
| 1.名前と官位 | |||||
| 宇喜多 八郎 (うきた はちろう) (幼名) ↓ 宇喜多 備前左中将 秀家 (うきた びぜんさちゅうじょう ひでいえ) ↓ 宇喜多 中納言 秀家 (うきた ちゅうなごん ひでいえ) |
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| 2.親族 | |||||
| 祖先 | 興家 (おきいえ:祖父) |
直家 (なおいえ:父) 当代きっての謀略家。 浦上家の一家臣だった宇喜多家を 下克上により大名まで押し上げた。 |
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| ふく (母) 尼になり円融院となる |
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| 妻 | 豪 (ごう:正室) 前田利家の四女として生まれる。 後に秀吉の養女となる。 三女麻阿姫同様、体が弱かったと伝えられる。 秀高、秀継を産む。 |
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| 兄弟 | |||||
| 息子 | 秀高 (ひでたか:長男) 幼名を孫九郎と称す。 |
秀継 (ひでつぐ:次男) 幼名を小平次と称す。 |
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| 3.概要 | |||||
| 1572年(元亀3年)、宇喜多直家の子として備前岡山城に生まれる。しかし、織田信長の中国攻略の命を受けた羽柴秀吉にわずか8歳のときに人質として出される。その後、秀吉の養子となり、秀吉の寵愛を一身にうけて、文禄の役(ぶんろくのえき:第一次朝鮮出兵)の時では遠征軍の総大将を任されたり、豊臣政権の5大老の一人に選ばれたりした。関ヶ原の合戦では福島正則(ふくしま まさのり)を相手に奮戦し、小早川秀秋(こばやかわ ひであき)らの寝返りを躊躇させる原因となる。敗戦後は薩摩に逃れて島津家、前田家のとりなしで死罪は免れるも、八丈島への流罪は決定し、秀家は自分の子、孫九郎、小平次と家臣数名で、八丈島に行き、そこで生涯を終える。享年、84歳。関ヶ原参戦武将中最高齢であった。 | |||||
| 4.エピソード | |||||
| 宇喜多一族の悲劇 | |||||
| 秀家の子孫は代々、島内で暮らし、明治時代がが来るまで関ヶ原の戦いで敵対した罪を許されることはなかったという。前田家から毎年、何かしらの援助があったというが、先祖の罪が子孫まで伝わったとは、宇喜多一族にとって江戸時代は大変な時代だっただろう。 | |||||
| 5.殿批評 | |||||
| 戦略 | ★★★★ | 文禄・慶長の役の活躍、関ヶ原の合戦の孤軍奮闘の戦歴を見ると、若いながらも戦の駆け引きは巧かったようである。 | |||
| 武勇 | ★★★★ | 戦の駆け引きもさることながら、関ヶ原の合戦で東軍の福島隊を相手に優勢に戦っていたところを見ると、武勇も人並み程度にはあったのだろう。 | |||
| 政略 | ★★★ | 宇喜多堤という堤防を築いている。五大老に列席するようになってからは、上方の政務をみることが多くなり、国元の政務は重臣に任せていた。 | |||
| 人望 | ★★★ | 関ヶ原の合戦の前に徳川家康の調略により、家臣団を2分されるという失態を招いている。秀家に対する家臣の信頼があれば起こり得なかったはずである。 | |||
| 総評 | ★★★★★ ★ |
豊臣政権の中では、秀吉という後ろ盾があったため、秀家の力を余すところなく発揮できたのであろうが、秀吉没後の秀家の没落ぶりをみると、豊臣家に縛られる余りに秀家自身の力を発揮せず、八丈島に配流となった感がある。また、詩もよくし、教養が高かったということとでも知られる。 | |||
| ★★★★★:人並み外れて優秀 ★★★★:人並み以上 ★★★:人並み ★★:人並みより劣る ★:人並み外れて不得手 ※総評のみ10段階評価 |
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| 6.殿語る... | |||||
| 宇喜多直家が中国方面平定軍の総大将羽柴秀吉に秀家を人質としてだしたところから秀家の人生は急転した。幸いにも秀吉に可愛がられたため、秀吉の出世と同時に秀家も出世を果たしていき、五大老に列席されるようになる。しかし、この出世には秀吉の寵愛もさることながら、秀吉の期待に応えた秀家の実力の賜物でもある。 秀吉没後は徳川家康に家臣を2分されるという、まずい面を見せてしまうが、その2分された戦力で東軍の福島隊相手に優勢に進めていた。全体的にみたら、確実に圧倒的不利な状況で秀家は自分をここまで引き立ててくれた秀吉への恩に報いるためにただ、西軍の勝利を信じてやみくもに戦わせた結果、実際に戦っている人数で見ると圧倒的に少ない西軍の士気を多いに奮い立たせて、西軍優位という状態を一時つくることができたのであろう。 関ヶ原の敗戦後、秀家は約3年間薩摩国に匿われる。この3年間秀家は打倒家康のために再起をかけること、秀吉の恩に報いることを考えたに違いない。しかし、豊臣政権内での活躍、関ヶ原の合戦などを考え秀吉に対して十分に恩に報いたこと、何よりもこれ以上匿ってもらっている島津家に面倒はかけさせることはできないことに至り、自首したのであろう。そして、家康も秀家が自身の野望により、自分に弓を引いたのではなく、ただひたすらに秀吉の恩に報いようとした結果が、関ヶ原では敵・味方に分かれたこと、3年間の逃亡生活の中で秀家自身秀吉の恩に十分に報いたことを満足したことを家康が読み取ったため、家康は秀家の命を奪わずに流罪という刑を科したのであろう。 |
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