藤堂高虎の逸話
 
若い頃から備えていた先見力
 最初、高虎は浅井家に仕えていたが、姉川の合戦より数々の武功を挙げ、そのことを自慢に思っていたので、周りからは妬みの目で見られていた。また、主君長政は信長との同盟を破棄して、信長に対抗しているのを見ていた。内心これからは、信長の時代だと思っていただけに、高虎は長政を見限っていた。
 ある日、高虎の同輩で山下嘉助というものが、高虎の手柄を鼻にかけた態度を嘲ると、高虎は嘉助を斬り出奔してしまう。そのとき、高虎は着ていた大紋の羽織をすぐに裏返したので、その羽織を目印にしてやってきた追っ手の者たちから逃げることができたのだ。このときから、高虎は先を見る目に長けていたことが窺える。
 
高虎の恩返し
 高虎が主探しの放浪の旅をしているとき、三河国吉田宿まできたときに、路銀がなくて食べるものに困った時にある餅屋に飛び込んで、無銭飲食をしてしまう。そのあとで、店の主人に無銭飲食をしてしまったことを謝ったが、店の主人はあまりの食いっぷりのよさに感心し、咎めなかったという。
 その後、高虎が伊賀・伊勢の22万石の太守に出世して、餅屋の前を通ったとき、馬から降りてそのときの恩を謝し、金銀の入った皮袋を渡したという。
 また、高虎はそのときの恩に感謝して、旗指物に紺地に白餅を三つ並べたものを使っている。
 
藤堂家のしきたり?!
 高虎が出世のきっかけとなる主君、豊臣秀長が召抱えてもよいという話を友人から聞いたとき、そのときに鮒ずしを酒の肴にして話していた。そのためか、後日、藤堂家の祝い膳には、近江名物の鮒ずしを出すしきたりになっていたという。
 
家臣にとても優しかった
 高虎が合戦で名だたる武将の首を挙げたとき、近くにいた足軽にその首を預かっておくように頼み、高虎自身はもう一度、敵将の首を求めて、戦場に戻っていった。首を預かった足軽は待ったいる間に、ついウトウト寝てしまい、その間に首を何者かに盗まれてしまった。高虎に怒って殺されるかもしれないと思ってい、しょんぼりしているところへ、高虎が戻ってきて、
「さっきの首はどうしたか?」と尋ねられて
「申し訳ありません。つい居眠りをしている間に盗まれてしまいました。その詫びとして私めの首を討って下さい。」と答えると、高虎は
「お前の首にとっても代りにはならない。敵の首はまた取れるが、お前の命は一度失ったら返ってこない。」と答えて、それを聞いた足軽は感激して、敵の兜首を一つ取って高虎に献上した。
「私は一卒の命を助けたおかげで、兜首を一つ得ることができた。これほどの収穫はない。」と高虎は大変喜んだという。
 
高虎の恩返し其の二
 高虎が羽柴秀長の元で1万石の大名並の禄高をもらうようになると浅井、朝倉等の残党を集めて家臣団を形成した。
 そのとき、高虎が浅井時代にお世話になった山口茂左衛門を客分として3百石を与えて迎えた。さらには必ず、「殿」づけにして呼んだというので、これも昔受けた恩を返す高虎の律儀さを表すエピソードである。
 
高虎、出家する
 秀長の後を継いだ秀保が17歳という若さで死去すると、秀保に後継ぎがいなかったため、高虎はあれこれと、後継ぎ候補をあげて、大和家を存続させてもらえるように願い出るが、秀吉はこれを許さず、大和家を断絶させてしまう。そして、大和家の家臣を秀吉自身の家臣にしようとした。高虎は生前秀長を自分の右腕のように重用していたのに、その後継ぎが死ぬと、あっさり断絶する秀吉のやり方が気に食わなかったので、出家して、高野山で隠棲する。
 しかし、これを知った秀吉が生駒親正を使いにだして、高虎を説得させて、下山させ、秀吉の配下になったのである。
 
秀吉晩年の頃の高虎と家康の関係
 秀吉晩年の頃の高虎と家康の関係を如実に示すエピソードがある。
 それは高虎の船を曳航中、誤って家康の6男忠輝の船に接触して櫓をへし折るという事件が起こった。このとき、高虎の船の水夫はすぐに謝ったが、忠輝は聞き入れず、家康に訴え出た。しかし、これを聞いた家康は「藤堂の水軍が朝鮮で大功をたてたことは知っているだろう。その藤堂側が過ちであったと詫びているのに、それを責めるのは、忠輝が悪い。」と言ったという。
 家康が忠輝を良く思っていなかったということもあろうが、それでも、自分の息子よりも、他家をたてるとは、この頃の高虎と家康の関係にはただならぬものがあったと考えてもおかしくない。
 
