景勝の右腕
直江兼続
1.名前と官位  
樋口 与六
(ひぐち よろく)
(幼名) 
        ↓

樋口 与六 兼続
(ひぐち よろく かねつぐ)
       ↓
直江 与六 兼続
(なおえ よろく かねつぐ)
       ↓
直江 山城守 兼続
(なおえ やましろのかみ かねつぐ)
 
  
2.親族 
  祖先 樋口 兼豊
(ひぐち かねとよ:父)
  お船の方
(おふねのかた:正室)
 
   兄弟
  息子
 
    
3.概要    
   1560年(永禄3年)樋口兼豊の長男として、誕生する。その後、上杉謙信に見出され景勝の側近となる。1578年(天正6年)に転機が訪れる。謙信の後継者争いの御館の乱である。この御館の乱で景勝を勝利に導いた兼続はより一層、景勝の信頼を得て、政務から軍務に至るまで上杉家の中核として身を粉にして働いた。
 1600年(慶長5年)、豊臣秀吉、前田利家といった武将が死去すると、今まで鳴りをひそめていた徳川家康が幅を利かすようになっていった。しかし、そんな家康に昂然と立ち向かい、必勝の構えで臨んだにも関わらず、関ヶ原での西軍のあまりにも早すぎる敗北に兼続はどれだけ落胆したであろうか。その後、上杉家は関ヶ原に勝利した家康に敵対した罪を問われ、会津120万石から米沢30万石に減らされてしまう。
 晩年は徳川幕府に忠実に従い、1619年(元和5年)江戸で死を迎える。享年60歳。
    
4.エピソード   
  樋口与六が直江兼続になった訳   
   1579年(天正7年)、春日山城中で、上杉家家臣、直江山城守信綱と同じく上杉家家臣、山崎秀仙(しゅうせん)が対談中、同じ上杉家家臣の毛利秀広(ひでひろ)が突然、秀仙を斬った。これに驚いた信綱は秀広を斬ろうとしたが、反撃にあい斬られてしまった。しかし、この騒ぎに駆けつけた岩井信能(のぶよし)登坂広重(とざかひろしげ)により、秀広も斬られてしまうという事件が起こった。この騒ぎの原因は秀仙が主君景勝に秀広のことを御館の乱で戦功があったにも関わらず、秀仙が邪魔をして景勝に取り次がなかったため、恩賞が秀広に与えられなかったためということだった。
 しかし、この騒ぎの巻き添えをくらった信綱には、まだ後継ぎとなる子がいなかたため、直江家は断絶する危機にさらされたのである。直江家は累代の名門であったので、この御家断絶を重くみた景勝は直江家に残されたお船(せん)の方を兼続に娶らせ、兼続に直江家を継がせることにした。ここに直江兼続が誕生したのだった。時にお船の方25歳、兼続22歳だった。
    
5.殿批評    
  戦略  ★★★★★  小田原攻めの陣中で、豊臣秀吉より「20万の大軍を預けて、高見の見物をしたい」と言わしめた戦略眼は目を見張るものがある。
  武勇 ★★★★  陣頭に立って指揮をするタイプの武将ではないが、勇猛な上杉軍を指揮したのであるから、それなりの武勇はあったはず。
  政略 ★★★★  上杉家の宰相として腕を振るったその政治力は相当のものであったはず。
  人望 ★★★★  主君景勝を良く補佐し、自らの才覚に溺れることのなかった兼続は、家臣からも信頼が篤かっただろう。
  総評 ★★★★★
★★★
 戦略眼、政治力ともに一家臣としては群を抜いており、豊臣政権の中でうまく上杉家の舵をとった。しかし、関ヶ原の合戦では西軍につき、会津120万石から米沢30万石に減封させたのも兼続である。この人生の最大の汚点とも言えるべき点が兼続の評価を大いに落としていることは否めない。
  ★★★★★:人並み外れて優秀 ★★★★:人並み以上 ★★★:人並み ★★:人並みより劣る :人並み外れて不得手
※総評のみ10段階評価
 
    
 6.殿語る...    
   上杉家の一家臣でありながら、豊臣秀吉にその才気を認められ、30万石の領地を与えられた兼続は第一級の武将であったことは間違いないだろう。しかし、その兼続が上杉家を関ヶ原の合戦後減封の処置を受けさせたのも事実である。兼続としてみては上杉家の一家臣でありながら、30万石の領地を与えられる程、破格の待遇をしてみせた豊臣秀吉に少なからず恩を抱いていたのだろうか。その秀吉が没してから横柄な振る舞いが目立った徳川家康が天下に大乱を引き起こす原因だと感じたのだろうか。兼続は石田三成とその家臣島左近と共謀して打倒家康の挑戦状を叩きつける。しかし、西軍の思わぬ余りにも早い敗北に兼続は窮地に立たされてしまう。兼続としては、西軍、東軍どちらが勝つにしても、たった一日で勝負が決するとは思いもしていなかっただろう。そのためいろいろな策を練っていたのだろう。しかし、一日で決着がついては、全ての策が水泡と化してしまった。
 西軍の敗北を聞いたときは恐らく、自分の判断ミス(西軍の足並みの揃っていないことを計算に入れていなかったこと)により上杉家を窮地に立たせてしまったことを悔いただろう。しかし、その瞬間から家康に挑戦状をたたきつけたときは、考えもしなかった家名存続の道を考え、実行に移すのである。
 関ヶ原の合戦後の処理では毛利家でさえ、関ヶ原の合戦では西軍として参戦しても中立という立場を守って徳川家に弓を引かなかったのに大幅な減封であったのに対して、上杉家は関ヶ原の合戦と引き金となる挑戦状を家康に直接叩きつけて、事実上家康に弓を引いたに等しいことをしており、処置としては改易されてもおかしくないのに、毛利家同様大幅な減封という処置で許されている。
 上杉家を120万石という領地にしたのも兼続であるが、その領地を30万石という領地にしたのも兼続であり、戦国の乱世から上杉という家名を存続させ得たのも兼続の才気によるところである。
    
         
    
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