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| 明智 光秀 | あけち みつひで | 足利義昭を織田信長に引き合わせて、その後、信長の下で数々の武勲をあげ、出世するもわずかの供回りで本能寺に宿泊中の主君信長を討つ。本能寺の変を起こした理由は諸説あるが、未だ謎である。 | |
| 浅井 長時 | あざい ながとき | 織田信雄の家老。尾張国刈安賀城主。 1584年(天正12年)豊臣秀吉に通じた疑いにより、信雄に殺害される。 |
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| 荒木 村重 | あらき むらしげ | 織田信長の臣。信長からその豪胆ぶりを愛されるも、毛利家に内通の疑惑を掛けられ、そのまま信長に背く。居城有岡城を包囲されるも、わずかな供回りだけで脱出をして、晩年は茶人として生き残る。 | |
| 安藤 守就 | あんどう もりなり | 伊賀守。西美濃三人衆の一人。初め、斎藤家に仕えるも織田家に引き抜かれて、その後は織田家の将として働く。 姉川の合戦では、横山城の押さえとして陣を布いていたが、織田家が劣勢であわやというときに、姉川の地に参陣して織田・徳川連合軍を勝利に導く。 その他各地を転戦するも、1578年(天正10年)8月安藤父子は武田方への内通の罪により突然追放される。本能寺の変後の混乱に乗じて、安藤父子は旧城北方に拠って、地位の回復を図ったが、稲葉良通父子に攻められ、討死した。 |
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| 飯尾 定宗 | いいお さだむね | 織田信秀の伯父とも従兄弟とも伝わるが、定宗及びその子尚清(ひさきよ)の年代からみると、後者の方が確かなようである。 飯尾氏の養子となり、奥田城主。織田信長に従って、1556年(弘治2年)6月、守山城攻めに従軍。 今川氏の西進の折、鷲津砦を守備するも、今川氏の先鋒部隊の朝比奈泰能(やすよし)の猛攻を支えきれず、鷲津砦において自刃。 |
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| 池田 恒興 | いけだ つねおき | 織田信長とは乳兄弟。幼少の頃より織田信秀に次いで信長に仕えた。1570年(元亀元年)姉川の戦いにおいては丹羽長秀と共に、徳川家康軍の援軍となり、勝利の端緒を開いた。1578年(天正6年)摂津国有岡攻めに従軍し、花隈城を攻略した。その功により摂津国を与えられる。本能寺の変時は摂津国に在しており、東上してきた羽柴秀吉と合流し、秀吉と共に賤ヶ岳の戦い・小牧・長久手の戦いに従軍する。しかし、小牧・長久手の戦いのおり、長久手に軍を進めたとき、徳川家康に攻撃され、討死。 | |
| 池田 元助 | いけだ もとすけ | 池田恒興の長男。初陣は摂津国有岡攻め。その後、父恒興から離れて淡路国岩屋攻め、甲信出陣などいずれも池田軍の総指揮官を務めている。このことより若年ながらも、織田信長よりその将才を認められていたものと思われる。本能寺の変後は父と共に羽柴秀吉の味方をし、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いに参陣するも、小牧・長久手の戦いのおり、長久手に軍を進めたとき、徳川家康に攻撃され、父と共に討死。 | |
| 磯野 員昌 | いその かずまさ | 浅井氏の重臣。1561年(永禄4年)より佐和山城主として、対六角氏の最前線となる。対織田信長戦においても佐和山城に半年あまり持ちこたえている。籠城の末、浅井長政から援軍が来ない事を知ると、佐和山城を開城して、小谷城に引き返す。その後人質にだしていた母が磔にされ曝されていることを知ると、長政を見限り、織田家に仕える。その後は高島郡小川城主になり、信長の忠実な部将として、1575年(天正3年)越前一向一揆攻めなどにも従軍。しかし、1578年(天正6年)突然織田家を出奔。その原因、その後の消息は不明。 | |
