武田軍団
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  秋山 虎繁 あきやま とらしげ  御譜代家老衆。以前は秋山信友と言われていたが、花押の鑑定結果等により虎繁に改められた。
武田信玄の侍大将。知勇兼備の名将でその勇猛ぶりから、「武田の猛牛」と恐れられた。1572年(元亀2年)美濃国岩村を攻略し、城主遠山氏の後家織田氏(信長の叔母)を娶り城主となる。1575年(天正3年)長篠の敗戦後、よく城を守ったが、11月織田信長信忠の攻撃を受けて降伏。長良川原で磔にされた。享年49歳。
  秋山 信友 あきやま のぶとも =秋山虎繁
  朝比奈 信置 あさひな のぶおき  駿河国持舟(用宗)城主。先方衆(駿河衆)。当初、今川氏に仕えるも、今川氏真没落後、甲斐国武田信玄に仕える。1582年(天正10年)、徳川軍の攻撃を支えきれず、2月21日開城。4月8日織田信長の命により自刃。
  浅利 信種 あさり のぶたね  御譜代家老衆。甲斐国武田氏の家臣。甲州八代群浅利郷領主。1569年(永禄12年)10月8日北条氏政軍との相模国三増峠合戦で討死。
  芦田 信守 あしだ のぶもり  先方衆(信濃衆)。信濃国芦田城主。武田信玄に仕え、1572年(元亀3年)三方ヶ原の戦い後、遠江国二俣城に入る。1575年(天正3年)5月長篠合戦後、徳川軍に城を包囲され、6月19日城内で病死。
  跡部 勝資 あとべ かつすけ  御譜代家老衆。甲斐国武田氏の家臣。大炊助。武田信玄勝頼に仕える。1582年(天正10)年3月、武田氏滅亡の際は諏訪で討死をしている。
  跡部 勝忠 あとべ かつただ  御譜代家老衆。甲斐国武田氏の家臣。勘定奉行を勤め、戦陣にあっては軍隊の糧秣の徴発などを行った。生没年不詳。
穴山 信君 あなやま のぶきみ  御親類衆。 =穴山梅雪
  穴山 梅雪 あなやま ばいせつ  武田氏の家臣。名は信君。母は武田信玄の姉という。甲州下山(身延町辺)を領した。そして、信玄の娘を夫人とした。信玄は江尻城を築いて梅雪に守らせた。徳川・織田連合軍との長篠の合戦の敗戦後、没落の一途を辿る武田家を梅雪は見限り、徳川家康の勧告に応じ、江尻城を引き渡した。武田氏滅亡後、織田信長は武田氏の将士を誅したが梅雪は助けた。そのお礼に1582年(天正10年)5月15日に安土城で信長に拝謁した。5月21日家康と梅雪は堺に赴くために安土を立ち、そこで本能寺の変を知る。直ちに帰国の途につくが、途中山城国宇治で土民の一揆によって殺された。
  天野 景貫 あまの かげつら  =天野藤秀。
  天野 藤秀 あまの ふじひで   先方衆(遠江・三河衆)。初め、今川氏に仕えるも今川氏の没落により武田氏、徳川氏からの侵略により徳川氏へ降る。1572年(元亀3年)武田信玄による西上作戦により武田氏へ降る。以後、武田方として犬居谷に拠る。武田氏滅亡後は武蔵国八王子城主北条氏照の配下となる。
  甘利 虎泰 あまり とらやす  御譜代家老衆。甲斐国武田氏の家臣。甲州巨摩群甘利郷の領主。板垣信方と共に最高職位とされる「両職」を務める。1542年(天文11年)3月小笠原・諏訪・村上・木曽氏の連合軍を迎え撃ち破った信濃国瀬沢の戦いで負傷。1548年(天文17年)2月村上義清との上田原合戦で討死。
  甘利 信忠 あまり のぶただ  御譜代家老衆。晴吉昌忠とも言われる。父虎泰が上田原合戦で討死後、家督を継ぐ。1575年(天正3年)三方ヶ原の戦いで徳川軍の側面を突き、戦功を挙げるも戦後まもなく死去したと伝えられる。そのため、生没年は不詳。
