
| 甘糟 景継 | あまかす かげつぐ | 1600年(慶長5年)会津征伐の際には白石城主を務める。 |
| 甘糟 清長 | あまかす きよなが | 越後上田の出身。謙信、景勝の二代に渡り仕える。川中島の戦いの折、武田信玄の勇将馬場信房、山県昌景の軍三千六百の兵に対して、千五百の兵で一歩も引かなかった程の武勇の持ち主。 1600年(慶長5年)、上杉征伐により白石城の城将として、白石城を固めるが、会津にいる妻が病死したため、後を登坂式部に任せて一時、会津に帰還した。しかし、その間に清長が白石城を留守にしていることを聞いた伊達政宗は、白石城にすぐさま駆けつけ、これをいとも簡単に落としている。清長が伊達政宗の来襲を聞いて、白石城に急いで戻ったが、時すでに遅しであった。 このことに対して、景勝は立腹し、申し付けるが、兼続の取り成しで死罪は免れるが、その後不遇の扱いを受ける。 その後、清長の待遇を不憫に思った徳川家康は二万石で迎えようとしたが、「白石城を奪われたのは、わが非にある。景勝様からどのような仕打ちを受けようとも仕方のないことである。我が身は謙信公、景勝様に仕えて久しい。いまさらどうして、二君にまみえることができようか。」とそれを断ったという。 これを聞いた家康は、「だからこそ、清長を自分の家臣に欲しかったのだ。」と残念がったという。 |
| 鮎川 帯刀 | あゆかわ たてわき | 1600年(慶長5年)会津征伐の際には津川城主を務める。 |
| 斎 道二 | いつき どうじ | 1600年(慶長5年)会津征伐の前に召抱えられた牢人衆の一人 |
| 色部 長実 | いろべ ながざね | 妻は景勝に反乱を起こした新発田治時の妹。 |
| 色部 光義 | いろべ みつよし | 1600年(慶長5年)会津征伐の際には金山城主を務める。 |
| 色部 長門守 | いろべ ながとのかみ | 長門守。豊臣秀吉の勘気に触れた千利休が蟄居している利休屋敷の警備に当った。 |
| 岩井 信龍 | いわい のぶたつ | 豊臣秀吉の勘気に触れた千利休が蟄居している利休屋敷の警備に当った。 |
| 岩井 信能 | いわい のぶよし | 1579年(天正7年)山崎秀仙(しゅうせん)と直江大和守信綱が対談中に突如として乱入してきて、秀仙、仲裁に入った信綱を斬った毛利秀広を登坂広重と共に成敗した。 1600年(慶長5年)会津征伐の際には福島城主を務める。 1600年(慶長5年)、会津征伐を前に藤田信吉、栗田形部が家康へ寝返ることを知ると、景勝に追撃の命令を受け、栗田形部を討ち取るが、藤田信吉は取り逃がしてしまう。 |
| 上杉 景勝 | うえすぎ かげかつ | 長尾政景、謙信の姉綾子(あやこ)(後の仙洞院:せんどういん)の子。後に謙信の養子となり、1578年(天正6年)謙信が病没すると、謙信の後継者争いで上杉景虎(かげとら)を御館の乱で破り、謙信の後継者となる。 |
| 上杉 景虎 | うえすぎ かげとら | 1568年(永禄11年)、謙信は北条氏康と同盟を結んだ。その証として氏康の七男三郎氏秀は人質としてきた。これがこの景虎。しかし、謙信はこの人質の眉目秀麗ぶりに魅了され、自分の養子にして、自分の旧名を名乗らせ、景勝の妹を妻にさせた。謙信没後、景勝との後継者争い、1578年(天正6年)御館の乱に破れ、自害。享年26歳。 |
| 上杉 謙信 | うえすぎ けんしん | 甲斐の虎、武田信玄と川中島で5度に渡る戦を繰り広げ、天下に名を知らしめる。その武勇は越中に侵攻していた破竹の勢いの織田軍団も敗走させるほどであった。また、義に篤い武将で室町幕府13代将軍足利義輝も彼を頼っていた。 |
| 上杉 定勝 | うえすぎ さだかつ | 1580年(天正8年)、景勝とその妻お菊の方との間の長男。幼名を千徳。 |
| 宇佐美 定行 | うさみ さだゆき | 1564年(永禄7年)、長尾政景を上杉家中の内乱の種と考えた定行は、政景を野尻湖に誘い、自らの命をもろとも、野尻湖に政景を沈めた。 |
