた。一通り家臣達の回答を聞き終えた後、「人の目は当てにならぬもので大量にあると実際より多く見えてしまう。つまり1万、2万の大軍をそろえる必要はなく、5000の兵がいれば心のままに戦ができるのだ」と発言し、周囲を大いに関心させたという。
 
父に愛されなかった信玄
 信玄の父信虎が乗っていた名馬鬼鹿毛(おにかげ)をあるとき、信玄がねだったところ、「元服のときに譲ろう」と断られ、なおも食い下がると「この父の言うことが聞けないのか!嫌ならば弟の信繁に家督を継がせ、お前を追放する」と激怒されてしまった。
 また、ある年の正月大勢の家臣が居並ぶ祝いの席において、信虎は嫡男である信玄を差し置いて、先に信繁に盃を与えたとも伝えられる。信虎を追放して家督を強引に継いだ経緯はこういったことが積み重なって自身の将来を危ぶんだ要素もあると言われている。
 信玄の嫡男義信を切腹させていることもこの自身の行いがわが身に降りかかるのではという思いに至ったのかもしれない。
 
大将慈悲を、なさるべき儀、肝要なり
 『大将たるもの慈悲の心を持つことが大切だ」という意味。
 情け深い大将にこそ、人が集まり強くなると考えのことです。このエピソードとして以下のようなことが言い伝えられています。
 信濃侵攻において、信玄は押収した敵の兵糧を信濃の人々に分け与えるように指示。不満の声をあげる家臣たちに信玄は「信濃の諸将は農民から厳しく年貢を取り立てて、商人の財宝をむさぼり神社仏閣にも負担を強いることが長く続いていた。この兵糧を民衆に返し、武田の戦いは信濃の民を幸せにするためのものだと知らせれば、人々は我々を日夜待ち望むようになり、合戦でも労力を費やさずにこの国を治めることができるだろう」と言い、領民を手なずけることの大切さを説いた。
 
組織はまず管理者が自分を管理せよ
 『上に立つ者は家臣の手本となるように、まず自分を管理しなければならない』という意味。
 これは甲斐を統治にするにあたり信玄が制定した法律「甲州法度之次第」は軍事、司法、行政、全般にわたるもので土地所有や年貢徴収に関する細かい規定が明記されていた。この法律で特筆すべきは「自分にこの法度の趣旨に反する行いがあったら、誰でも訴え出よ」と信玄自らも法を遵守することが最後の条文に明記されている点であり、信玄は家臣、領民に守らせるのではなく、自分も守るから自分に見倣い、守るように言っているのである。
 
出家の理由
 武田晴信から武田信玄に出家したのは突然の出来事であった。突然の出家宣言に驚く家臣たちに信玄は次のとおり説明している。
1.名門の武田家がつぶれないように仏に誓うため
2.今までは上り調子だったが、今後下り調子に入るという占いが出たので、それを防ぐため
3.都から遠い甲斐にいても高い位を得るため
 
およそ戦というものは、五分をもって上とし、七分をもって下とす。五分は励みを生じ、七分は怠りが生じ、十分は驕りを生ず
 『五分の勝利であれば励みの気持ちが生まれ、七分の勝利なら怠けた心が生じ、完璧に勝ってしまうと敵に侮り驕りの気持ちがうまれてしまう』という意味。
 信玄が勝ちすぎによって生まれる油断を戒めるために述べた言葉。 
 
人は少し鈍い者を仕入れたほうがよい
 意味としては元々頭が切れる者は自信過剰で能力を鼻にかける傾向がある。そのため、部下に対しても反抗的で扱いにくい。野心を抱いて謀反の恐れもある。むしろ、頭が多少鈍いくらいの者を鍛え上げて使える人材にした方が素直でずっと使い勝手のよい部下となる。という人の使い勝手の妙を心得た信玄らしい言葉である。
 