  板垣 信方 いたがき のぶかた   武田信玄の臣。武田氏の親族衆。信濃国諏訪郡の武将。1546年(天文15年)上野国笛吹峠で上杉憲政軍を破る。1548年(天文17年)2月14日村上義清との信濃国上田原合戦で緒戦の勝利に気を緩め、首実検しているところを義清に急襲され、討死。
  板垣 信憲 いたがき のぶのり   信方死後、家督を継ぐも所行不届で1552年(天文21年)信玄の勘気を蒙り、処罰される。これにより板垣姓は断絶となる。
  板垣 信安  いたがき のぶやす  御親類衆。元は於曾氏。信方の男信憲信方死後、家督を継ぐも、所行不届で信玄に処罰されたため、信玄は信方の娘婿の於曾佐京亮に板垣信安と名乗らせ、板垣の名跡を継がせた。武田勝頼の時代は駿河国田中城主となる。生没年不詳。
  伊丹 康直 いたみ やすなお  水軍(海賊衆)。今川義元氏真に仕えるも、今川氏が没落後は武田信玄に仕えて、水軍をまとめる船大将となる。武田氏滅亡後は徳川家康に仕え、駿河国で船奉行となる。1596年(慶長元年)7月21日死去。
  市川 等長 いちかわ とうちょう  足軽大将衆。甲斐国武田氏の家臣。梅隠斎。小畠虎盛の娘婿。1553年(天文22年)信濃国海津城二の曲輪に入り、のちに信濃国長沼城を守った。
一条 信龍 いちじょう のぶたつ  御親類衆。甲斐国武田氏の家臣。武田信虎の八男。武田信玄とは異母弟。信玄勝頼親子に仕え、武田24将に数えられる。名将。断絶していた甲斐源氏・武田信義の次男一条忠頼を祖とする一条家の養子となり家督を継ぐ。
三方ヶ原の戦いで戦功を挙げる。信玄没後は遺書により勝頼の後見人を託され、1575年(天正3年)長篠の戦いにも参戦。1582年(天正10年)織田・徳川の甲州征伐戦では徳川軍を駿河国で迎撃するも撤退し、甲斐国上野城へ籠城。その後、城を徳川家康に包囲されると、信龍は子信就(のぶなり)と城を出て討って出るも徳川軍1万に対して300という圧倒的な兵力差により討死。
  一条 信就 いちじょう のぶなり  御親類衆。甲斐国武田氏の家臣。一条信龍を父にもつ。1580年(天正8年)9月以前に家督を譲られる。1582年(天正10年)織田・徳川の甲州征伐戦では父信龍と共に甲斐国上野城へ籠城。城を包囲されたのち、父信龍と城より討って出るも討死。
  今福 長閑斎 いまふく ちょうかんさい  御譜代家老衆。浄閑斎ともいう。甲斐国武田氏の家臣。駿河国久能城を築城。城代も務めた。1582年(天正10)年3月に自害。
  江馬 輝盛 えま てるもり  先方衆(飛騨衆)。飛騨国高原諏訪城主。江馬氏は武田、上杉両勢力の間にあり、その立場は困難であった。その立場をめぐり父子で争い、1578年(天正6年)輝盛は刺客を放って父を暗殺。1582年(天正10年)には織田信長が本能寺の変で死去したことを聞き、三木白綱を討とうとしたが、荒城郷八日町の合戦で討死。
  大熊 朝秀 おおくま ともひで  足軽大将衆。大熊長秀(ながひで)とも言う。越後国中頸郡箕冠城主。初め上杉謙信の側近として国政に参画。1556年(弘治2年)謙謙信の出家騒動に乗じて謀反をするも敗れ、越中国へ逃れる。1563年(永禄6年)武田信玄に招かれ、山県昌景軍に組み込まれる。1582年(天正10年)3月天目山の戦いで討死。
  大熊 長秀 おおくま ながひで  =大熊朝秀と同一人物。 
  岡部 長宗 おかべ ながむね   忠兵衛。水軍(海賊衆)。駿河国今川氏の臣。今川氏真に仕えた。1568年(永禄11年)、武田信玄との薩摩山合戦のとき、軍監を勤めた。