松葉騒動
 関ヶ原の合戦の少し前に、高虎の本国伊予宇和島でも不穏な空気が流れた。宇和島の松葉町というところに三瀬六兵衛という名主がおり、六兵衛は高虎が留守の隙をついて、安芸の毛利と結んで、叛旗を翻そうと企んでいた。しかし、その企みも事前に藤堂側に知れることになり、三瀬一族は討ち取られた。脱出に成功した者もいたが、それも牢に入れられて、切腹をしている。このように関ヶ原の合戦が行われる前から、各地で不穏な空気は流れていたことが伺い知ることができる。
 
百人の愚者は一人の賢者に劣る
 高虎が、関ヶ原の功績で20万石の大名になると、その一割の2万石という破格の待遇で渡辺勘兵衛を雇った。それを聞いた加藤嘉明は「一人に2万石を与えるのなら、私は2百石取りの者を100人召抱える」と言った。これを聞いた高虎は「勘兵衛の名を聞いただけで、それだけの者が震えがるということだ。百人の愚者は一人の賢者に劣るとは、このことなのだ。」と答えたという。
 高虎の人使いのうまさを知るエピソードである。
 
家康のお抱え築城奉行
 高虎が縄張りにかけては当代随一の評判であったので、家康は高虎に縄張りを頼みまくった。慶長6年の膳所城をはじめ、慶長7年、9年に伏見城、慶長11年、12年、19年に江戸城、慶長14年篠山城、慶長15年に亀山城がある。その他に自分の城として築いたものに、今治城、伊賀上野城、安濃津城がある。
 
伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ
 高虎が津城に入城して、津城を改築した際に参宮街道を城下に取り入れた結果、沿道には宿屋、商店が軒を連ね大繁盛したので、このように謳われるようになった。
 
人生でたった一度だけ、家臣を手打ちにした
 高虎は家臣をとても大事にした武将で有名だが、その高虎がたった一度だけ家臣を手打ちにした。その手打ちにされた家臣は管平右衛門。この平右衛門は朝鮮の役では高虎と共に戦陣を疾駆した戦友だったが、関ヶ原の戦いのとき、西軍に味方したため、追放されていた。それを不憫に思った高虎が哀れに思い、登用していた。
 大坂冬の陣が終わって、講和の条件として大坂城の濠を埋める工事の現場監督の任に平右衛門は当たっていた。しかし、工事が他と比べて遅れていることに気づいた高虎は平右衛門に尋ねると、この工事に対して不服を言い、事もあろうにその当時の高虎をただ、家康のご機嫌取りになっているだけではないかという感情をあらわにしたため、そのことに怒った高虎は、大坂方に内通しているな!と早合点してしまい、斬ってしまった。
 
大坂夏の陣の一番の功労者!
 大坂夏の陣の祝勝会が開かれたとき、徳川家康が、捕虜に東軍で誰が一番勇ましかったかと尋ねると、捕虜は「金の牛の舌の旗指物を一番恐れておりました。」と答えた。この旗指物は藤堂軍が用いていた物だった。しかし、この戦いは藤堂軍の武名を挙げたと共に、多くの家臣を失ったために、高虎は決して諸手をあげて喜ばなかったという。家臣を大事にする高虎にしてみれば、大事な家臣を多く死なせてしまったので素直に喜べなかったのだろう。
 
規律には厳しかった!
 大坂夏の陣の際、名張邑(むら)の留守居役で実弟の高清、伊賀上野城の留守居役で実弟の正高、津城の留守居役で嗣子高次の傅役(もりやく)の長連房の3人が大坂夏の陣に参陣を高虎に訴えるも、高虎はこれを許さず、留守居役に任じた。しかし、この3人は密かに参陣して武功を挙げた。これを知った高虎は自分の命令に背いての武功であったため取り合わなかった。さらには命令違反ということで、この3人に5年間の蟄居を命じている。
 肉親と言えども、他の家臣と同様に扱ったため、高虎の元に良き人物が集まったのだろう。
 
