明石 全登 あかし なりとよ
(てるずみとも言う。)
 掃部頭(かもんのかみ)。キリシタン。洗礼名ジョパンニ。父の飛騨守景親(かげちか)が黒田官兵衛の従兄弟で、もと浦上氏の臣で、直家と共に浦上氏の臣の頃は合戦で直家の先手に加わることが多く、その功より、浦上氏の滅亡後はそのまま、直家に迎えられ、宇喜多家筆頭家老として扱いをうける。
 関ヶ原の戦いでは宇喜多軍の前衛の将として、福島正則勢の攻撃によく戦った。
 妻は秀家の腹違いの姉。
 大坂派
宇喜多 詮家 うきた あきいえ  左京亮(さきょうのすけ)。国元派。中村形部により長船紀伊守の毒説の首謀者に仕立て上げられる。これに怒った国元派の面々は主君秀家に中村形部の引渡しを迫るが、秀家が拒み国元派、大坂派の調停に入ったため、国元派は備前島屋敷に籠城をする。その後、大老の名において徳川家康が仲介にはいって、今回の騒動の首謀者、詮家らを関東へ蟄居させる。
 後に大坂落城の折、家康の孫娘であり、秀頼夫人でもある千姫を救出した坂崎出羽守成正である。
浮田 右馬助 うきた うまのすけ  右馬助。
 豊臣秀吉の九州征伐の折の日向高城(たかじょう)攻めの折の軍監
宇喜多 忠家 うきた ただいえ  宇喜多秀家の叔父直家の弟。隠居して安心(あんじん)と号する。
宇喜多 直家 うきた なおいえ  宇喜多秀家の父。1581年(天正9年)2月14日にらい病により死去。享年53歳
宇喜多 秀家 うきた ひでいえ  宇喜多直家の息子。豊臣秀吉の養子となり、秀吉の寵愛を一身に受け、各地を転戦し武功を挙げる。後に最少年で五大老に任ぜられるなど、秀吉の期待の程がわかる。その期待に応え、関ヶ原の戦いでは西軍の最大兵力で出陣して、奮戦している。しかし、関ヶ原の敗戦後は八丈島に流され、余生を送る。
宇喜多 平吉 うきた へいきち  平吉。大坂派
岡 越前守 おか えちぜんのかみ  越前守。国元派
岡 利勝 おか としかつ  豊前守。平内。
長船 吉兵衛 おさふね きちべい  越中守。又三郎。キリシタン。
長船 吉兵衛 おさふね きちべい  紀伊守。越中守を父とする。キリシタン。大坂派。中村形部によりその死因は宇喜多詮家らにより毒説した風説が流れる。
小瀬 助六 おぜ すけろく  後の小瀬甫庵(おぜほあん)。太閤記の著者
黒田 勘十郎 くろだ かんじゅうろう  秀家の側近。関ヶ原の戦いに敗れて落ちていくとき秀家の供をした。
進藤 三左衛門 しんどう さんざえもん  秀家の側近。関ヶ原の戦いに敗れて落ちていくとき秀家の供をした。
千原 民部 ちはら みんぶ  民部。宇喜多堤の奉行を務め、見事完成させる。
寺内 道作 てらうち どうさく  長船紀伊守の用人。
戸川 秀安 とがわ ひでやす  肥後守。平右衛門
戸川 達安 とがわ みちやす  宿老、戸川肥後守秀安の子。
 秀家が質子となるまで、秀家の小姓として、秀家の少年期に一緒に過ごした。
 秀家より5歳年上。助七郎。
 国元派
中村 次郎兵衛 なかむら じろべい  形部(ぎょうぶ)。豪姫の付家老として、加賀前田家から宇喜多家へ入った人物。
 宇喜多家からとして豊臣秀吉の伏見城の普請を勤めた。
 大坂派
難波 秀経 なんば ひでつね  助右衛門。長船紀伊守の片腕として、外交の才を買われる。
 文禄の役の折の秀家軍の情報係参謀を任せられる。
延原 六右衛門 のべはら ろくうえもん  六右衛門
花房 志摩守 はなふさ しまのかみ  志摩守。国元派。 
馬場 重介 ばば しげすけ  戸川肥後守達安の配下。初陣いらい数々の戦功を立て、岩法師の異名がある。
 秀吉の九州征伐の折の日向高城(たかじょう)攻めのときに鉄砲頭を務め、重傷を負う。
宇喜多軍団