越後の龍
上杉謙信
1.名前と官位  
長尾 虎千代
(ながお とらちよ)
(0〜7歳)
(幼名) 
        ↓
長尾 喜平次 景虎
(ながお きへいじ かげとら)
(7〜31歳)
       ↓
上杉 政虎
(うえすぎ まさとら)
(32〜33歳)
       ↓
上杉 輝虎
(うえすぎ てるとら)
(33〜41歳)
       ↓
上杉 謙信
(うえすぎ けんしん)
(41〜49歳)
 
  
2.親族 
  祖先  為景
(ためかげ:父)
  虎御前
(とらごぜん:母)
   
    
   兄弟  晴景
(はるかげ:長兄)
  仙桃院(仙洞院とも書く。)
(せんとういん:姉)
長尾政景室
   
  息子  景勝
(かげかつ:養子)
政景と仙桃院の子
景虎
(かげとら:養子)
北条氏康の7男氏秀
   
    
3.概要    
   14歳から武将として活躍。その勇猛さから兄、晴景より家督を譲られる。信玄とは5度に渡り対峙するが、どれも戦いという戦いはなく、唯一激戦だったと言われる、第4回川中島の戦いも前半は上杉勢が優勢で後半は武田勢が優勢ということで結局は勝負がつかなかった。その後信玄が上洛のため西上すると信長と同盟を結ぶが、信玄の死後、同盟を破棄し、加賀で織田軍を撃破する。その後、関東攻略のため総動員令を出すが、1578年(天正6年)出陣直前に厠(かわや:便所のこと)で脳溢血(のういっけつ)で倒れそのまま帰らぬ人になる。享年49歳
    
4.エピソード   
  政虎、輝虎の名前の由来   
   謙信は長尾影虎という元服名(一人前になったということで与えられる名前)から謙信という名前にいたるまで政虎、輝虎と名前を変えている。一般的にはあまりなじみのない名前だと思うが、この名前になったのは大きな訳がある。
 まず、政虎、この時苗字も長尾から上杉に変わっている。このわけは当時関東管領(かんとうかんれい:関東地方をまとめる幕府の役所)上杉憲政から自分では関東管領として役目を果たせないということで謙信に譲り、そのとき、上杉の家督も譲られたので、上杉という苗字と上杉憲政の政の字も一緒に謙信に譲ったので上杉政虎になった。
 次に輝虎、これはその当時室町幕府13代将軍足利義輝と大変親密な仲で謙信が言った「越後(謙信の国)を失っても忠誠を尽くす覚悟」という言葉にいたく感動し、義輝が自分の名前の一字”輝”を送ったので輝虎に名前を変えたということである。
    
5.殿批評    
  戦略  ★★★★  関東地方、信濃国、越中国等転戦をしているにも関わらず、謙信時代の最大版図はそれ程でもなかった。謙信に領土的意欲がなかったということもあるが、上杉軍の軍事力をおおいに生かせなかったことは、全体的な戦略眼がなかったためだろう。
  武勇 ★★★★★  軍神と恐れられたその姿、カリスマ的な強さは群を抜いていた。
  政略 ★★  家臣の裏切りが多いばかりでなく、自らも突如出家すると言って、国を出て行くこともあったことから、政略的なところは苦手だったようである。
  人望 ★★★  独断専行型で家臣の不信感はあっただろうが、神懸り的な強さで家臣を引っ張ったのであろう。しかし、有名無実な将軍にも忠誠を誓い弱者を助け強者をくじく、その姿勢は幕府からは頼もしく映っただろう。
  総評 ★★★★★
 有名無実な幕府に忠誠を誓い、領土的野心を持たない。しかし、戦うと軍神と恐れられる驚異的強さ、しかも謀略、暗殺などどんな手を使ってでも勝利を得るという世の中に、常に真っ向から立ち向かう。戦国武将としては大変珍しい武将である。そのため、領土というのはそれ程でもなかった。人間としては素晴らしいが、戦国武将としては旧式なタイプであったのであろう。
  ★★★★★:人並み外れて優秀 ★★★★:人並み以上 ★★★:人並み ★★:人並みより劣る :人並み外れて不得手
※総評のみ10段階評価
 
    
 6.殿語る...    
   上杉謙信、軍神と恐れられた武将である。その強さは文字通り神懸り的なものであったのだろう。天下統一まであと一歩という日の出の勢いの織田軍を見事に手取川で破っている強さが物語っている。この織田軍には織田信長が率いていたわけではなかったが、信長は上杉謙信を明らかに恐れていた。合理的主義者で知られる信長には、神懸り的な上杉軍の強さというものが理解できなかったのであろう。結果、上杉謙信と織田信長の直接対決はなく、謙信は突如病死という形でこの世を去ってしまう。
 軍神と恐れられた謙信であるが、他にも謎に包まれた多くある。その一つに生涯妻をもたなかったということである。子孫をいかに多く作って、自分の政権を磐石にしなくてはいけない戦国の世に妻を持たなかったのは明らかにおかしい。そのため、謙信は実は女性ではなかったのかと言われるぐらいである。また、謙信の命を奪った病気の原因にもなるが、謙信は酒豪でも知られていた。それは馬上杯といい、馬上でも飲めるように作られた酒盃が今に伝わっている程である。他には家臣の裏切りが絶えなかったある日、突如として出家すると言い、城を飛び出すということもあったり、有名無実な幕府に忠誠を誓い、名ばかりの関東管領職を引き受け、その責務を果たすために自国から遠い関東にわざわざ、兵を繰り出したり、領土的野心がないような戦い方等、謎が多い武将である。その謎めいた所が謙信の強さの秘訣であったのかもしれない。
    
         
    
3.概略