  岡部 正綱 おかべ まさつな  先方衆(駿河衆)。今川氏の臣。主君今川氏真の没落後、武田信玄に属す。清水城の守将となる。1572年(元亀3年)の三方ヶ原の戦い、1574年(天正2年)の武田勝頼遠江国高天神城攻撃戦に従軍した。武田氏滅亡後浪人となるが、のち徳川家康に仕えて甲斐国平定に功労を挙げる。1583年(天正11年)12月8に甲府で死去。
  奥平 定能 おくだいら さだよし  先方衆(遠江・三河衆) 徳川家家臣。はじめ今川氏に仕えるが、1560年(永禄3年)桶狭間の合戦後、松平元康に属す。1568年(永禄11年)からの掛川城攻めに従軍、1570年(元亀元年)の姉川の戦いには酒井忠次の麾下として出陣。1572年(元亀3年)武田氏の三河国侵攻により、武田氏に属す。1573年(天正元年)武田信玄が死去すると、徳川氏へ復帰する。1575年(天正3年)長篠の戦いに出陣。1598年(慶長3年)12月11日伏見で死去。
  小畠 虎盛 おばた とらもり  「鬼虎」と呼ばれる。 甲斐国武田氏の臣。武田信虎に仕えた。高坂弾正の副将。信濃国海津城二の曲輪を守った。
  小幡 信定 おばた のぶさだ  先方衆(西上野衆)。上総国小幡城主。武田氏の麾下。のち織田信長に通じて1582年(天正10年)3月織田信忠に降って本領を安堵された。本能寺の変後は滝川一益に属して北条氏直と武蔵国金窪・神流川に戦った。1590年(天正18年)小田原の役に没落した。
  小幡 光盛 おばた みつもり  足軽大将衆。小畠虎盛の子。信濃国海津城を守った。1582年(天正10年)武田氏滅亡により越後国へ逃れた。
  小浜 景隆 おばま かげたか  水軍(海賊衆)。甲斐国武田氏の臣。もと伊勢国畠山氏の水軍の将。1571年(元亀2年)、武田信玄に仕える。1582年(天正10年)3月武田氏滅亡後は徳川氏に仕えた。
  飯富 虎昌 おぶ とらまさ  武田信虎信玄の2代に仕えた。1565年(永禄8年)8月信玄の嫡男義信が謀反を企てた事件に連座し、自害した。
  小山田 信有 おやまだ のぶあり   甲斐国武田氏の臣。1532年(天文元年)、武田氏に仕えた。1553年(天文21年)村上義清と信濃常田の合戦で討死。
  小山田 信茂 おやまだ のぶしげ  御譜代家老衆。武田氏に仕え、甲斐国谷村城主。小山田信有の子。武田信玄に従い、武蔵国八王子の戦いに戦功があった。1582年(天正10年)3月織田信長に通じて武田氏滅亡に力を貸したが、織田信長に殺された。
  小山田 昌成 おやまだ まさしげ  御譜代家老衆。甲斐国武田氏の臣。昌行(まさゆき)、昌重(まさしげ)とも。1575年(天正3年)長篠の合戦において、敗走中に追撃してきた徳川方の松平伊忠を返り討ちにしている。1582年(天正10年)3月には高遠城仁科盛信の副将として高遠城に入り、討死している。
  春日 虎綱 かすが とらつな  =高坂正信。
葛山 信貞 かつらやま のぶさだ  御親類衆。甲斐国武田氏の臣。武田信玄の6男。今川氏の没落により武田氏の侵略により武田方へ降るが、今川氏の応援要請を受けた北条氏により攻められ、当主葛山氏元は領土を追われることになる。1571年(元亀2年)武田方により奪還されると葛山氏は旧領を復帰される。この頃、信貞は葛山氏元の婿養子となり、葛山氏を継ぐこととなる。1582年(天正10年)織田氏の甲州征伐の折は小山田信茂等と共に兄の勝頼より離反するも3月24日に甲斐善光寺で信茂等とともに処刑された。