| 稲葉 良通 | いなば よしみち | 一鉄。頑固一鉄の語源となるほどの頑固者。 西美濃三人衆の一人。初め、斎藤家に仕えるも織田家に引き抜かれて、その後は織田家の将として働く。本能寺の変後は美濃において、自立の勢いを示すが、やがて羽柴秀吉に従い、小牧・長久手の戦い等に従軍する。 |
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| 猪子 高就 | いのこ たかなり | 兵介。初め、斎藤氏に仕えるも、織田信長による美濃平定後は信長の臣下となる。 本能寺の変時、二条御所で討死した。 |
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| 岩室 重休 | いわむろ しげよし | 1560年(永禄3年)、今川氏の先鋒部隊との遭遇戦において討死。 | |
| 氏家 直元 | うじいえ なおもと | ト全(ぼくぜん)。西美濃三人衆の一人。初め、斎藤家に仕えるも織田家に引き抜かれて、その後は織田家の将として働く。 姉川の合戦では、横山城の押さえとして陣を布いていたが、織田家劣勢のときに姉川の地に参陣して織田・徳川連合軍の勝利のきっかけをつくる。 1571年(元亀2年)伊勢国長島一向一揆討伐戦は柴田勝家に従い出陣したが、全軍退却のとき殿として戦い、討死した。 |
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| 太田 牛一 | おおた ぎゅういち | 主君、織田信長の生涯を伝える「信長公記」の著者。 信長、豊臣秀吉に近侍の武士。信長に仕えて六人衆のうち弓三張の一人。信長の晩年には奉行として近江国にあり、のち秀吉に仕えて伏見の検地奉行を務めたりしたが、秀吉の晩年には側室松の丸殿(京極殿)の警護役を務めていた。 |
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| 岡田 重孝 | おかだ しげたか | 織田信雄の家老。尾張国星崎城主。1584年(天正12年)3月6日豊臣秀吉に通じた疑いにより、伊勢国長島城で信雄に殺害される。 | |
| 岡田 重善 | おかだ しげよし | 1527年(大永7年)に生まれる。 織田信秀・信長の臣。1542年(天文11年)今川氏との三河国小豆坂の戦いにおいて、小豆坂の七本槍の一人に挙げられる。 信長の死後、信雄に属し尾張国星崎城主になる。 1583年(天正11年)3月16日死去。享年57歳 |
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| 織田 勝長 | おだ かつなが | 織田信長の六男。1560年(永禄3年)、武田信玄の養子(人質)となったが、1581年(天正9年)武田勝頼はこれを送り返した。信長は勝長を犬山城主とした。本能寺の変の折、長兄信忠と共に二条御所にあり討死をしている。1582年(天正10年)6月2日死去。 | |
| 織田 達勝 | おだ たつかつ | 尾張国守護(斯波義統)の守護代。 | |
| 織田 信興 | おだ のぶおき | 尾張国小木江城主。織田信秀の子。織田信長の弟。小木江城(現愛知県立田村森川)は木曽川下流にある平城で、対岸は伊勢国長島。1570年(元亀元年)長島の一向一揆に攻撃され、11月21日信興は自刃して落城した。 | |
| 織田 信雄 | おだ のぶかつ | 織田信長の次男。幼名を茶筅丸。北畠家の家督を継ぐ。本能寺の変後、徳川家康と結び、小牧・長久手の戦いを起こすも、羽柴秀吉と勝手に和平を結び、秀吉に仕える。 晩年は織田常真入道信雄と称す。 |
