黒い要塞
熊本城
   

熊本城天守閣

 1.別名 銀杏城
 2.所在地

熊本県熊本市本丸1番1号

 3.城の種別

平山城

 4.築城者

加藤清正

 5.築城年 1607年(慶長12年)
 6.遺構

宇土櫓ほか櫓10棟 ・ 門1棟 ・ 堀約253m(以上重要文化財)、石塁 ・ 堀(特別史跡)

 7.天守閣の構造 鉄筋コンクリート造り3層6階、地下1階(昭和.35年再建)
 8.簡単な沿革  
   加藤清正(きよまさ)が1590年(天正18年)頃に起工し、1607年(慶長12年)に完成させた。その間、清正は朝鮮出兵に2度も出ているが、朝鮮での経験を存分にいかし、実戦向きの城にしたと言われる。
 完成した熊本城は茶臼山台地の地形を十分に生かした、攻めにくく、守りやすい東高西低の城で、最も高い東の位置に本丸をおき、順に西に下りながら、ニの丸、藤崎八幡宮、新町と続く。東西1700m、南北1300mの城域をもち、なだらかな勾配を持った石垣は実戦向きであり、美しくもある。これらのことから日本三大名城の一つとして上げられるようになった。
 清正はこれを居城として肥後を支配したが加藤家が治めていた時期は二代45年で終わってしまう。その後、細川氏が入り、明治まで続いた。1877年(明治10年)の西南の役では実戦向きの城として、難攻不落ぶりを十分に発揮した。
 1960年(昭和35年)現在の天守閣が再建された。
 
 9.歴代城主   
  年代 歴代城主  
1469年
〜1487年(文明年間)
出田秀信
(いでだひでのぶ)
 菊地氏の代官、出田秀信が茶臼山東端の千葉城に在城した。
  1521年
〜1531年
(大永・享禄年間)
鹿子木親員
(かのこぎちかかず)
 菊地氏に属した鹿子木親員が現在の熊本城の南隅に当たる古城址に新城を築城したのが、隈本城の始まりである。
   その後、親員の女婿城(じょう)親賢、子親政、孫久基と続くが、久基の代に薩摩国の島津義久の配下に入る。
  1587年(天正15年)  佐々成政  九州征伐後、豊臣秀吉より肥後一国を与えられる。
  1588年(天正16年)
〜1611年(慶長16年)
加藤清正  佐々成政の治政を嫌い、土豪衆が一揆を起こし国内が乱れる。その責を問われ、成政は自刃。
 その後、加藤清正、小西行長に肥後国を半分ずつ与えられ、清正は隈本城、行長は宇土城に入る。
 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで東軍についた清正は、西軍についた行長の居城宇土城を攻め落とし、その功で肥後一国を与えられる。
 1601年(慶長6年)、新たに茶臼山と呼ばれていた丘陵、千葉、隈本両城を中心に大規模な築城を開始する。
 1607年(慶長12年)、現在に伝わる熊本城が完成する。このとき、築城工事完成記念に2本の銀杏(ぎんなん)を植えたため、銀杏城とも呼ばれた。
  1611年(慶長16年)
〜1632年(寛永9年)
加藤忠広  父、清正の遺封を継ぐも、1632年(寛永9年)6月、幕府の外様大名排斥策にはめられて、出羽国荘内藩に配流される。加藤家の治政は2代44年しか続かなかった。
   加藤忠広が配流された後、豊前小倉城主細川忠利が入城し、明治維新まで11代代々細川家が城主を務めた。
   
 10.ご案内   
       見所  復元された大天守・小天守。
 現存する宇土櫓ほか12棟の古建造物は重要文化財に指定されている。
 自然の地形を利用して築かれた石垣も独特の美を醸し出している。その石垣の石の数は15万個とも言われている。聞くだけでも圧倒される数だ。
 また、城郭もかなり残っているので、城内を見て歩くだけでも、当時の雰囲気を味わうことができる。
入城料   大人(高校生以上)  入城・登閣共通券:500円
入城料:200円
登閣料:300円
 小人 入城・登閣共通券:200円
入城料:100円
登閣料:100円
開城時間 午前8時半〜午後6時(4月〜10月)
午前8時半〜午後5時(11月〜3月)
ただし、入城は各30分前まで
休城日 12月29日〜31日
 アクセス   鉄道 JR熊本駅から市電熊本城前又は、バス交通センター下車、いずれも徒歩5分
 車 九州道熊本IC〜国道57号線
 地図    
   
 11.城に関する逸話・伝説   
   西南戦争を予言した加藤清正
   加藤清正が築城工事完成記念に2本の銀杏を植えたとき、「銀杏天守閣の高さに達すれば、兵乱あるべし。」と予言したと伝えれていたが、銀杏が天守閣の高さに達した1877年(明治10年)、西南戦争が起こり、西郷隆盛率いる薩摩軍を相手に50日余も籠城し、その堅牢さをいかんなく発揮した。
   
