弘治2年 1556年 (0歳)
 藤堂家の次男として、近江国犬上郡藤堂村にて誕生。
永禄11年 1568年 (13歳)
 浅井長政の命に従わなかった田部熊蔵を父と兄よりも先に討ち取ってしまう。
元亀元年 1570年 (15歳)
6月28日  浅井軍として、姉川の戦いに出陣する。初陣ながらも兜首を上げる
元亀2年 1571年 (16歳)
 この頃、浅井家から出奔して、同じ頃浅井家から、織田家に寝返った山本山城主阿閉貞秀の元へ身を寄せるも、すぐに主君探しの旅に出るため、出奔してしまう。
 次に仕えたのが、浅井家、家臣から織田家に誘降した磯野員昌(かずまさ)であった。
天正4年 1576年 (21歳)
 磯野員昌が信長から隠居を命じられて、2年前員昌の養子になった津田信澄が領主になった。信澄から80石で召抱えると言われたが、あまりの禄高の少なさに信澄を見限り、出奔する。
 羽柴秀長に300石の禄高で召抱えられる。このとき秀長は36歳
 この頃より与右衛門と改名する。
天正5年 1577年 (22歳) 
 羽柴秀吉、秀長の中国攻めに参陣して、武功抜群の働きにより1000石加増してもらい1千3百石の侍大将になる。
天正6年 1578年 (23歳)
 別所氏の居城、三木城を兵糧攻めしているとき、城内から討って出てきた猛将賀古(かこ)六右衛門と一騎打ちをして、見事討ち取っている。
天正8年 1580年 (25歳)
 別所氏の居城、三木城を陥落させ、主君秀長は但馬の国主となったので、2千石加増される。3千3百石の銃将となる。
 一色修理太夫の娘お久を妻と結婚する
天正10年 1582年 (27歳)
 羽柴秀吉が高松城を包囲している頃、高松城の支城冠山城攻めの先陣を務め、敵将竹本幸之助を討ち取る。
6月13日  山崎の戦いにおいて、羽柴秀長の元で天王山に布陣し、伊勢与三郎らの武将首3つ上げる。
天正13年 1585年 (30歳)
9月3日  紀州攻め、四国攻めの功により、5百4千石を加増されて、合計1万石になり、紀州粉河を与えられる。。また、この頃から高虎と名乗るようになる。
天正15年 1587年 (32歳)
 正五位下佐渡守に任命され、1万石を加増される。これにより紀州粉河城主2万石の大名となる。
 丹羽長秀の遺児、仙丸を養子として迎え、高吉と命名する。
天正19年 1591年 (36歳)
 主君豊臣秀長が51歳で死去。15年間の主従関係がここで終止符を打つことになる。其の後は秀長の養子に3年前になったばかりの秀保が家督を相続したため、秀保に仕えることになる。
文禄元年 1592年 (37歳)
3月8日  朝鮮出兵のため秀保に従い、郡山を進発。
4月27日  釜山に到着して、沿海の朝鮮軍の掃討をする。
5月7日  李舜臣率いる亀甲船を主とした船団と遭遇して苦戦を強いられる。
6月3日  唐浦沖で朝鮮軍の船団に対して大きな戦果をあげる。
文禄2年 1593年 (38歳)
6月29日  朝鮮戦線で晋州(しんしゅう)城へ日本軍の一部将として総攻撃をかけて、これを落としている。このとき15歳になる養子高吉も大暴れをして、その勇猛ぶりから小藤堂と讃えられた。
11月  主君秀保を擁して、本国大和郡山に帰る。
文禄3年 1594年 (39歳)
 主君秀保が死去。享年17歳。その死に様は酒色に身を崩したので、十津川の温泉で半狂乱の状態で療養中、側に仕えていた小姓が秀保を抱えて淵に身を投じたという、異常さだった。その後、大和家は秀保に後継ぎがいなかったため、断絶となる。高虎は秀保の菩提を弔うために出家して高野山に登り、隠棲する
6月19日  2ヶ月程の高野山での隠棲後、秀吉に呼び出され、伏見城にて秀吉に謁見すると伊予国宇和島7万石の領主を任じられる
