3.築城者
斯波義重(室町幕府の管領、尾張、遠江、越前守護)
室町時代の初めに清洲城の元となるものが、尾張の守護職であった斯波義重(しばよししげ)に築かれた。
その後、1555年(弘冶元年)織田信長が那古野城から入ってきて、1560年(永禄3年)、桶狭間の合戦のときはこの城から出陣し、勝利を収めて、織田信長は天下統一の第一歩を踏み出すことになる。その後、信長は各地の戦国大名との戦いに勝利を収め、このまま天下は信長によって統一されるかに見えたが、1582年(天正10年)家臣明智光秀による本能寺の変により、信長は志半ばにして倒れる。
その後、清洲城は信長の次男信雄(のぶお)が城主となり、信雄の手により大改築が行われ、大幅に大きくなり、清洲の町もより一層の賑わいをみせていた。
しかし、その後、1610年(慶長15年)徳川家康により清洲廃都、名古屋遷都が命じられて、「東海の巨鎮」、「天下の名城」と唄われた清洲城は6万都市とともに消えてなくなった。その時のことを当時の人はこう唄っている「思いがけない名古屋ができて、花の清須は野となろう。」
なお、名古屋城築城に際して、清洲城も築城の材料として使われている。そのことが顕著に表れているのが、名古屋城の西北櫓で、西北櫓は清洲城の天守閣の材料でできているため、西北櫓のことを別名清洲櫓とも言う。
5.天守閣の構造
鉄筋コンクリート造り3層4階(平成元年再建)
6.簡単な沿革
2.城の種別
平城
清洲公園から上がってきたところを撮った清洲城天守閣
4.築城年
1405年頃(応永12年)
1.所在地
愛知県西春日井郡清洲町大字朝日字城屋敷1番地1
| 年代 |
歴代城主 |
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1405年頃(応永12年頃)
〜 |
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1405年頃(応永12年頃)斯波義重が清洲城を築く。義重はここに守護代を置いて統治させる。しかし、孫義敏の代に内紛が起こり、同族の斯波義廉が支配する。義廉は織田大和守を守護代として置く。
その後、織田信秀が斯波三奉行の一人となり、清洲奉行として清洲城を居城とする。信秀が古渡城に移ると、織田信友が入るが、織田信長と不和になり、1555年(弘治元年)信長に攻められて自刃した。 |
1555年(弘治元年)
〜1574年(天正2年) |
織田信長 |
織田信友を破った後、信長はこの城を居城とした。
1560年(永禄3年)、この城から出陣して桶狭間において今川義元を破ったのは、あまりにも有名である。
1563年(永禄6年)、信長は小牧山に新城を築き、小牧山城を居城としている。その後は城代が置かれたと思われる。 |
1574年(天正2年)
〜1582年(天正10年) |
織田信忠 |
父信長より譲り受け居城としている。
1582年(天正10年)本能寺の変に巻き込まれ、二条城にて討死している。 |
1582年(天正10年)
〜1590年(天正18年) |
織田信雄 |
1586年(天正14年)、内・中・外の3重の堀を構えた城郭に大改修する。このときの規模は東西1.6km、南北2.8kmに及んだと伝えられる。 |
1590年(天正18年)
〜1595年(文禄4年) |
羽柴秀次 |
豊臣秀吉の養子で、後に関白になるが、乱行が目立ち殺生関白と揶揄され、秀吉から切腹を命じられて自刃している。 |
1595年(文禄4年)
〜1600年(慶長5年) |
福島正則 |
|
1600年(慶長5年)
〜1607年(慶長12年) |
松平忠吉 |
福島正則が関ヶ原の合戦の功により、安芸国に移封となると、徳川家康の4男忠吉が入る。 |
1607年(慶長12年)
〜1613年(慶長18年) |
徳川義直 |
松平忠吉が関ヶ原の合戦に受けた傷が原因で死去すると、徳川家康の9男が入る。