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| 織田 信包 | おだ のぶかね | 織田信長の弟。伊勢国長野家の家督を継ぐ。本能寺の変後は羽柴秀吉に接近して、秀吉政権下では織田一門中一番出世した。 関ヶ原の戦いには西軍に属して、田辺城を攻撃したが、戦後、旧領安堵を受け、以後豊臣秀頼に近侍する。 1614年(慶長19年)7月17日病没。享年72歳 |
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| 織田 信孝 | おだ のぶたか | 織田信長の3男。幼名は三七丸。 次男信雄よりも20日程早く生まれるも、母の身分が信雄の母よりも低かったため、三男となる。 神戸家の家督を継ぐ。本能寺の変後は柴田勝家と結び、羽柴秀吉に対抗するも、勝家が賤ヶ岳の戦いにおいて、敗れると信雄を通じて秀吉から切腹を命じられる。 1583年(天正11年)5月2日(4月29日とも)自刃。享年26歳。 |
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| 織田 信忠 | おだ のぶただ | 織田信長の嫡子。幼名は奇妙丸。早々に信長の後継者として育てられるも、本能寺の変の折、二条御所で明智軍と戦って敗死する。 1582年(天正10年)6月2日自刃。享年26歳。 |
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| 織田 信友 | おだ のぶとも | 広信とも伝えられる。通称彦五郎。尾張国清洲城主。織田大和守達勝の養子。尾張下4郡の守護代。織田信長の台頭により次第に家運が衰えたので、1555年(弘治元年)小守護代の坂井大膳が織田信光と結ぼうとしたが、大膳は信光の野望を見抜いて駿河国へ脱出した。信友はそのあと、信光に攻められ、同年4月20日切腹。清洲城は信光から信長に贈られた。 | |
| 織田 信長 | おだ のぶなが | 桶狭間の戦いにより今川義元を破り、各地の大名を切り従え、天下統一への道を驀進する。しかし、志半ば、本能寺の変により明智光秀に破れ、この世を去る。 | |
| 織田 信治 | おだ のぶはる | 尾張国野天夫(一宮市)城主。織田信秀の子。信長の弟。信長に従軍して合戦に参加。1570年(元亀元年)近江国坂本を守備していて朝倉・浅井連合軍の攻撃を受け、9月20日森可成らとともに討死にした。 | |
| 織田 信秀 | おだ のぶひで | 織田信長の父。尾張の虎と異名を取るほどの勇猛果敢な武将だった。尾張国内で勢力をつけ、尾張国統一を目指し今川氏、斎藤氏との外敵とも戦ったが、1551年(天文20年)3月3日、末森城で病死。享年42歳。また、信長が家督を譲り受け、あれだけ活躍できたのも、父信秀が蓄えた財力にも一因があるとされている。 | |
| 織田 信広 | おだ のぶひろ | 織田信長とは、腹違いの兄。今川家の安祥攻めの折に捕らえられるが、竹千代(後の徳川家康)との交換条件で、尾張国に戻される。 1557年(弘治3年)頃、美濃国斎藤義龍とはかって信長に謀反し、清洲城を奪取しようとしたが、未遂に終わった。しかし赦免されて信長の合戦に従軍。1574年(天正2年)7月伊勢長島の一向一揆攻撃に参加し、討死した。 |
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| 織田 信光 | おだ のぶみつ | 尾張国守山城主。織田信秀の弟。信長の叔父とも言われる。1548年(天文17年)三河国小豆坂での信秀と今川勢との合戦で信秀が敗れたときは殿軍をつとめ、小豆坂の七本槍の一人に数えられる。1552年(天文21年)から信長に協力、1555年(弘治元年)に信長と密約し、守護代織田信友を切腹させて清洲城を乗っ取り、これを信長に与え、自身は那古野城に移ったが、同年11月26日家臣の坂井孫八郎に殺されてしまった。 | |