| 岡野 左内 | おかの さない | 最初、蒲生氏郷に仕えて軍功をしばしばあげていた。氏郷没後、兼続の推挙により1600年(慶長5年)徳川家康による会津征伐の前に召抱えられた牢人衆の一人 普段、極度の倹約家で家中からもその倹約ぶりに陰口をたたかれていたが、本人は聞き流していた。しかし、景勝が会津で決戦しようとしたとき、今まで貯めていた蓄財を景勝に戦費の一部にあててほしいと願いでて、家中の陰口を一掃した。 梁川の戦いでは、伊達軍の先鋒を打ち破ると、政宗自身の攻撃を受け、両者共々よく戦った。左内自身、戦っている相手が政宗とは知らずに斬りあうこと数度、政宗の刀が折れたので、政宗は馬首を返して、逃げた。左内はそれを去るにまかせていたが、後で、それが政宗と知ると、大変悔しがったという。 |
| 小幡 将監 | おばた しょうげん | 1600年(慶長5年)会津征伐の前に召抱えられた牢人衆の一人 |
| 木戸 源斎 | きど げんさい | 1600年(慶長5年)会津征伐の際には藤島城主を務める。 |
| 霧沢 左京進 | きりさわ さきょうのしん | 御館の乱後、上杉憲政、上杉景虎の子、道満丸(どうみちまる)、妹姫を景勝の命で討ち取る。しかし、罪なき子供達を斬ったことに苛まされ、その後仏門に入る。 |
| 下条 駿河守 | げじょう するがのかみ | 駿河守。1600年(慶長5年)会津征伐の際には二本松城主を務める。 |
| 栗田 形部 | くりた ぎょうぶ | 形部(ぎょうぶ)。藤田信吉が景勝を裏切った際に同道するが、追手の岩井信能により、討たれる。 |
| 車 丹波 | くるま たんば | 1600年(慶長5年)会津征伐の前に召抱えられた牢人衆の一人 |
| 上泉 泰綱 | こうずみ やすつな | 主水(もんど)。新陰流の始祖、上泉伊勢守の舎弟と伝えられる。 最初、武田家に仕えるが、武田滅亡後、京の相国寺にこもる。 1600年(慶長5年)会津征伐の前に召抱えられた牢人衆の一人 長谷堂の撤退戦では、殿を務め獅子奮迅の働きを見せ、討ち死にする。 |
| 志田 義秀 | しだ よしひで | 1600年(慶長5年)徳川家康による会津征伐の際には大宝寺(現鶴岡)城主を務める。 |
| 新発田 繁家 | しばた しげいえ | 揚北(あがきた)の豪族。1582年(天正10年)会津の芦名盛隆と通じ、景勝に反乱を起こした。抗戦6年、1587年(天正15年)降伏する。 |
| 新発田 治時 | しばた はるとき | 新発田治長の息子。1587年(天正15年)治長と共に景勝に攻められ討ち死。 |
| 新発田 治長 | しばた はるなが | 1587年(天正15年)、反逆者として居城、新発田城を景勝に攻められて、討ち死。 |
| 上条 義春 | じょうじょう よしはる | 能登の国主畠山修理(しゅり)大輔(たいふ)義忠の末子。1587年(天正15年)頃には魚津城主をも務める。また、同年逆心の疑いがある信州福島城主須田左エ門尉(すださえもんのじょう)を景勝の命で討伐する。 |
| 須田 左エ門尉 | すだ さえもんのじょう | 信州福島城主。しかし、1587年(天正15年)逆心の疑いをかけられ、景勝から討伐の命を受けた上条義春(じょうじょう よしはる)により討たれる。 |
| 須田 長義 | すだ ながよし | 1600年(慶長5年)会津征伐の際には梁川(やながわ)城主を務める。 |
| 千坂 兵部 | ちさか ひょうぶ | 兵部(ひょうぶ)。豊臣秀吉の勘気に触れた千利休が蟄居している利休屋敷の警備に当った。 |
| 千坂 対馬守 | ちさか つしまのかみ | 対馬守。1600年(慶長5年)会津征伐の際には須賀川城主を務める。 |
| 寺島 六蔵 | てらしま ろくぞう | 1582年(天正10年)、織田軍に攻められた時、越中魚津城主を務めた。しかし、苦しくも城と共に運命を共にする。 |
| 直江 景綱 | なおえ かげつな | 与板(よいた)城主。大和守。お船の方の父。謙信従って上洛し、後奈良天皇に拝謁も許されている。飯野城主飯沼頼清(よりきよ)を上意討ちしたことで智勇を家中に知らしめる。 |
| 直江 兼続 | なおえ かねつぐ | 上杉謙信に見出され、上杉景勝の片腕として、政務、軍務にわたり活躍する。その才能は豊臣秀吉から陪臣にも関わらず、30万石を与えられた程。 |