木曽 義昌 きそ よしまさ  御親類衆。 信濃国木曾の領主。1555年(弘治元年)武田信玄に降り、信玄の娘を妻としたが、武田勝頼の代になり、織田信長に通じた。本能寺の変後は羽柴秀吉方に与した。1595年(文禄4年)3月13日没した。
  高坂 正信 こうさか まさのぶ  御譜代家老衆。春日大隅の子。北信濃の名族高坂(香坂)氏の名跡を継ぎ、弾正忠を名乗ったが、のち春日の本姓に復した。
 16才で武田信玄の近習となり、使番を経て1552年(天文21年)、侍大将となった。その後信濃国小諸城代、海津城代となった。1561年(永禄4年)、第四次川中島の合戦のとき、上杉軍の殿を攻撃して戦功を挙げた。1578年(天正6年)5月7日没。
  駒井 昌直 こまい まさなお  御譜代家老衆。甲斐国武田氏の臣。1570年(永禄13年)伊豆国深沢城代となり北条氏への備えを固めた。1582年(天正10年)武田氏滅亡後は徳川家臣榊原康政に仕えた。1595年(文禄4年)病死。
  三枝 昌貞 さえぐさ まささだ  足軽大将衆。甲斐国武田氏の臣。守友とも。信玄に従い、各地を転戦。1575年(天正3年)長篠の合戦では主戦場から離れた鳶の巣山の山麓を守備する。そのため、酒井忠次による別動隊の襲撃を早朝に受け、必死の抵抗をするも奮戦むなしく、討たれている。
  真田 信綱 さなだ のぶつな  先方衆(信濃衆)。信濃国上田城主。甲斐国武田氏の臣。真田幸隆の長男。弟昌輝、昌幸ととも武田信玄に仕えた。父幸隆とともに上田城を守り、先方衆として上杉謙信に対抗する。1574年(天正2年)、幸隆の病死によりその遺領を継ぐが、1575年(天正3年)5月の長篠の合戦で武田勝頼に従い、弟昌輝とともに奮戦して討死。
  真田 昌輝 さなだ まさてる  先方衆(信濃衆)。甲斐国武田氏の臣。信玄勝頼の2代に仕える。弾正忠幸隆の次男。兄信綱と共に信濃国上田城を守る。1569年(永禄12年)、武田氏の小田原城攻囲に際して北条氏照を破り、軍功を挙げる。信玄の没後、1575年(天正3年)5月に勝頼に従い、参戦した長篠の合戦で討死。
  真田 昌幸 さなだ まさゆき   信濃国上田城主。弾正忠幸隆の三男。武田信玄に仕え、はじめ武藤氏を継ぐ。1575年(天正3年)長篠の合戦で信綱、昌輝の両兄が討死したので、旧姓に復し、信濃国上田城主となる。1580年(天正8年)北条氏の守る上野国沼田城を攻略。しかし、1582年(天正10年)武田氏が滅亡したので越後国上杉氏、小田原北条氏、徳川家康らと同盟し、沼田領を守った。1585年(天正13年)、家康が北条氏と講和し、その条件に沼田領を割譲すると、昌幸はそれに従わず、家康と断絶した。1589年(天正17年)豊臣秀吉に従い、その命により沼田領を北条氏に譲ったが、1590年(天正18年)小田原の役で北条氏が滅亡し、旧領を回復した。しかし、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いでは西軍に従い、敗戦後、次男幸村ととおに高野山麓の九度山に蟄居した。 
  真田 幸隆 さなだ ゆきたか  信濃国松尾城主。はじめ海野小太郎と称したが、真田郷を領有して真田姓に改める。村上義清の攻撃を受け上野国箕輪城の長野氏のもとに逃れる。1544年(天文13年)甲斐国武田晴信(信玄)に招かれその麾下に入る。村上軍を破り、越後国長尾景虎上杉謙信)と対戦し軍功を挙げ信濃国松尾城主となる。1574年(天正2年)病没。 