| 織田 信行 | おだ のぶゆき | 織田信長の弟。勘十郎。父母は、信長と同じ。兄信長を廃嫡して、信秀の跡取に重臣たちに担ぎ出され、信長と対立するも、降参する。しかし、再度謀反を企て、重臣の密告により1557年(弘治3年)11月2日信長に謀殺される。 | |
| 織田 秀信 | おだ ひでのぶ | 三法師。織田信忠の嫡男。織田信長からは嫡孫にあたる。21歳のときに、関ヶ原の戦いの頃は西軍につき、前哨戦、居城岐阜城にて、東軍の諸将を迎えるが、信長の桶狭間に習って、城から討って出て、見事に失敗している。その後、高野山に入るが1605年(慶長10年)5月8日没した。享年26歳。 | |
| 河尻 秀隆 | かわじり ひでたか | 黒母衣衆に名を連ねていた。 織田信秀・信長父子に仕える。1548年(天文17年)3月の今川氏の三河国小豆坂合戦に従軍。東美濃国で武田氏の最前線として岩村城将を務める。武田氏滅亡後は甲斐一国を与えられるも、まもなくして本能寺の変が起こり、国衆らの一揆に襲われ殺害される。享年56歳。 |
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| 九鬼 嘉隆 | くき よしたか | 志摩7人衆の一人。織田信長の京都進出の頃からその配下に属す。その後、織田水軍を率いて、木津川の戦いで毛利水軍を破るなど各地を転戦する。本能寺の変後は羽柴秀吉に接近して、水軍として文禄の役などで活躍した。 関ヶ原の合戦時は西軍に属し、息子守隆と争うことになる。しかし、守隆は自分の戦功と引き換えに嘉隆の助命を願い、許されるが、その報が届く前の10月12日に自刃。享年59歳。 |
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| 木造 具政 | こづくり ともまさ | 北畠晴具(はるとも)の3男で北畠具教の弟。木造家の養子となる。1569年(永禄12年)5月具教に背き織田信長に属し、北畠氏を継いだ織田信雄に仕えた。 | |
| 木造 具康 | こづくり ともやす | 伊勢国北畠氏の一族。織田信雄に仕えたが主家没落により豊臣秀吉に転仕。織田秀信の老臣となり2万5千石を与えられた。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで主君秀信に東軍加担をすすめたがならず、具康は岐阜の戦いで敢闘するが惨敗した。 | |
| 坂井 大膳 | さかい だいぜん | 尾張国守護代清洲城主織田氏の臣。1552年(天文21年)織田信長を討とうとして失敗。1554年(天文23年)主人織田信友の命を受け、守護斯波義統を襲い、自殺させた。 | |
| 坂井 孫八郎 | さかい まごはちろう | 織田信光の家臣、信光が織田信長と謀って清洲城の織田信友を追い、那古野城に入ったのちに信光を殺害した、その後佐々孫介に討たれた。 | |
| 阪井 尚恒 | さかい ひさつね | 久蔵。阪井政尚の長男。 織田信長の臣。1568年(永禄11年)9月、織田信長が将軍足利義昭を擁して上京する途次、六角義賢の近江国観音寺城を攻撃した際に功があり、義昭から感状を与えられた。わずか14歳であった。1570年(元亀元年)6月、姉川の戦いで戦死。 |
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| 阪井 政尚 | さかい まさひさ | 織田信長の臣。1568年(永禄11年)9月、六角義賢の近江国箕作城攻撃に功労があった。1570年(元亀元年)の姉川の戦いでは、第一陣で2千余の兵を率いるも、浅井家の磯野員昌に突破される。同年11月浅井方に与した近江国堅田城攻撃の大将となりこれを攻略したが討死した。そのときの働きは「一人当千」、「高名比類なし」と言われた。 | |
