
入場口をくぐって西の丸に向かう途中からみた天守閣
|
| |
| 1.別名 |
白鷺城(はくろじょう) |
| 2.所在地 |
兵庫県姫路市本町68 |
| 3.城の種別 |
平山城 |
| 4.築城者 |
池田輝政(てるまさ) |
| 5.築城年 |
1601年(慶長6年) |
| 6.遺構 |
大天守、東、乾、西小天守等8棟(以上国宝)
櫓27棟、門15棟、堀約1000m(以上重要文化財)
内濠中濠の一部、中濠以内は特別史跡 |
| 7.天守閣の構造 |
木造5層6階、地下1階 |
| 8.簡単な沿革 |
|
| |
1333年播磨の守護職赤松氏がはじめて城郭を築き、小寺氏の居城時代を経て、1580年には織田信長の命により中国攻略をしていた羽柴秀吉が中国攻略の拠点として3層の天守を築いた。
関ヶ原の合戦の戦功により、徳川家康の女婿の池田輝政が入城すると、1601年から8年の歳月をかけて現在の5層6階の地下1階の天守閣を築いた。
10年後池田氏3代のあとに、本多忠政が入城し、長男忠刻(ただとき)、千姫(二代将軍秀忠の長女)夫妻のために西の丸に百間廊下と呼ばれる長局、化粧櫓などを築き、1618年現在見られる姫路城の姿となった。 |
| 9.歴代城主 |
|
| |
年代 |
歴代城主 |
|
1568年(永禄11年)頃
〜1580年(天正8年) |
黒田官兵衛 |
御着(城主)小寺氏から、先祖から譲り受け代々、黒田家が城主を務める。 |
1580年(天正8年)
〜1583年(天正11年) |
羽柴秀吉 |
織田信長の中国方面攻略の指揮官を任された秀吉が、官兵衛より中国攻めの拠点として譲り受ける。 |
1583年(天正11年)
〜1585年(天正13年) |
羽柴秀長 |
兄秀吉が、大坂城に在城したため、中国の毛利氏の押さえとして羽柴秀長が守る。 |
1585年(天正13年)
〜1600年(慶長5年) |
木下家定 |
秀吉が天下を手中に治め、毛利氏が秀吉に服従すると、姫路城の戦略的、政治的価値が低くなり、秀吉は妻、ねねの実兄木下家定を城主に任じる。 |
1600年(慶長5年)
〜1613年(慶長18年) |
池田輝政 |
関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は西国大名の押えとして、池田輝政を城主に任じる。現在の姫路城の天守はこの時に完成した。 |
1613年(慶長18年)
〜1616年(元和2年) |
池田利隆 |
輝政の先妻の子である嫡男利隆が輝政、病没後は城主になる。 |
1616年(元和2年)
〜1617年(元和3年) |
池田光政 |
利隆、没後は利隆の子光政が継ぐも、わずか7歳ということで、改易を命じられる。 |
1617年(元和3年)
〜1639年(寛永16年) |
本多忠政 |
光政改易後、本多忠勝の嫡男忠政が城主に任じられる。忠政は西の丸、化粧櫓などを築き、今日の姿を完成させる。また、この頃に宮本武蔵が城内で剣の指南をしたという。その後は政朝、政勝と続く。 |
1639年(寛永16年)
〜1649年(慶安2年) |
松平忠明 |
家康の外孫松平(奥平)忠明が入城。忠明後は忠弘が継ぐ。 |
1649年(慶安2年)
〜1662年(寛文2年) |
榊原忠次 |
榊原康政の孫、忠次が入城。その後は松平氏、本多氏、榊原氏、松平氏、酒井氏と続き、明治維新を迎える。 |
| 10.ご案内 |
|
| |
見所 |
本丸・二の丸・西の丸・三の丸・石垣・土塁など、これだけ多くの遺構を留めている城はない。天守などが国宝に指定されているほか、城全体が世界文化遺産に登録される。
菱の門を抜けると右手に大天守、左手に西の丸を望むことができ、時間のある人は西の丸から天守に至るルートがお奨め。
また、城内には記録によると3125ヶ所の狭間があったと伝えられており、今現在残っている内曲輪のものは287ヶ所ある。覗いてみると、いかに死角が少ないかがわかる。 |
| 入城料 |
大人
(高校生以上) |
500円 |
小人
(中学生以下) |
150円 |
| 開城時間 |
午前9時〜午後4時(閉門午後5時)
ただし6月〜8月は午前9時〜午後5時(閉門午後6時) |
| 休城日 |
12月29日〜31日 |
| アクセス |
鉄道 |
JR姫路駅下車徒歩15分 |
| 車 |
中国自動車道「福崎」から播但連絡道「砥堀」を経て、国道312号線を姫路市街へ |
| 地図 |
|
| |
|
| 11.城に関する逸話・伝説 |
|
| |
|
| 12.感想 |
|
| |
平成13年11月13日 |
この城に初めて訪れたときは平成9年9月9日のことなので、まずその当時を振り返って書こうと思う。