100人のうち99人褒められる者は善き者にあらず
 意味としては100人のうち、99人が褒めたとしても、その99人は本当に自分の意思で褒めているのだろうか。他人の意見に流されていないだろうか。残りの一人は自分の意見をしっかりと持っている人であろう。この残りの一人に褒められることなくして善き者にあらずという意味。大多数の者は周りの意見に流されてしまいがちですが、みんなと違うことを述べる人こそ自分にとって必要な意見を言う人だということです。だからこの残りの一人の意見も尊重して周りと協調性をとって100人みんなが納得をできる判断を下すことができるように組織のトップに立つ者は常に心掛けないといけないと組織のトップに立つ者を心構えを説いています。
 
一生懸命だと知恵が出る。中途半端だと愚痴が出る。いい加減だと言い訳が出る。
 物事に一生懸命取り組めば自然と工夫し、知恵が出る。中途半端だと責任転嫁をしてしまい愚痴が出る。いい加減に取り組めばそれを隠そうと言い訳が出る。という意味。常日頃から真剣に考え取り組んでいるからこそ、何気ないことが気づきにつながり、工夫できるというもの。プロ野球選手として数々の記録を残した大谷選手もこの言葉をある番組で紹介されていたので、正に体現していると言えるでしょう。
 
したいことをするな、嫌なことを先にせよ
 やりたいことだけして嫌なことを後回しにするな、嫌なことから先にしなさいという意味。
 この言葉は武田信玄が家臣を叱咤激励する際に使った言葉と言われています。現代の仕事にも通じる言葉ですが、人間、自分のしたいこと、簡単なことを優先して行い、面倒なことはどうしても後回しになりがちです。ですが、嫌なこと、面倒なことほど本当に必要なことも多いため、本当に重要なことを優先して行うことが大事ということを言っています。なかなか分かっているけど、実行に移せない難しいことです。
 
為せば成る 為さねば成らぬ 成る業を成らぬと捨つる人の儚さ
 『努力すれば実現できる。実現できることであっても、やる前からあきらめてしまうところに人間の弱さがある』という意味。
この名言は元は中国の古典「書経』からとったものと言われています。そこには『慮(はか)らずんばなんぞ獲(え)ん 為さずんばなんぞ成らん」と書かれています。意味は「考えないと何も得られないが、考えるだけでもいけない。きちんと行動しなければ、目標を実現できない」という意味です。
 これに似た名言で「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」という言葉があります。意味は「強い意思を持って行えば必ず実現できる。結果が伴わないのは意思をもって行動しないからだ」です。これは江戸時代の米沢藩主上杉鷹山が残した言葉ですが、武田信玄の言葉を参考にしたと言われています。
 かつて川中島で雌雄を決した先祖のライバルの言葉を参考にしているとは不思議な縁ですが、良い言葉は形を変えて語り継がれるとは正にこのことだと思います。
 
一日ひとつずつの教訓を聞いていったとしても、一月で30ヶ条になるのだ。これを一年にすれば、360ヶ条のことを知ることになるのではないか
 『毎日コツコツと努力をすれば、いずれ大きな成果につながる』という意味。簡単に言えば、継続は力なりです。が実践はわかっていても難しいものです。
 
人間にとって学問は、木の枝に繁る葉と同じだ
 『人間は木の幹のようなもので、学問は幹から生えた枝や葉のようなものだ」という意味。
 武田信玄は常々家臣に対して「武術だけではなく学問をすべきだ」と言っていた言います。しかし同時に「学問ばかりでもいけない。枝や葉が多く繁る木は魅力的だが、それだけではいけない。幹となる人間の本質が大切である」ということを言っています。
 武田信玄は家臣に対して人間性がしっかりしていてバランスのとれた人間になるように教育していたのでしょう。
 一流のアスリートは勤勉で自分のウィークポイントを分析して克服するトレーニングをし、試合中は周囲の環境を常に観察、判断しながらプレイをしているとも聞いたことがあります。
 