| 佐久間 信栄 | さくま のぶひで | 佐久間信盛の長男。織田信長の重臣・佐久間信盛の長男として生まれ、若くして父と共に各地を転戦、伊勢国大河内城攻略戦、対六角氏戦などで父と共に戦功をあげ、1576年(天正4年)には対石山本願寺戦で天王寺城の守備を任されている。
原田直政の戦死によって父・信盛が石山本願寺攻めの指揮官になるとこれを補佐し、平行して畿内各地に援軍として出兵するが、石山攻めでは一向に結果が出せず、業を煮やした信長が1580年(天正8年)朝廷を動かして本願寺と和睦すると、19ヶ条に渉る譴責状を突きつけられて父共々高野山に追放された。 父・信盛の死後、1582年(天正10年)1月には赦免されて織田信忠に仕え、本能寺の変後は織田信雄に仕えた。信雄が改易されると茶人として秀吉に召抱えられ、大阪の陣後は徳川秀忠に御咄衆として三千石で仕えている。 |
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| 佐久間 信盛 | さくま のぶもり | 織田信長の重臣。姉川の戦いでは、織田家は13段構えの陣で望んだが、11段まで突破されたが、信盛が必死の抵抗をして持ちこたえた。 1580年(天正8年)石山本願寺との戦いで目立った功績がなかったのを理由に追放され、熊野で没した。 |
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| 佐久間 盛重 | さくま もりしげ | 織田信秀・信長父子の臣。今川義元の西進の折、丸根砦を守備する。しかし、松平元康に(後の徳川家康)攻められ落城、討死。 | |
| 佐治 一成 | さじ かずなり | 織田信雄の臣。尾張国大野城主。1584年(天正12年)小牧・長久手の戦いに従軍し戦後、豊臣秀吉に所領を没収された。伊勢国安濃津で織田信包に仕え、信包の丹波国柏原移封にも従った。1634年(寛永11年)9月26日没した。 | |
| 佐々 成政 | さっさ なりまさ | 織田信長の臣。内蔵助(くらのすけ)。黒母衣衆の一人。越前国一向一揆討伐後は、前田利家、不破光治と並び、越前2群を与えられて、「府中三人衆」と呼ばれる。本能寺の変後は羽柴秀吉と敵対するも、降服。その後肥後国を与えられるも、失政を責められ自刃。享年50歳。 | |
| 佐々 孫介 | さっさ まごすけ | =佐々盛広。 | |
| 佐々 政次 | さっさ まさつぐ | 織田信秀・信長父子の臣。佐々成政の長兄。1548年(天文17年)3月、三河国小豆坂の戦いに殿(しんがり)で奮戦し、小豆坂の七本槍の一人に数えられた。1560年(永禄3年)、今川氏の先鋒部隊との遭遇戦において討死。 | |
| 佐々 盛広 | さっさ もりひろ | 織田信長の臣。佐々成政の次兄。孫介。 織田信長の甥を殺害して逐電した。 |
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| 柴田 勝家 | しばた かついえ | 織田信長の重臣。はじめ信長の弟信行を跡取りに支持するが、和解した後は信長に忠誠を誓う。再度謀反を企てた信行を信長に密告し、謀殺するきっかけをつくる。その後は各地を転戦する。加賀一向一揆など北陸方面にて活躍の場を広げる。鬼柴田等の異名を取る。本能寺の変後は羽柴秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いに敗れ、北ノ庄城で自刃。 | |
| 菅谷 長頼 | すがや ながより | 九右衛門。織田信長の臣。1569年(永禄12年)伊勢国北畠氏討伐に従軍。1578年(天正6年)播磨国神吉城攻めの検使。同年末には鉄砲隊を率いて伊丹城攻めに参加。1579年(天正7年)安土宗論に使者を勤め、1582年(天正10年)本能寺の変の折には二条御所で討死した。 | |
| 滝川 一益 | たきがわ かずまさ | 甲賀の出とも言われるが、出生は豊臣秀吉のように不明。しかし、その才気で織田信長の下で、頭角を示す。武田家を滅ぼした後、関東方面の指揮官に任じられるも、すぐに本能寺の変が起きてしまい、北条氏との戦いに敗れる。その後は柴田勝家と結んで秀吉に対抗するも、秀吉に敗れる。晩年は茶人として生きる。 | |