| 直江 信綱 | なおえ のぶつな | 大和守。1579年(天正7年)山崎秀仙(しゅうせん)と共に対談中、突如として乱入してきて、秀仙を斬った毛利秀広を鎮めようとしたところ、秀広に斬られて絶命。直江家は後継ぎとなる子がいなかったため、この事件を機に名門直江家は断絶の危機にさらされるが、この事態をおもくみた主君景勝のとりなしにより、直江景綱の子お船の方を樋口与六兼続に娶らせ、直江家を存続させた。 |
| 長尾 政景 | ながお まさかげ | 越後上田庄坂戸(うえだのしょうさかと)城主。上杉謙信の姉綾子(あやこ)(後の仙洞院:せんどういん)を妻とし、勇武をもって知られる。政景、綾子の間に生まれた男子が景勝である。しかし、謙信の下風に立つのを嫌っていたため、そのことに感づいた同じ上杉家中の宇佐美定行により、永禄7年(1564年)野尻湖で、宇佐美定行と共に溺死させられる。 |
| 中条 藤賢 | なかじょう ふじかた | 1600年(慶長5年)会津征伐の際には鮎貝城主を務める。 |
| 登坂 式部 | のぼりざか しきぶ | 1600年(慶長5年)、白石城将甘糟清長(あまかす きよなが)が留守のときに伊達政宗に攻められ、すぐに降伏してしまう。 |
| 登坂 広重 | のぼりざか ひろしげ | 1579年(天正7年)山崎秀仙(しゅうせん)と直江大和守信綱が対談中に突如として乱入してきて、秀仙、仲裁に入った信綱を斬った毛利秀広を岩井信能(のぶよし)と共に成敗した。 |
| 樋口 兼豊 | ひぐち かねとよ | 直江兼続の父。長尾政景の元で活躍。政景没後は景勝の元で活躍。次第に出世し直峯(なおみね)城主となり、伊予守を称する。1600年(慶長5年)上杉の出羽攻略の際、米沢城の留守役を務めた。 |
| 藤田 信吉 | ふじた のぶよし | 鉢形城主藤田康邦の第二子。しかし、北条氏邦が康邦の跡目を相続したのを機に、鉢形城を去り、上杉に仕える。 1600年(慶長5年)会津征伐の際には、それまで大森城主を務めていたにもかかわらず、景勝を裏切り、家康の元へ走る。のちに下野(しもつけ)国西方、11万5千石の大名に取り立てられるが、死去すると、嗣子なきことを理由に改易されている。 |
| 堀江 宗親 | ほりえ むねちか | 御館の乱時、景虎方について鮫ヶ尾(さめがお)城に籠る。しかし、御館を落ち延びてきた景虎が鮫ヶ尾城に入城すると、逆心を起こし、二ノ丸に火を放ち、城兵を連れて退城した。 |
| 本庄 繁長 | ほんじょう しげなが | 慶長5年(1600年)会津征伐の際には森山城主を務める。 |
| 前田 利太 | まえだ とします | 慶次郎。前田利家の兄利久の子。最初、前田家に仕えるが、後に利家と折り合いが悪くなり、前田家を出奔。1600年(慶長5年)会津征伐の前に召抱えられた牢人衆の一人。 長谷堂の撤退戦では、殿を務め獅子奮迅の働きを示す。 |
| 松本 信濃守 | まつもと しなののかみ | 信濃守。1600年(慶長5年)会津征伐の際には大浦城主を務める。 |
| 水原 親憲 | みずはら ちかのり | 1600年(慶長5年)会津征伐の際には猪苗代城主を務める。 |
| 武藤 光安 | むとう みつやす | 1600年(慶長5年)会津征伐の際には酒田城主を務める。 |
| 毛利 秀広 | もうり ひでひろ | 1578年(天正6年)に勃発した御館の乱で活躍したにも関わらず、恩賞がないことを不審に思った秀広は調べてみると、山崎秀仙(しゅうせん)が邪魔をしていることがわかり、翌年、直江大和守信綱と対談中だった秀仙を突如、対談の中を乱入して斬る。仲裁に入った信綱も斬ったが、その後、駆けつけてきた岩井信能(のぶよし)、登坂広重によって成敗される。 |
| 安田 順易 | やすだ のりやす | 1600年(慶長5年)会津征伐の際には小峰(現白河)城主を務める。 |
| 山上 道及 | やまかみ どうきゅう | 1600年(慶長5年)会津征伐の前に召抱えられた牢人衆の一人 |
| 山崎 秀仙 | やまざき しゅうせん | 1579年(天正7年)、前年に勃発した御館の乱で活躍した毛利秀広の恩賞を邪魔をして景勝に取り次がなかったことが仇となって、翌年、毛利秀広に斬られた。 |
| 横田 旨俊 | よこた むねとし | 1600年(慶長5年)会津征伐の際には中山城主を務める。 |