1610年(慶長15年)、徳川家康が名古屋遷都を命じ、1613年(慶長18年)に名古屋城がほぼ完成し、義直が名古屋城に移ると、清洲城は廃城となる。 |
7.歴代城主
| 見所 |
現在天守閣が再現されているところは、清洲城跡とは関係がなく、川を挟んである清洲公園が清洲城の本丸・天守台の跡と伝わる。その清洲公園も東海道線により分断されているため、かつての面影はほとんど残っていない。
再現された天守閣は入母屋屋根に望楼を載せた、いわゆる望楼型の天守で、最上階は廻縁及び勾欄を付し、化粧造りで、下階の面積に比べ著しく小さいのが特徴。 |
| 入城料 |
区分 |
個人 |
団体(30名以上) |
| 大人(高校生以上) |
300円 |
250円 |
| 小人 |
150円 |
100円 |
| 開城時間 |
午前9時〜午後4時半 |
| 休城日 |
12月29日〜31日 |
| アクセス |
鉄道 |
JR清洲駅より徒歩15分
名鉄電車清洲駅より徒歩15分 |
| 車 |
東名阪道清洲東IC〜国道22号5分 |
| 地図 |
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8.ご案内
この日は天気もよくて城の眺めはバツグンにいい日だったが、数年前から花粉症になってしまった私にとっては花粉がたくさん飛んでいて、目がとてもかゆくて大変な日だった。しかし、清洲城の初登城なので花粉症にも負けず、頑張りました。(;_;)ウルウル
清洲城は前面に公園があり、橋を渡って門をくぐって、天守閣に入れるという天守閣しかない現代風の城だった。それもそのはず、1610年の名古屋遷都により、清洲城は解体されてしまい、あとかたもないので、もちろん遺構もないので戦国時代を偲ばせるものはなにもない。
門をくぐって天守閣に登るまでには程々にキレイされた庭が天守閣の前面にある。天守閣には靴を脱いであがっていく。
2階は展示室になっており、桶狭間の合戦に出陣する前に信長が敦盛を舞っている風景が人形で再現されており、その前には桶狭間の合戦に関する説明と人形が付けている物についての説明のビデオが設置してあった。
3階は郷土の歴史館になっており、4階が展望室になっている。4階の展望室は外に出られるようになっており、城の周りを見渡せるようになっている。南西方向にはすぐ近くにJRが走っており、城の周りは公園(広場)になっている。1階は別館とつながっていて、その途中の渡り廊下でスタンプをゲットした。
平成元年に再建されただけあって、さすがにキレイだった。それでいて現代風の城であった。
6.感想
平成13年3月20日
今回は以前行った時にどこにあるか、わからなかった濃姫像、信長像を見る目的で行った。そのため、清洲城天守閣内へは入らなかった。まずは前回駐車場からお土産屋の横を通り抜けて直接天守閣に向かってしまったため、今回はまずは、木が覆い茂っている小高い丘へ、まず行ってみるとそこは、信長公の石碑があった。しかも、そこは清洲城の跡となっていた。しかし、そこには信長像はなかった。
次は清洲城の敷地内を通って清洲城天守閣の裏に出て見ると広場になっていた。なんだ広場かと思いきや、奥の方になんと濃姫像がひっそりと立っているではないか!!そこですかさず、写真に収めました。しかし、信長像はここにもなかったです。
しかし、清洲城の城跡というのはJRによって二分されているということを聞いていたので、さてはと思い、JRの線路の下をくぐっていくと、公園があるではないですか。もしやここに信長像はあるのではと思い入っていくとやはりありました。信長像が少し高くなったところにありました。そこでやはりすかさずカメラに収めました。
しかしながら、話には聞いていたけど、清洲城跡が鉄道によって二分されてしまっているのを目の当たりにするとなんともやるせない気持ちになりました。
平成13年12月2日(日曜日)