 12.感想  
   平成13年11月2日(金曜日)  
 

 この城は平成9年9月12日に行った城なので、当時のことを思い出しながら書いていこうと思う。
 姫路城以外の城というのは、現在では天守閣のみしか現存していないと思っていた当時の私にとって、この城を最初、見たとき、感激してしまった。まず天守閣までの城郭が残っていることもそうだが、天守閣をみたときに同時に目に飛び込んでくる石垣の多さと雄大さ。これは筆舌につくしがたいものがある。まさにといった感じである。姫路城とはまた違い姫路城はどちらかというと、天守閣、城郭の美しさが目立っていたが、熊本城は美しさというよりも雄大で男らしさ、要塞、といった感じが如実にでていると思う。築城者の清正の人柄が城にもでていると思った。
 しかし、西南の役で戦火にあってしまい、天守閣、その他もろもろ焼失してしまい、現在の天守閣は再建されたもので、鉄筋コンクリートの城になってしまっており、内部は展示室になっている。(宇土櫓などは戦火を免れたので、当時を偲ばせる所もある。)
 清正自身は自分の作った城が時代を越えて活躍したことに喜んでいるかもしれないが、清正が作った城は見れないのは非常に残念に思う。残っていれば、世界遺産も間違いないと思った。(世界遺産に定められる基準はよくわからんが・・・(^o^)ハハハ)

  
   
  平成19年5月3日(木曜日)
   熊本城へ10年前に行ったことはあるが、そのときはまさか城のホームページを作るなど思いもよらなかったので、写真もあまり撮っておらず、パンフも一枚しか入手していなかった。その為、今回は写真もたくさん撮って、資料もたくさん入手することが目的としてあった。また、以前訪れたときより、城郭内の櫓等の建物の再建に力をいれており、今回行ったときは築城400年を記念して「肥後まる」というマスコットキャラクターも売店に販売しており、熊本城の賑わいの勢いを感じることができた。
 また、行く前から事前調査で判明していたが、本丸御殿が再建中で再建の過程が見ることができた。この本丸御殿もなるべく木造による再建を心掛けており、非常に丁寧に再建しようとしていることがわかって、完成への期待が非常に高まった。今回新たに再建が成った櫓飯田丸五階櫓を見たが、かなり出来がいい。木造建築で細部にわたり本格的に再現されているので、こういう再建なら、どんどん実施してほしい。城郭内の再建工事が一段落ついたら、もう一度訪れてみたい。
   
   令和6年3月15日(金曜日)
   2016年(平成28年)に熊本を襲った震災以降初めて訪れた。今回、元々は訪問する予定はなかったのだが、たまたま会社の後輩が休暇をとってくれて行くことが出来た。そんな熊本城への城攻めだったが震災の被害は想像を超えるものだった。あの難攻不落を誇った石垣群、多門櫓がことごとく崩れて落ちていてかなりショックだった。初め以前、訪れたときの南側の券売所に向かったが、重機があり全く面影がなかった。北側経由で加藤神社で御朱印を購入してから北側券売所に向かったが、北側券売所は土日限定だったため、二の丸中駐車場付近の券売所で入城券を購入して中に入っていた。

中は石垣崩落を考慮してセメントで石垣上部を固めていたが、それでも危ないということで天守の場所まで直通で空中通路で行くようになっていた。せっかくの郭内の散策もできず、かなり残念だった。

天守の中は熊本城の歴史がわかりやすいようにパネル、動画形式の博物館となっており特にうなるような展示物もなく一気に屋上の展望台まであがると見慣れない建造物が目に入ってきたので、近くの誘導員の人に聞くと宇土櫓ということを聞き、ここでもかなりのショックを受けた。誘導員の方はとても城のことが好きな人で以下のようにいろいろな話を伺うことが出来た。

・復興には640億円のかかりその8割が石垣の修復にかかるということ、
・石垣を忠実に元の位置に元の大きさを戻すこと、
・壊れた石垣を1人の石工が一日で.1.3個、、2人では3個しか造れないこと。
・宇土櫓の復元には8年を要すること。
・宇土櫓は移築されたものではなく、清正が築き、小西行長改易後、小西行長の家臣をここに住まわせたので宇土櫓と呼ばれるようになったこと、
・宇土櫓に棟上げ札が見つかれば国宝に認定される可能性のある歴史的な価値のある建造物であること、
・二様の石垣は以前は清正と細川家の違いとなっていたが、近年の研究で清正と忠広の親子の違いということがわかったこと

天守が復興したといっても中はまだまだ震災の爪痕が残っており、復興にはまだまだ時間を要することを改めて痛感した。
地震の対策をしている熊本城でも続けて震度8クラスの地震が2度も続けて起こることは想定しておらず、改めて地震の規模の大きさを体感することができた。

次回は8年後の宇土櫓が復興したときに訪れたい。