武将名 武将名(ひらがな) 概略 関連ページ
椎名 康胤 しいな やすたね  越中国松倉城に拠った土豪。はじめ上杉家麾下。武田信玄と結んで上杉氏に背き松倉城を追われる。その後富山城に拠ったが、上杉氏に攻め落とされる。上杉氏に帰参を求めたが、許されずその後上杉謙信に攻められ討たれたと伝わる。 武田家臣団
篠井 泰信 しのい やすのぶ

 関ヶ原の戦いの折、最上氏攻めの第二陣として横田旨俊、本村親盛らとともに上山城を攻めるが最上軍と物見山で戦い敗北。

柴田 勝家 しばた かついえ  織田信長の重臣。はじめ信長の弟信行を跡取りに支持するが、和解した後は信長に忠誠を誓う。再度謀反を企てた信行信長に密告し、謀殺するきっかけをつくる。その後は各地を転戦する。加賀一向一揆など北陸方面にて活躍の場を広げる。鬼柴田等の異名を取る。本能寺の変後は羽柴秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いに敗れ、北ノ庄城で自刃。 織田家臣団
柴田 勝豊 しばた かつとよ  母は柴田勝家の姉にあたり、その縁で養子となった。織田信長死後の清洲会議で勝家の所領となった近江国長浜城の守備を任された。しかし、勝家が同じ養子の佐久間盛政と仲が悪いことなどもあって、羽柴秀吉に調略されて寝返った。しかし病を得ていたため、1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いでは家臣を代理として参戦させた。賤ヶ岳の戦いの直後、病死した。
斯波 義統 しば よしむね  尾張国守護。守護代織田信友に擁せられて尾張国清洲城に拠る。1552年(天文21年)織田信友織田信長攻撃計画を内通したため、1554年(天文23年)信友に暗殺された。
島 勝猛 しま かつたけ  =島清興(しまきよおき)
島 清興 しま きよおき  島左近の名で知られる。島勝猛(しまかつたけ)とも。はじめ筒井定次に仕えるが、1585年(天正13年)豊臣秀長に仕え、秀長死去後は嗣子秀保に仕える。秀保死後は石田三成に1万5千石の高禄で招かれた。1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの前哨戦杭瀬川の戦いにおいては、中村一栄軍を破る。関ヶ原の戦いにおいて、黒田長政軍の鉄砲隊に重傷を負わされ、討死にしたと伝えられる。
島 左近 しま さこん  =島清興(しまきよおき)
清水 宗治 しみず むねはる  小早川隆景に属して各地で戦い功があった。織田信長の中国侵攻に抵抗したが、1582年(天正10年)羽柴秀吉の水攻めにあい、落城寸前に城兵の助命を条件に切腹した。
下曽根 浄喜 しもそね じょうき  足軽大将衆。甲斐国武田氏の臣。下曽根覚雲斎とも。1559年(永禄2年)高坂虎綱の後任として小諸城の城代となる。1582年(天正10年)織田氏による甲州征伐の折は同年3月16日に小諸城に逃れた武田信豊を討ち取り、首を織田信長に進上するも誅殺される。 武田家臣団
謝用梓 しゃようし  中国、明の武人。1592年(文禄元年)日本の朝鮮出兵に際、朝鮮に出陣。1593年(文禄2年)徐一貫とともに明の正規の使節として詐称して日本陣営に入る。5月沈惟敬を加え、石田三成小西行長に伴われて肥前名護屋に赴き豊臣秀吉と対面。講和交渉うえ翌6月に帰国。
徐一貫 じょいっかん  中国、明の武人。日本の朝鮮出兵に際、1592年(文禄元年)7月朝鮮に出兵する。朝鮮が日本と通謀していないことを確認して帰国。1593年(文禄2年)講和の動きの中で謝用梓と共に明の正規の使節と詐称して、5月沈惟敬を加え、石田三成小西行長に伴われて肥前名護屋に赴き豊臣秀吉と対面。講和交渉うえ翌6月に帰国。
城 景茂 じょう かげもち  足軽大将衆。はじめ上杉謙信に仕えるも謙信の不興を買い、上杉家を去り、武田家に仕える。武田氏滅亡後、徳川家康に仕え、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いに従軍した。 武田家臣団
常高院 じょうこういん  浅井長政の次女。父長政滅亡後、母お市と共に城を落ち延び、柴田勝家に再嫁したお市に従う。しかし、勝家秀吉の手により滅亡する。その後秀吉の命に従い、京極高次に嫁ぐ。高次死去後、落飾して常高院と号す。
白鳥十郎 しらとり じゅうろう  出羽国村山の土豪。もと白鳥館に拠ったが谷地城に移った。1577年(天正5年)織田信長に良馬を贈った。のち最上義光のために謀殺された。
沈惟敬 しんいけい  中国、明の官僚。1592年(文禄元年)、日本の朝鮮出兵の際、日本の実情に通じていたことから遊撃将軍に任命されて朝鮮に出兵。以来、種々の策を弄して日本との交渉にあたり、1593年(文禄2年)には小西行長らとはかって日明両国の真意を糊装する講和条件で和議を進める。しかし、1596年(慶長元年)明の冊封使の来日により偽装工作が露顕。1597年(慶長2年)の日本の朝鮮再出兵を引き起こした。のち明の朝廷から講和不成功の全責任を負わされ、捕らえられて処刑。
神保 長職 じんぼう ながもと  越中国富山城主。1560年(永禄3年)上杉謙信に攻められ居城を放棄して増山城に逃れた。のち謙信に属し増山城により一向一揆と戦った。
シ音
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