もう一押しこそ慎重になれ
  『あと少しで成し遂げる時こそ慎重になるべし』という意味。
 この言葉は信玄が自分自身に向けて語った言葉です。当時の武田信玄は甲斐国を手中に治めてさらに勢力を伸ばして信濃国の統一を目の前にしていました。当初は武田信玄が優勢だったものの、結果は惨敗。優秀な家臣も多く失いました。このことから自戒の念をこめて自分に言い聞かせるようにしたと言われています。現代にも通じる言葉です。
 
老人には経験という宝物があるのだ
 『年老いても経験という宝物がある』という意味。
 ある時、若いころに名をはせた武将に対して武田信玄が「私の話し相手になってもらえませんか」とお願いをしました。
 しかし、その武将は「私は年をとって隠居した身です。」と言って断ったそうです。
 それに対して信玄は「老人には皺と皺の隙間に経験という大切な宝物が潜んでいる。どうかその宝物を私のような後に続く世代に役立てて頂きたい」とお願いをしたと言われています。隠居したその武将はこの言葉を聞き、喜んで話をしてくれ、信玄はその武将の言葉をすべて書き留めたと言われています。
 
三度物を言って三度言葉の変わる人間は嘘をつく人間である
 『三回説明をして、三回とも回答が変わる人間は嘘をついている人間である」という意味。
 武田信玄は常日頃から領地内の村や山、木の茂り具合などをよく覚えておき、知らないふりをして人々にいろいろ尋ねていたそうです。
 三回尋ねて三回答えが変わるものは嘘をつく人間だと判断して、そばに寄せ付けなかったと言われています。このように武田信玄は常に相手の言動を観察することでその人間が本当に信用できるかを常日頃から観察していたということになります。人を大事にしていた信玄だからこそ信用における人かを見定めていたということだと言えます。
 
信頼してこそ、人は尽くしてくれるものだ
 『自分から相手を信頼してこそ、相手が尽くしてくれる』という意味。
 武田信玄は普段から家臣に対して忠誠を求めるのではなく、自ら家臣を信頼していました。信用できる人を傍におき、信頼を寄せれば、おのずと家臣が自らの為に働いてくれるということを知っていたと言えます。
 
甘柿も渋柿も、ともに役立てよ
 『そのまま食べられる甘柿も役に立つが、渋柿も干し柿にすればおいしく食べられる。人間も同じで使い方によって役に立つ』という意味。
 武田信玄は自分にとって苦手な人でも、使い方によって役に立つと考えていました。家臣をよく観察して、その人が最も活躍できる場所に配置する。現代でいう適材適所を実践していたと言えます。
 
負けまじき軍に負け、亡ぶまじき家が亡ぶるのを、人はみな天命という。それがしに於いては天命と思わず、みな仕様の悪しきが故と思うなり
 『負けるはずのない戦に負け、滅ぶことのない家が滅ぶことを、人はみな天命という。しかし、自分はそれが天命だと思わない。みなそのやり方が悪いため負けるのだ』という意味。
 武田信玄は結果には原因があると考え、常に考察を続けていました。都合の悪いことを仕方がなかったと諦めるだけでは、成長がないということをよく理解していました。失敗するということは必ず失敗した原因があります。その結果だけでなく、結果をもたらすに至った原因を考え、次の行動に活かしていくことが何よりも重要だと思っていたのでしょう。現代でいうPDCAサイクルです。P(Plan:計画)、D(Do:実行)、C(Check:評価)、A(Act:改善)の4ステップを繰り返して業務、プロジェクトを継続的に改善していくことを武田信玄は実践していたということです。
 
戦は40前には勝つように40過ぎたら負けないようにすべきだ
 『若いときには勝つことを心掛けて経験を積み、老いてきたら経験を活かして負けないように守りに入る』という意味。
 この言葉は常に攻めるのではなく、後人に託すという引き際がいかに大切かを説いています。