人を斬るばかりが武士ではない。人を生かすのも武士だ。
 室町時代からの能楽四流の一つ「金春」の金春太夫の門人に喜多七太夫という人物がいた。七太夫は能の名手であったが、能役者にはならず、武士として秀吉に仕え、槍の名手として知られていた。秀吉の死後も豊臣家に忠節を尽くし、大坂冬、夏の陣に参戦して戦い抜いた。しかし、いよいよ落城というときに、昔ながらの知己だった高虎の陣所に赴き、命乞いをしてきたので、高虎はもともとは能役者だった七太夫の首をいまさら刎ねても仕方がないと思い、九州へ逃がしてやった。
 その後、家康から七太夫の所在を尋ねられたとき、事情を話すと、高虎が能役者として後見するなら、許そうと言われて、七太夫は「喜多流」と称して、一派を起こし、能楽四流に加えて五流の一つになった。
 高虎は常日頃から「人を斬るばかりが武士ではない。人を生かすのも武士だ。」と周囲の者に語っていたそうだが、まさにその通りのことをやってのけたのであった。
 
合理的な考えだった!!
 高虎の家臣で5人の家臣が破産してしまった。その5人のうち二人は遊里に通い続け家財道具を売ってしまい、破産した。残りの3人は博打(ばくち)好きで博打をし続け、これも家財道具を売ってしまい、破産した。彼らを高虎は女好きの2人は放逐し、博打好きの3人は家禄を3分2に減じて以後改心するように命じた。この処置の理由を側近の者が尋ねると、こう答えた。
「色におぼれて女に欺かれ、家財を失うような男はなんの取り柄もなく、智も勇もない。扶持を無駄にするばかりである。しかしながら、博打は別である。もとより、博打は好ましくはないが、女たらしよりも生気もあり、活力もある。とにもかくにも、人に勝とうとする利心もある。つまり利を知るものである。使う余地がある者である。」
 
高虎曰く、治国の要について
 あるとき、将軍になった秀忠が高虎に「治国の要」について質問したとき、以下のように答えたとされている。
国を治めるには、人を知ることが肝要です。人には、それぞれ長所と短所があります。その長所に適した職に任ずればその人はありったけの力を、その職に尽くすことでしょう。すでにその人を得れば、これを信じて疑わないことです。上に疑う心があれば、下もまた上を疑い、上下互いに疑えば、人心離散し、国に大事があっても、誰も力を尽くす者はなく、主君は孤立します。朝に疑いが生ずれば、夕に讒(ざん)が入り、群小類をもって集まり君聴をおおえば、いかに賢君なりとも、惑乱されることになります。讒人による国の乱れは古今にも例があることで、このことは十二分にお気をつけてください。」
 
士を遇する道とは・・・
 あるとき、将軍になった秀忠が高虎に「士を遇する道とはいかに?」と質問したとき、以下のように答えた。
 「人となり沈毅、大軍の将として経綱に秩序あり、よく整にして暇ある者は、これ大勇の人、もって大将となるべき人です。
 よく一軍の将として、士卒を訓練し事に臨んで人に後れざる者は、もって部将となるべき人です。
 よく弓銃をひきい機を見て発する者は、もって隊将とすべき人です。
 もし、才力足らずとも、廉恥(れんち)の心を忘れず、おのれの持ち場を死守する者は、これ行伍の士でありますから、先鋒にあて中堅に備えることができます。」
 さすが、一介の部将から成り上がってきただけあって、非常に説得力のある言葉である。
 
私事は私事
 高虎の娘が正室と嫁いでいる蒲生忠郷が若年で病死したとき、蒲生家には嗣子がいなかったため御家断絶となった。それを気の毒に思った秀忠が、蒲生忠郷の後の会津60万石に加増しようかと、申し出るが、高虎は、自らが老齢なのでかの地を治めるのは、難しいと辞退して、朝鮮の役の折にもめて不仲の加藤嘉明を薦める。それを不思議に思った秀忠が尋ねると、高虎は「それは私事であります。嘉明殿のような剛直な人物が会津藩を治めるのが適任であります。私事のために公事を誤ってはいけませぬ。」と答えた。
 これを聞いた嘉明は永年の高虎に対する不遜を詫びたという。
 
上司の指示を仰ぐときは2通りの案を出しなさい
 秀忠より二条城改修の縄張りを命じられたとき、高虎は2通りの案を秀忠に出して、裁決をもらった。これを近臣に2通りの案を出して、裁決を頂けば上様の考えによりこの案が決定したことになる。しかし、1通りの案しか出さなければ、自分の案を上様に認めてもらおうしただけに過ぎない。そもそも人に仕える身であれば、善あれば、主人に帰し、不善あればわが身で引き受ける覚悟がなければならない。自分の功をひけらかして主君の徳を曇らせるのは、讒言(ざんげん)して人を陥れるとの同じくらいのことである。」と語ったという。さすが、主君を渡り歩いただけあって、主君に対する気の使い様は人並み以上だったようである。
 