この城を最初見たのは駅から降りて、姫路城に向かって歩いていると道路からすぐに見えた。あまりにも雄大だったので思わず写真を撮ってしまった。
歩いて近づいていくと城はどんどん大きくなっていき、私の期待もそれと比例してますばかりで、門をくぐり姫路城の城郭内に入ると、入城券を買うところまでまだまだ、歩かなくてはいけない。入城券を買って城の中に入っていくとまるで、迷路のようなところにきてしまったという感があった。天守閣だけが目印で天守閣に登るのに、天守閣の周りをグルッと回ってようやく天守閣にたどり着いた。その間30分かかった。しかも、天守閣、その他もろもろの櫓、すべて当時を偲ばせるものばかりで、中を見学させてくれるところはすべて土足厳禁だった。建物内も釘隠しとか、武器をかける場所やら、当時のものがそのまま残っていた。
それまで、天守閣しかない城しか行ったことのなかった私にとってはかなり衝撃的な城だった。さすが世界の名城。世界文化遺産だと思った。しかし、この城を作った池田輝政はまさか、自分の城が世界文化遺産に指定されるとは思いもよらなかったでしょーね。(^o^)ハハハ |
| |
| 平成13年4月8日(日曜日) 晴れ |
姫路城へは今回で2度目になる。今回はバスツアーということもあって見学時間は2時間半。しかも花見客がたくさんいて、城も大混雑だった。
今回は特別公開してあるところがあったのでそのことについて書くと、まず、化粧櫓の千姫がいる、姫路城内で唯一畳のひいてある部屋へ上がれたこと。この部屋は千姫のために作られたということもあって景色もよく、たくさん日光が入るようになっていると思った。
次に折廻り櫓。ここはそれほど特徴はなかったと思うが、下り階段が下ったところにすぐに壁があって下りにくいと思った。現代でいうところの応接間といったところらしいです。
次に厠(かわや:トイレ)ここはすごく狭いところだった。トイレだから当たり前なのだが・・・。しかもくさかったので実際に使っていた感じがあった。今でいう便器は2つあって両方とも木製のボットン便所だった。ドアもそれぞれちゃんとあり個室になるようになっていた。場所は天守閣の1階の奥にあった。(西大柱のあるところ。)
次に乾櫓。ここは上にあがるまで人がすれちがえないくらい、すごく狭いところがあった。地上から5階の造りになると思うが、櫓としては4階建てで3階が天井が低く、私の頭が当たるぐらいで、しかも人と人がすれちがうことのできない階段で、大変だったが4階の景色は最高によかった。 |
| |
| 平成19年9月23日(日曜日) 晴れ |
| 100名城のスタンプ、国宝四城への旅のスタンプを押したいという衝動をおさえきれず、姫路城へ出かけた。この季節は特にイベントを催していないので、きっと空いているだろうと思っていたが、かなりの混雑ぶりだった。さすが世界文化遺産である。久し振りにきた姫路城だったが、この城はやはり他の城とは別格だ。近くからみると城の造形美に見とれる。天守群に至ってはこれでもかと言わんばかりの複雑さである。城郭内を歩くと狭間の多さ、天守までの道のりの長さに防御力の高さを改めて思い知らされる。正に才色兼備の城と言える。来年は菓子博が催されるようなので、来年も是非行きたい。 |
| |
| 平成22年3月13日(土曜日) 曇り |
| 姫路城が平成の大改修ということで平成22年〜平成27年の5年間天守の中に入れなくなってしまうということで、城を見に行きました。ゴールデンウィークの前から改修工事が始まり、桜祭りは実施するとのことだった。姫路城の桜祭りはとてもきれいでできれば、この時期に見に行きたいところだったが、少し前に会社の人が行ったのを聞くと、たくさんの人ということを聞いたので、ただでさえ、混雑する桜祭りの時期の前に行くということで、この時期に行くことにした。しかし、車で行って高速を降りたところからすでに渋滞が始まって駐車場へ辿りつくまで一苦労。車を停めて中に入っていくと入場券売り場はごった返していて前にも後ろにも動けない状態でした。やっとの思いで中に入ると西の丸の化粧櫓は青いビニールがかかって、工事が一部始まっていた。天守の方は既にクレーンが設置されており、全景を撮ると映ってしまうような状態だったにも関わらず、入場制限がかかるほどで、天守内に入るにも1時間以上待って入るという状況だった。中も人しか見えない混みようで最上階へ上がる前でも入場制限がかけられた。それにしても城を見に行ったのか、人を見に行ったのか判らない城巡りだった。ちなみに5年間の回収期間中は天守の側にエレベータが設置されて近くから見れるとのこと。ただし、遠くからは足場で囲われる為、見れないとのこと。 |
| |
|
 |
 |
 |