  椎名 康胤 しいな やすたね  先方衆(越中衆)。越中国松倉城に拠った土豪。はじめ上杉氏に属する。1568年(永禄11年)、武田信玄と結んで上杉氏に背き松倉城を追われ、1572年(元亀3年)富山城に拠ったが翌年正月に落城。康胤は上杉氏への帰参を求めたが許されず、1576年(天正4年)3月上杉謙信に攻められ討たれたという。
  下曽根 浄喜 しもそね じょうき  足軽大将衆。甲斐国武田氏の臣。下曽根覚雲斎とも。1559年(永禄2年)高坂虎綱の後任として小諸城の城代となる。1582年(天正10年)織田氏による甲州征伐の折は同年3月16日に小諸城に逃れた武田信豊を討ち取り、首を織田信長に進上するも誅殺される。
  城 景茂 じょう かげもち  足軽大将衆。はじめ上杉謙信に仕えるも謙信の不興を買い、上杉家を去り、武田家に仕える。武田氏滅亡後、徳川家康に仕え、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いに従軍した。
  曽根 昌世 そね まさよ  足軽大将衆。甲斐国武田氏の臣。1569年(永禄12年)10月の北条氏との相模国三増峠の合戦で活躍し、翌年の駿河国花沢城の合戦、同年の伊豆国韮山での北条氏との戦いでも戦功を挙げた。1582年(天正10年)3月武田家の滅亡後は徳川氏、蒲生氏郷に仕えて会津に赴き、会津城の縄張をし築城の才を示した。
  武田 勝頼 たけだ かつより 御親類衆。甲斐国信濃国を支配した戦国大名。武田信玄の4男で、母は諏訪頼重の娘。はじめ諏訪氏を称し、1562年(永禄5年)高遠城主となる。1573年(天正元年)父信玄の死後、武田家の家督を継ぐ。1575年(天正3年)長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に大敗を喫すると、領国経営・家臣団の統率が困難になり、離反するものが続出した。1580年(天正10年)織田家に攻め込まれ、天目山で一族と共に自害する。
  武田信玄 たけだ しんげん   甲斐国信濃国を支配した戦国大名。父信虎甲斐国から追放し、武田家を継ぐ。その後信濃国攻略戦で、上杉謙信と5度に渡り川中島で対峙する。その後三方ヶ原の戦いにおいて徳川家康を破り、西進する途上病没する。また、内政面においても信玄堤と現代まで残る治水事業があり、文武両道であった名将であった。
  武田 信廉  たけだ のぶかど  御親類衆。 武田信虎の4男。絵画の才能があり、父信虎像は彼の手によるもの。1570年(元亀元年)信濃国高遠城主となる。1582年(天正10年)織田信長甲斐国侵攻の際、府中相川で殺された。
  武田 信繁 たけだ のぶしげ  武田信虎の次男。武田信玄の弟。子信豊も典厩と呼んだので、古典厩という。はじめ、父信虎は長男晴信信玄)よりも信繁を寵愛し、家督を継がせようとした。1541年(天文10年)、晴信はそれを察知し、事前に信虎を駿府へ追った。信繁は兄信玄を補佐し副当主格となった。1561年(永禄4年)9月の信濃国川中島の戦いで戦死。
  武田 信虎 たけだ のぶとら  甲斐国を支配した戦国大名。暴君の評判が高く、信玄を廃そうと考えたことから逆に国を追われ駿河へ追放され、今川氏の庇護を受ける。後に京で隠居中に孫の勝頼から帰国を認められたがすでに発言権はなく、信濃国高遠城で病没した。
武田 信豊 たけだ のぶとよ  御親類衆。典厩。武田勝頼の従兄弟。武田信玄の弟、信繁の次男。1561年(永禄4年)9月、父の戦死後に家督を継ぐ。信玄勝頼に仕えて御親類衆として信濃国小諸城を守る。1582年(天正10年)3月、織田信長の武田氏攻略に際して、城代の下曾根覚雲斎に謀殺された。