先例なぞ、なんのその
 1620年(元和6年)、徳川和子が入内したとき、高虎は和子の警護として側に付き従っていた。御所の門内に入ったとき、輿に入っている和子を拝顔したいと高位の女官が言ってきたが、高虎は将軍家のご命令により拝顔はまかりならなぬ。もし、どうしてもというのなら、一刀の下に斬り捨てるがどうだ!というと、女官達は縮み上がって、退いたという。
 さすが、戦国時代を生き抜いてきた武将の大音声の声は迫力があったのだろう。
 
殉死希望者73名
 当時、殉死という風潮があり、例として伊達政宗が死去したときの殉死者は20名いた。しかし、高虎は合理主義者として通っていたので、殉死という風習はよくないと思っていたので、高虎は生前に自分が死んだら、殉死したい者の希望をとり73名にのぼった。この73名の存在を幕府に知らせ、自分が死んだ時は将軍の命令によって殉死を禁止するようにしてくださいと申し出たので、高虎が死去したときは殉死者は一人も出なかった
 
微賎の小技にはそれほどの禄高はあげられない!
 あるとき、高虎が京邸にいる時、理髪の腕利きの者がいたので、13石3人扶持で雇おうとした時、その男は「母親と妻子がいるので、15石5人扶持を頂きたい」と申し出たところ、「15石と言えば、わが歩兵の禄高である。微賎の小技にはそれほどの禄高はあげられない」と言って断ったという。自分の家臣達を大切にした高虎を知るエピソードである。
 
義を知る武将
 福島正則の家来で久留島若狭という者がいたが、正則が改易されて流寓しており浅野家で5千石の禄を与えられていた。しかし、高虎は彼をその倍額で召抱えようとした。すると若狭は「旧主である正則公と高虎公はあまり仲がよくありませんでした。高禄に惑わされて義を失うことはできません」と断ったところ、高虎は痛く感動して、紀州の徳川頼宣に推薦して、1万石で召抱えられている。
 
人使いの妙を心得ていた
 高虎は家臣に「自分に仕えるのが、嫌になったら、他の主君に仕えてもよい。そこで嫌になって、また自分のところに戻りたいと思うならば、元の禄高で召抱えてやる。」と言っていた。実際にどうにもならなくなってまた高虎のところに戻ってきた家臣を元の禄高で召抱えた。
 高虎はそのことで、側近にこう語った。
「臣僕を使うに禄のみをもってせば、人は必ずしも心服はしない。禄を受けて当然だと考えているからである。人を使うには情をもって接しなければいけない。人生意気に感じて、命を捨てて恩に報いようとするものだ。情をもって接しなければ、禄を捨てているようなものである。」
 
農民の苦労も知っていた
 高虎はご飯についても、家臣にこのように語っていた。「人食をもって天となし、朝夕膳に臨む。多少不満があっても、たやすく怒ってはいけない。口腹のことで、たやすく怒ってはいけない。口腹のことで人を責めるのは、最も低俗なことである。盤中の粒は、みな農民が辛苦血汗をしたたらせて耕作し、わが命をつなぐ糧としたもので、敬意をはらわなくてはいけない。」
 現代社会の好き嫌いの多い、お子様にも知って欲しいことである。
 
用意周到でもあった
 江戸詰の老臣が高虎に「江戸に鳥銃が一丁もありませぬ。非常の備えに国もとより千丁ばかり取り寄せておいてはどうでしょう?」と聞かれたときに、高虎は「入用のときは幕府に申し出て幾丁か借用すればよい。」答えた。すると、老臣が「一人か二人をどこかに使いにだされるのには、それでよいかもしれませんが、幕府に騒動があれば、鳥銃が入用なので、当家としては調達できないと思いますが。」と食い下がる。すると、高虎は「そのようなことになれば、それはもはや乱である。向かいの前田利常邸に押しいり、いくらでも借りてこればよい。」と笑って答えた。
 しかし、高虎の死後、道具を改めて調べたところ、鳥獣が1300丁、小道具まで残らず保存してあった。口ではそういうことを言っても、準備は万全だったので、あのような大きなことが言えたのであろう。
 
口癖
 「毎日、寝所を出るときには、今日が死番(しにばん)なりと心得、そのような覚悟で寝るゆえ物に動ずることはない。」と言っていた、命のやり取りをしていた当時は、毎日精一杯生きないと、いつ死ぬかわからないぞということを、身をもって知っていたのであろう。
 
口癖弐
 「小事は大事、大事は小事と心得よ。大事のときは、一門親戚うちより談合するゆえに、大事にはならない。小事は大事というのは、おのれが口から出した一言で、死なねばならぬことがあるということである。しかるゆえに小事は大事と慎むことだ。」とも語っていた。まさに蟻の巣から堤防が崩れるということであろう。