| 滝川 雄利 | たきがわ かつとし | 織田信雄の家老。木造具康の子(弟とも)。 はじめ出家して源常寺の学生をしていたが、織田信長が見込んで、滝川一益の養子にした。 1584年(天正12年)小牧・長久手の戦いを契機に羽柴秀吉に仕える。1590年(天正18年)7月小田原の戦いの功により、伊勢国神戸城主となり、2万石を領することになる。1595年(文禄4年)伊勢国員弁郡5千石を加増されたが、豊臣秀次事件に連座し、封を失う。その後、秀吉の御咄衆に加えられ、3千石を領す。1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの折には西軍に属したため、所領を失うが、徳川家康より常陸国片野に2万石を与えられ御咄衆に列す。 1610年(慶長15)2月26日死去。享年68歳。 |
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| ★ | 団 忠正 | だん ただまさ | 織田家臣。はじめ、織田信長に仕える。血気はやる武将で先駆けによる軍令違反でたびたび信長から叱責を受けている。それから、息子信忠に仕えるようになり、武田家への侵攻には信忠に従い、目覚ましい活躍を見せている。戦後、美濃国岩村城を与えられるも、本能寺の変の折に、信忠に従い、二条城で討死を遂げている。 |
| 千秋 季忠 | ちあき のりただ | 1560年(永禄3年)、今川氏の先鋒部隊との遭遇戦において討ち死。 | |
| 津川 義冬 | つがわ よしふゆ | 織田信雄の家老。伊勢国松ヶ島城主。 尾張守護斯波氏の一族。1584年(天正12年)羽柴秀吉に通じた疑いにより、信雄に殺害される。 |
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| 津田 信澄 | つだ のぶずみ | 織田信行の息子。七兵衛。 織田信長の部将として各地を転戦。 1574年(天正2年)、明智光秀の女婿となった。1578年(天正6年)、大溝城主となる。 本能寺の変のときは織田信孝らと四国征伐に出陣するため大坂城にいたが、6月5日明智光秀の縁者であったため城内で信孝に殺された。 |
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| 長井 道利 | ながい みちとし | 斎藤氏滅亡後、織田信長に仕えた。1571年(元亀2年)、将軍足利義昭が信長と兵を構え、和田惟政が荒木村重の臣池田知正と交戦したとき惟政の救援に出兵し、8月28日摂津国白河河原で敗死した。 | |
| 南部 勝利 | なんぶ かつとし | 但馬守。=林通勝 | |
| 丹羽 長秀 | にわ ながひで | 織田信長の重臣。信長と共に各地を転戦し、浅井氏の将磯野員昌を降し、佐和山城を落とすなどの活躍をした。また、安土城の普請奉行を務めるなど内政面でも活躍した。本能寺の変後は羽柴秀吉につくも、翌年病没する。 | |
| 羽柴 秀吉 | はしば ひでよし | =豊臣秀吉。 | |
| 服部 一忠 | はっとり かずただ | 小平太。織田信長の臣。尾張国出身で、1560年(永禄3年)桶狭間の合戦において、今川義元に一番槍をつける。後に豊臣秀吉に仕え黄母衣衆となる。1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いの折には尾張二重掘撤退に際して奮戦。1585年(天正13年)従五位下采女正となる。1590年(天正18年)小田原征伐の功により1591年(天正19年)伊勢国一志郡に3万5千石を与えられて松坂城主となる。1592年(文禄元年)の朝鮮出兵では京城に出陣。1595年(文禄4年)関白秀次の生害の件に連座して改易。上杉家に預けられ自害した。継嗣はなく家は断絶。 | |
