

石田三成は佐和山城に入城して、街道の要所として堅固な城を築かなければいけないと感じ、19万4千石には立派すぎる5層とも3層とも言われる天守を備えた城へ大改修したため、世間から「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」と詠われるようになった。島の左近とは島清興のこと。

ハリボテの佐和山城天守
佐和山城が落城したとき、攻め手は栄華を尽くした三成の居城であるからさぞ華美な城であろうと我先に城内になだれ込んだが、壁は粗壁でなんの装飾もなく至って質素な城であったと伝えられている。豊臣家に対して奉仕の精神で仕えたいかにも三成らしい城であったと伝えられている。
佐和山一夜城復元プロジェクトなるものが明日までしかないので、どういったものか楽しみにして行った。しかし、彦根城からそれらしいのがあり、もしやと思っていたが、現地につくやはり復元プロジェクトとは名ばかりのただのハリボテだった。会場町内会によるは出店でなんとないまいちだった。ハリボテの後ろには佐和山城址書かれた看板があり、わざわざハリボテの城を造らなくてもいいのにとつくづく思った。せっかくだから城跡を見てみようと思ったが、城跡まで遠いこと、軽装だったことを考慮して行くのはやめにした。次回はそれなりの格好をして山登りをして城跡を制覇しようと思う。
佐保山城
滋賀県彦根市古沢町
山城
| 年代 | 歴代城主 | |
| 鎌倉時代(建久年間)に近江国の豪族佐保時綱によって築かれたのが最初とされている。 | ||
| 〜1571年(元亀2年) | 磯野員昌 | 戦国時代になると、浅井氏の持ち城となり、城主に磯野員昌が入る。 |
| 1571年(元亀2年) 〜1582年(天正10年) |
丹羽長秀 | 1571年(元亀2年)に磯野員昌が織田信長に降ると織田信長は家臣の丹羽長秀を入れる。 |
| 1582年(天正10年) 〜1583年(天正11年) |
堀秀政 | 1582年(天正10年)に織田信長が本能寺に倒れると、その後開かれた清州会議により堀秀政が入った。 |
| 1583年(天正11年) 〜1590年(天正18年) |
堀尾吉晴 | 1583年(天正18年)堀氏の転封に伴い、堀尾吉晴氏が入る。 |
| 1590年(天正18年) 〜1600年(慶長5年) |
石田三成 | 1590年(天正18年)石田三成が入ると、城を大改修した。 1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いに石田三成が敗れると、東軍率いる徳川家康は関ヶ原の戦いにおいて寝返った武将を先陣として、佐和山城を攻めさせて、落城させている。 |
佐保時綱
鎌倉時代(建久年間)
土塁、石垣、堀
鎌倉時代(建久年間)に、近江国の豪族の佐保時綱によって築かれる。その後、浅井氏の城となり、磯野員昌が城主となる。元亀年間に浅井氏は織田氏と激戦を繰り広げ、ここ佐和山城も激戦の地となった。1571年(元亀2年)城主磯野員昌は織田氏に降服。代わって織田家家臣丹羽長秀が城主となった。1582年(天正10年)本能寺の変後、堀秀政、堀尾吉晴らを経て15890年(天正18)年には石田三成の城となった。1600年(慶長5年)関ヶ原戦に西軍が敗れると、石田三成の居城佐和山城は東軍の攻撃を受け落城。戦功で三成の旧領を与えられた井伊氏は佐和山城に代えて彦根城を造営した。彦根城の建設資材は佐和山城からかなりが転用された。石田三成の象徴でもあった佐和山城は徹底的に破壊され、廃城となった。