  土屋 昌続 つちや まさつぐ  御譜代家老衆。甲斐国武田氏の臣。1572年(元亀3年)三方ヶ原の戦いで戦功をあげる。1575年(天正3年)長篠の戦いで戦死。
内藤 昌豊 ないとう まさとよ  御譜代家老衆。甲斐国武田氏の臣。初め工藤源左衛門と名乗る。武田信玄から50騎持を命ぜられて以来、内藤姓を名乗る。上野国箕輪城代に任命されて以降、三増峠の戦いにも参戦。1575年(天正3年)長篠の戦いで戦死。
  内藤 昌秀 ないとう まさひで  =内藤昌豊
  長坂 虎房 ながさか とらふさ  足軽大将衆。法号で釣閑斎光堅(ちょうかんさいこうけん)という。甲斐国武田氏の臣。勝頼の代の寵臣。1575年(天正3年)の長篠戦いには跡部勝資とともに勝頼に進撃を進めて敗戦を招いたと言われている。1582年(天正10年)3月織田信長により誅殺されたと言われている。
仁科 盛信 にしな もりのぶ  御親類衆。甲斐国武田氏の臣。武田信玄の5男。1561年(永禄4年)名族仁科家に入る。信玄の没後兄勝頼を助けて信濃国高遠城主になる。1582年(天正10年)3月織田信長の甲州征伐のときに攻め落とされて討死。
馬場 信春 ばば のぶはる  御譜代家老衆。甲斐国武田氏の臣。馬場信房とも。生涯で一度も戦場で傷を負わなかったことから、「不死身の鬼美濃」とも称される。教来石信保の子。甲斐国武田氏の家臣。一族の馬場虎貞が武田信虎に諫言して殺され、馬場氏の名跡が途絶えたが、武田信玄が信房に馬場姓を継がせた。信房は武田四天王の一人として信玄の戦に従軍し、活躍をした。しかし、長篠の戦いで敗色濃厚のところを殿(しんがり)を務めて武田勝頼の退却を見届けて討死。
  馬場 信房 ばば のぶふさ  馬場信春
  原 昌胤 はら まさたね  御譜代家老衆。甲斐国武田氏の臣。地理に明るく戦場の陣取りの判断の的確さに賞された。1575年(天正3年)長篠の戦いで戦死。
  間宮 造酒丞 まみや みきのじょう  水軍(海賊衆)。信高とも。甲斐国武田氏の臣。今川氏の没落後、駿河を制圧すると武田信玄は北条氏、里見氏の水軍に対抗するために水軍を編成しており、1573年頃より武田氏の水軍として参戦している。
  間宮 武兵衛 まみや ふへい  水軍(海賊衆)。甲斐国武田氏の臣。今川氏の没落後、駿河を制圧すると武田信玄は北条氏、里見氏の水軍に対抗するために水軍を編成しており、1573年頃より武田氏の水軍として参戦している。
  向井 伊兵衛 むかい いへい  水軍(海賊衆)。正重とも。伊勢国北畠氏の旧臣。1571年頃より武田氏に仕えた。武田氏滅亡後は徳川氏に仕える。
山県 昌景 やまがた まさかげ  御譜代家老衆。武田信玄の家臣。はじめ飯富源四郎といい、飯富虎昌の弟。信玄の近習・使番を経て譜代家老衆となる。1565年(永禄8年)、兄虎昌の誅殺後に山県姓に改める。1575年(天正3年)長篠の戦いに従軍し、戦死する。
横田 康景 よこた やすかげ  足軽大将衆。甲斐国武田氏の臣。信玄勝頼の2代に仕える。1575年(天正3年)長篠の合戦で討死。
和田 業繁 わだ なりしげ  先方衆(西上野衆)。はじめ義父である長野業正の同心で上杉憲政に仕えるも、北条氏との抗争で北条氏康上杉謙信と主君を変えている。1561年(永禄4年)、武田氏による西上野侵攻により武田氏に従属している。1575年(天正3年)の長篠の戦いでは長篠城を俯瞰できる君が臥床砦に布陣したが、酒井忠次の奇襲により戦死した。