| 林 通勝 (又は秀貞とも) |
はやし みちかつ (ひでさだ) |
織田信秀・信長の家臣。佐渡守。はじめ信秀に仕え、信長が信秀から尾張国那古野城を与えられると、平手政秀とともに信長の家老となった。1556年(弘治2年)柴田勝家らと共に信長の弟信行の擁立をはかり信長と戦い敗れたが、許される。1560年(永禄3年)桶狭間の戦い、1574年(天正2年)伊勢長島攻めに従軍した。諸功臣と共に安土に赴き、点茶の饗応にあずかる。1580年(天正8年)24年前の信長廃嫡策動などを理由に追放させられる。追放後は南部但馬守勝利と変名。 | |
| 原田 直政 | はらだ なおまさ | 織田信長の臣。1570年(元亀元年)信長が近江国に侵入し、余呉・木本に火を放ち退却したとき、柴田勝家と共に殿軍を勤めた。1575年(天正3年)長篠の戦い後、信長の命によりはじめ塙九郎左衛門重友と称していたのを原田備中守と改称した。1576年(天正4年)細川藤孝・荒木村重・明智光秀・筒井順慶らと3万余騎を率いて大坂本願寺を攻めたが、同年5月3日摂津国三津寺で討死。 | |
| 土方 雄久 | ひじかた かつひさ | 織田信雄の家臣。伊勢国田丸城に居住し、18歳の頃から伊賀征伐で活躍し、信雄の家臣となり100石を領する。1583年(天正11年)秀吉が滝川一益を討ち伊賀国菰野を信雄に与えると、信雄はこれを雄久に与えた。同年3月信雄の命で秀吉への内通疑惑で岡田重孝を伊勢国長島城にて殺害。小牧・長久手の戦いの功により信雄から尾張国犬山城4万5千石を与えられた。小田原征伐の折には信雄に従い、各地を転戦した。 信雄徐封後は豊臣秀吉に属した。家康から大野治長、浅野長政と共に家康暗殺の計画の疑いを掛けられ、常陸国佐竹家に預けられた。関ヶ原の戦いの前に許され、1608年(慶長13年)に死去。享年56歳。 |
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| 平手 政秀 | ひらて まさひで | 織田信秀の臣。信長の守役。年少期の信長の奇行ぶりを諌めるために諌死する。 邸宅には茶室を設けており、茶の湯も嗜んだようである。 |
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| 不破 光治 | ふわ みつはる | 初め、斎藤氏に仕えるも、美濃三人衆と同じく織田信長に降っている。その後は織田家臣として、姉川の戦いなど各地を転戦して活躍している。越前国平定後は佐々成政、前田利家と並び、越前2群を与えられて、「府中三人衆」と呼ばれる。1580年(天正8年)12月14日死去。 | |
| 前田 利家 | まえだ としいえ | 織田信長の臣。赤母衣衆の一人。信長に従い各地を転戦して、越前国平定後は不破光治、佐々成政と並び、越前2群を与えられて、「府中三人衆」と呼ばれる。本能寺の変後の賤ヶ岳の戦いにおいては、柴田勝家に属するも、戦わず、離脱する。その後は秀吉に従い、秀吉の最も信頼する重臣となる。 | |
| 松井 友閑 | まつい ゆうかん | 織田信長の側近として仕え、右筆(ゆうひつ)[現代でいう書記]、和泉堺の政所となる。信長が正倉院の蘭奢待を拝受したとき、奉行を勤め、1580年(天正8年)、石山本願寺開城の際、目付となる。その後、豊臣秀吉に仕えたが、1586年(天正14年)6月14日、堺の政所(代官)を罷免された。元々は清洲の商人.。 | |
| 村井 貞勝 | むらい さだかつ | 織田信長の臣。家臣団の中でナンバーワンの吏僚。京都所司代を務めるなど、政務を任される。しかし、本能寺の変時、二条御所にて信長の嫡男信忠と共に討死している。 | |
| 毛利 新助 | もうり しんすけ | 織田信長の臣。力丸。桶狭間の合戦において、今川義元を討ち取る。黒母衣衆の一員となる。 | |