7月22日  伊予国宇和郡の板島丸串城に入城する。このとき、高虎は板島を宇和島と改めている。
慶長2年 1597年 (42歳)
7月7日  再び朝鮮出兵(慶長の役)に従軍し、伊予水軍を率いて釜山(ぷさん)沖に到着。
7月16日  朝鮮海軍を閑山島沖にて、撃破。この勝利により、朝鮮軍が海路を遮断することをほとんど不可能にした。
慶長3年 1598年 (43歳)
6月22日  蔚山城で加藤清正、浅野幸長を救った後、帰陣の命を受け、伏見城にいる秀吉に謁見する。  
6月26日  秀吉より、海戦総督、司令艦日本丸一隻と桐花徽号の茜紅幕(せんこうまく)を与えられる。茜紅幕は太閤の楼船の印。
慶長4年 1599年 (44歳)
10月18日  父、虎高(白雲)が老衰により死去。享年84歳
慶長5年 1600年 (45歳)
9月15日  関ヶ原の合戦、東軍に加担して見事勝利を収める。
9月28日  増田長盛の居城、大和郡山城の接収を徳川家康により命じられる。
11月18日  関ヶ原の功績を賞され、12万石の加増を受ける。前封合せて、20万3千石の大名になる。
 今張の地をを今治(いまばる)と改名する。
慶長6年 1601年 (46歳)
閏11月11日  高虎と側室松寿夫人との間に大助(後の高次)が生まれる
慶長7年 1602年 (47歳)
6月  今治城の築城を始める。 
慶長11年 1606年 (51歳)
 江戸城の絵図面を作った褒美として、2万石加増され、22万3千石となる。また、これを機に佐渡守を改め、和泉守を称す。
慶長13年 1608年 (53歳)
3月  今治城が完成。
8月25日  伊賀一国15万540石、伊勢安濃津ならびに一志郡5万400石、伊予国越智郡2万石計、22万950石の地に転封を命じられる。
9月28日  伊賀国に入国。当時としては異例の早さだった。
10月8日  安濃津城に入城。
慶長16年 1611年 (56歳)
正月  津城、上野城の修理工事を始める。
慶長17年 1612年 (57歳)
9月2日  大暴風雨により、上野城の天守閣が崩壊する。その後は再建されず。
慶長18年 1613年 (58歳)
 津城、上野城の修理工事が終わる。
慶長19年 1614年 (59歳)
10月13日  大坂城へ出陣するために、津城を出発。 
10月28日  摂津国住吉に到着する。
11月19日  大坂冬の陣
12月20日  停戦交渉が行われ、大坂城の外堀を埋める等を条件に停戦。
元和元年 1615年 (60歳)
1月24日  大坂城の総濠の埋め立て工事の完了を見届けて、帰国の途に着く。
4月2日  大坂城を攻めるために、津城を出発。
5月6日  八尾で長宗我部隊と激戦を繰り広げる。
5月7日  井伊隊と共に桑津村に進み、大野治長隊、毛利勝永隊を撃つ。
6月28日  大坂夏の陣の功により、徳川家康から伊勢国の鈴鹿、安芸、三重、一志の四郡のうち5万石を加増される。合計27万950石の大名となる。
8月28日  禄高2千50万石を加増される。合計27万3石の大名になる。
元和2年 1616年 (61歳)
8月20日  高虎の正室お久(久芳夫人)が津城内で死去。
元和3年 1617年 (62歳)
 徳川秀忠より、伊勢田丸城5万石を与えられ、合計32万3千石の大名となる。
元和5年 1619年 (64歳)
3月  徳川秀忠より、二条城改修のための縄張りを命じられる。
 徳川頼宣が紀州に封じられるも、大坂城のほうがよいと言われ、高虎が「田丸城5万石を加えた伊勢の南半島を併有するがいい。田丸にはあなたの好きな鶴がたくさんおります」と説得する。田丸城5万石の代替地として山城、下総5万石をもらう。
寛永7年 1630年 (75歳)
10月5日  江戸柳原の藩邸で死去。享年75歳 
藤堂高虎、関係年表