

| 1.名前と官位 | |||||||
| 武田 太郎 (たろう) (0〜16歳) ↓ 武田 晴信 (はるのぶ) (16〜39歳) ↓ 武田 徳栄軒 信玄 (とくえいけん しんげん) (39〜53歳) |
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| 2.親族 | |||||||
| 祖先 | 信虎 (のぶとら:父) |
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| 大井夫人 (母:正室) |
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| 妻 | 三条夫人 (正室:三条公頼娘) |
女 (正室:上杉朝興娘) |
諏訪御料人 (側室:諏訪頼重娘) |
香林院 (側室:油川氏娘) |
女 (側室:祢津甚平娘) |
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| 兄弟 | 信繁 (のぶしげ:同母弟) |
信廉 (のぶかど:同母弟) |
定恵院 (じょうけいいん) (今川義元正室) |
南松院 (なんしょういん) (穴山信友正室) |
竹松 | ||
| 犬千代 | 信是 (のぶこれ) (松尾信賢養子) |
宗智 (そうち) |
信実 (のぶざね:異母弟) |
信竜 (のぶたつ:異母弟) |
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| 信友 (のぶとも) |
祢々 (ねね) (諏訪頼重正室) |
亀 (大井信為正室)) |
菊 (菊亭晴季正室) |
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| 息子 | 義信 (よしのぶ:長男) |
信親 (のぶちか:次男) 目が不自由 |
信之 (のぶゆき:三男) 早世 |
勝頼 (かつより:四男) |
盛信 (もりのぶ:五男) (仁科盛政養子) |
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| 信貞 (のぶさだ:六男) (葛山氏元養子) |
信勝 (のぶかつ:七男) |
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| 娘 | 黄梅院 (おうばいいん) (北条氏政正室) |
見性院 (けんしょういん) (穴山信君正室) |
万理姫 (まりひめ) (木曽義昌正室) |
松姫 (まつひめ) |
菊姫 (上杉景勝正室) |
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| 3.概要 | |||||||
| 1521年(大永元年)、甲斐国守護である武田信虎の長男としてこの世に生を受ける。信玄21歳のときに父親信虎を国外追放するというクーデターを起こし、武田家の当主につく。信濃国に侵攻の折には上杉謙信と5度にわたり川中島で対峙するも謙信とは決着は着かないまでも、信玄が信濃国を収めるという形で謙信との戦いは終える。謙信との戦いの一方、桶狭間の戦いの敗戦により弱体化した今川家を攻め、領土拡大を果たしている。 晩年は足利義昭の要請を受けて、織田信長包囲網を築きつつ西上作戦を敢行。途中、三方ヶ原の戦いにより織田信長の盟友である徳川家康を撃破して信長の首元まで刃を突きつける一方手前で発病してしまう。回復が見込めないと判断し、甲斐国に帰る途中駒場で病没。享年53歳。 信玄は内政面でも多数を功績を残しており、釜無川の氾濫対策として現在にも残る信玄堤という堤防を築いたり、山地が多く、兵糧の確保が難しいとみるや金山開発を手がけて、甲州金を残すなど現在にも残る功績を多数残している。 |
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| 4.エピソード | |||||||
| 人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり | |||||||
| 信玄はこの言葉とおり生涯、本拠地には城を築かず、簡素な躑躅ヶ館に住んだ。なお、この言葉は武田信玄の重臣高坂正信が信玄の功績を後世に残すべく大部分を著した「甲陽軍鑑」に記された治国安民の方針である。意味は「民こそが国家の基盤であり、情をもって接すれば堅牢な城となるが、粗末に扱えば国を滅ぼす災厄になる」という意味。 | |||||||
| 5.殿批評 | |||||||
| 戦略 | ★★★★★ | 若年の頃は村上義清との戦いで砥石崩れなどの大敗をしているが、それ以外は大きな敗退はしていない。三方ヶ原の戦いの傭兵の妙は正に円熟味を増した戦いをしており、徳川家康を完膚なきまで叩きのめしている。また、反信長包囲網を敷くなど大局をみた戦いもしており織田信長をかなり苦しめている。 | |||||
| 武勇 | ★★★★ | 武勇についてのエピソードは特に残っていないが、武田の総大将として人並み以上の武芸は身に着けていたと思われる。 | |||||
| 政略 | ★★★★★ | 信玄堤に代表されるように治水事業、金山開発など現在にも残る功績を残していることから政治家としてもかなり高い能力を有している。 | |||||
| 人望 | ★★★★ | 息子義信からクーデター、父親信虎を国外追放するなど親族関係はいまいちであったが、家臣からの信頼は厚かった。それは信玄死後、求心力を失い滅亡への一途を辿った武田家の命運からもわかる。 | |||||
| 総評 | ★★★★★ ★★★★★ |
徳川家康が師と仰ぐほど武田信玄は知勇備えた優れた武将だったと思う。戦略、政略に記載している意外にも人物を見抜く力がやはり優れており、信玄が採用した家臣は信玄をよく支え、版図拡大に貢献をしている。 | |||||
| ★★★★★:人並み外れて優秀 ★★★★:人並み以上 ★★★:人並み ★★:人並みより劣る ★:人並み外れて不得手 ※総評のみ10段階評価 |
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| 6.トノ語る... | |||||||
| 武田信玄を語るうえでこれほどエピソードに事欠かない武将はなかなかいないと思う。武田信玄の人の使い方、物の考え方は現代に生きる我々にも通じるものがあり、大変参考になる。これは当時を生きた人も一角の人物と見ていたので、川中島の合戦で5度にわたり対峙した上杉謙信も信玄の訃報を聞いたときは涙して名将の死を悔やんだと言われている。また、徳川家康も信玄の死後、信玄の教えを受けた武田家旧臣を積極的に自軍の配下に加えようと動いている。そんな信玄だが、なぜ、天下統一を果たせなかったというのはやはり、領国甲斐国が京都より遠国の地にあったこと。兵士と農民が分業できていなかったため、米の収穫時期は領国に帰らないといけなかったこと。上杉謙信との戦い(川中島の戦い)を五度にもわたり繰り広げたことがあるのだと思う。もし、本気で上洛して天下を獲るつもりだったら、信濃国をあきらめて上杉謙信と事を構えないようにしてとっと上洛をすれば、よかったのだと思う。 上洛を目指したときは三方ヶ原の戦いで完勝するも病には勝てず、甲斐に帰国途中で帰らぬ人となっている。歴史にifは禁物だが、トノとしては今川義元が桶狭間で討死してから信玄が上洛を目指していたら、上洛は果たせたと思うが、その後のビジョンは見えないので、領国甲斐に戻ってしまい、織田信長の台頭を許してしまい、歴史としては大きく変わることはなかっただろうと思う。 |
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