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毛利 秀頼 | もうり ひでより | 織田信長、豊臣秀吉に仕える。信長の甲斐国侵攻の際、信濃国伊奈郡に領地を与えられる。本能寺の変後、秀吉に従い、各地を転戦。1593年(文禄2年)閏9月死去。 |
| 森 長氏 | もり ながうじ | 織田信長の小姓。森可成の5男。蘭丸の実弟。1582年(天正10年)6月2日本能寺で防戦するが、兄蘭丸らと共に討死。享年16歳。 | |
| 森 長隆 | もり ながたか | 織田信長の小姓。坊丸。森可成の4男。蘭丸の実弟。1582年(天正10年)6月2日本能寺で防戦するが、兄蘭丸らと共に討死。享年17歳。 | |
| 森 長可 | もり ながよし | 織田信長の臣。森可成の次男。1574年(天正2年)7月、伊勢長島一揆の制圧に参加。1582年(天正10年)2月、織田信忠に従い信濃国伊奈に進発、小笠原家を降し、さらに高遠城を攻撃。信長の没後、一時織田信孝に属すが、間もなく豊臣秀吉の臣となり、1584年(天正12年)4月小牧・長久手の戦いに参陣し、激闘の末、討死。 | |
| 森 成利 | もり なりとし | 織田信長の臣。有名な蘭丸である。長定とも。森可成の3男で幼少の頃より、信長の小姓として仕える。本能寺の変で明智軍と戦い、討死している。享年18歳。弟坊丸、力丸も同所で討死。 | |
| 森 坊丸 | もり ぼうまる | =森長隆。 | |
| 森 可成 | もり よしなり | 織田信長の臣。森蘭丸の父。信長に仕えて、1555年(弘治元年)信長の尾張国清洲城攻めに加わり、信長の叔父織田信友を自刃させる。その後も姉川の戦い等緒戦に従軍する。1565年(永禄8年)美濃国金山城主に任ぜられる。1570年(元亀元年)信長の近江進発に際して、姉川の戦いの3ヶ月後、宇佐山城を守っているが、信長が石山城を攻めている隙に浅井・朝倉連合軍に襲われ、9月19日敗死。享年48歳。 | |
| 森 力丸 | もり りきまる | =森長氏。 | |
| 簗田 広正 | やなだ ひろまさ | 織田信長の臣。政綱(まさつな)とも。1560年(永禄3年)桶狭間の戦いの勝利の一因とも言える今川義元の位置を含めた情報を信長に流した。戦後義元を討った毛利新助よりも勝利への貢献が多かったとされ、毛利新助を抜いて信濃国沓掛三千貫の領地を賦与された。1570年(元亀元年)浅井長政の離反に対し、信長の退路をいち早く確保した。1575年(天正3年)加賀一向一揆の制圧後、加賀国天神山城主となる。しかし、一揆の再起により大聖寺城への退却を余儀なくされ、のちに安土に蟄居。 | |
| 山岡 景祐 | やまおか かげすけ | 近江膳所城主。景隆の弟。実名については景祐、景成ともいう。はじめ近江国佐々木氏に仕えるが、のち織田信長に属す。1582年(天正10年)本能寺の変に際しては徳川家康の退路を守備。のち豊臣秀吉に従うが、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家に内通したため、兄景隆とともに所領没収。その後徳川家康に召し出され駿府に伺候。1589年(天正17年)正月、同地で死去。(一説には1588年(天正16年)。 | |
| 山岡 景隆 | やまおか かげたか | はじめ将軍足利氏に仕え、江南旗頭として織田信長に対抗するが、1569年(永禄12年)から信長に属す。1573年(天正元年)7月、足利義昭の挙兵に対して応戦し、これを撃破。また、1582年(天正10年)本能寺の変では瀬田を守衛して明智軍の進路を阻止し、近江国坂本へ追撃。のち豊臣秀吉に従うが、翌年、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家側に内応したため、弟景佐とともに所領没収。1585年(天正13年)正月14日、60歳で死去。 | |