| 宇喜多秀家の逸話 |
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| 秀家の祖父は父、直家に謀殺された! |
| 宇喜多直家がまだ浦上氏の家臣だったころ、亀山城という、備前にある城を攻略していた。しかし、その地は穀倉地帯であり、敵も味方も城の争奪戦には一進一退であった。そこで、1559年(永禄2年)宇喜多直家は亀山城の城将・中山備中守を謀殺して、城を乗っ取ることに成功した。そして、そこから勢力を伸ばして主家の浦上氏を倒すに至るのだが、その中山備中守は秀家の母方の祖父であったというのだ。直家からしてみれば、舅に当たる人物を謀殺するということだから、戦国の梟雄と言われるだけある。 |
| 宇喜多堤 |
| 堤といえば、武田信玄が築いたされる信玄堤が有名であるが、児島湾をのぞむ備中早島郷から倉敷の東に向かって宇喜多家の家臣、千原民部が築いたとされる。この堤は高松城の水攻めの折に築いた堤の工事に参加した千原民部が黒田官兵衛の家臣、吉田長利という土木工事の熟練者から、「甲州流防河の術」を学び、それを基本として築いたとされる。また、この堤は和戦両用であり、堤防の高さは4間(7m)、幅は土台部分が12間(21m)、上部が6間(10.5m)、長さが50町余(5.5キロ)にであったという。また、この堤が完成した年、1585年(天正13年)は秀家が元服をして、四国征伐で初陣を飾ったということで、それを祝って家臣の岡利勝が「宇喜多堤」と命名したものである。 |
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