日本一の出世人
豊臣秀吉
1.名前と官位  
日吉丸
(ひよしまる)
(幼名とされている) 
        ↓
木下 藤吉郎
(きのした とうきちろう)
(25〜32歳)
       ↓
木下 藤吉郎 秀吉
(きのした とうきちろう ひでよし)
(32〜37歳)
       ↓
羽柴 藤吉郎 秀吉
(はしば とうきちろう ひでよし)
(37〜38歳)
       ↓
羽柴 筑前守 秀吉
(はしば ちくぜんのかみ ひでよし)
(38〜49歳)
       ↓
藤原 秀吉
(ふじわら ひでよし)
(49〜50歳)
       ↓
豊臣 秀吉
(とよとみ ひでよし)
(50〜63歳)
 
  
2.親族 
  祖先  弥右衛門(やえもん:父)
百姓。戦時には足軽として雇われる。
戦場で受けた傷がもとで死亡。
竹阿弥(ちくあみ:養父)
秀吉はこの養父と折り合いが
悪く、家を飛び出す。
   なか(母)
大政所天端院
(だいまんどころてんずいいん)
   
     おね(ねねとも:正室)
北政所(きたのまんどころ)
織田家足軽だった浅野長勝の姪
浅野長勝の養女となり、信長の小人頭をしていた木下藤吉郎と結婚。
後に弓箴禅師に剃髪してもらい、高台院と呼ばれ、従一位の官位を受け、準三后の待遇を受け、豊臣吉子の名を下賜されている。
淀殿(よどどの:側室)
茶々(ちゃちゃ)
織田信長の妹、お市の方の三姉妹の長女。
茶々7歳の時、父浅井長政は伯父織田信長に攻められ、自刃する。
茶々17歳の時、お市の方が再嫁した柴田勝家が秀吉に攻められ、勝家と共にお市の方も自刃する。
23歳で秀吉の側室となる。
鶴松・秀頼を産む。
三の丸殿
織田信長の娘。
信長が長男信忠の乳母に産ませた。
蒲生氏郷の養女となり、秀吉の側室となる。
伏見城の三の丸に住んでいたので、三の丸殿と呼ばれた。
  姫路殿
信長の姪にあたる。
信長の2番目の弟・織田信包(のぶかね)が父親。
姫路城に住んでいたため、姫路殿と呼ばれた。
加賀殿(かがどの)
摩阿(まあ)
前田利家の三女。
柴田勝家の家臣、佐久間十蔵と婚約していたが、勝家が秀吉に滅ぼされた時、十蔵は15歳で討死。
その後、しばらく秀吉の元に身をよせるが、2年後秀吉の側室となる。このとき摩阿姫14歳の時の事。しかし、側室暮らしになじめず、1598年(慶長2年)醍醐の花見のあと、病を理由に側室を辞している。
側室を辞した年に秀吉は死去し、摩阿姫は万里小路光房(までのこうじ みつふさ)と再嫁し、利定を産む。
松丸殿
龍子(たつこ)
京極高吉の娘。
京極高次の妹(姉説もある。)
若狭国守護武田元明に嫁いで、二人の息子を産んだが、山崎の戦いで秀吉に夫を殺され、実家安泰のために秀吉の側室になることを申し出る。
大坂城では西の丸に住み、西の丸殿と呼ばれ、伏見城が完成すると松の丸に移り、松の丸殿と呼ばれた。
淀殿とはいとこであったが、側室の権勢をよく競い、しばしば衝突することがあった。
  三条局

蒲生賢秀の娘。
氏郷の妹。
柴田勝家を滅ぼした凱旋途中に近江国日野城を訪ね、氏郷より妹の虎を側室として貰いうけた。
京都屋敷に住み、三条局と呼ばれた。
   
   兄弟 とも(姉)
端竜院日秀(ずいりゅういんにっしゅう)
秀吉より4歳年上。
三好吉房(よしふさ)の正室
秀次の母。
秀長(ひでなが)
秀吉の異父弟。
通称小一郎。
初名は長秀と伝えられる。
朝日姫(あさひひめ)
秀吉の異父妹。
初め、尾張の地侍佐治(さじ)日向守に嫁いだが、秀吉の命令により離縁し徳川家康の正室となる。
  息子  鶴松(長男)
母は淀殿。
捨丸と呼ばれた。
わずか3歳で病死。
秀頼(次男)
母は淀殿。
幼名は拾(ひろい)
6歳のときに父秀吉を失う。
11歳の時に、徳川家康の孫千姫と政略結婚。
23歳のときに大坂夏の陣にて大坂城と運命を共にしている。
  秀勝(養子)
織田信長の四男。
幼名は於次丸。
若くして秀吉の養子となる。
秀吉が京都大徳寺で行なった信長の葬儀では名目上の主催者となった。
1585年(天正13年)18歳の若さで急逝する。
秀勝(長男?)
秀吉が手をつけたと言われる侍女南殿生んだ子と伝えられる。
幼名は石松丸。
7、8歳で早世したと推定されている。
秀勝(養子)
秀吉の姉ともの次男。
関白秀次の弟。
幼名は小吉。
淀殿の妹、小督(おごう)を妻とする。
秀吉の朝鮮出兵に従軍し、巨済(こさい)島で病死。
他の秀勝同様、若死だった。
  秀次(養子)
秀吉の実姉ともの長男。
通称は孫七郎。
秀頼が生まれたことにより、秀吉との関係がおかしくなり、乱行が目立つようになり”殺生関白”とも呼ばれた。
1595年(文禄4年)高野山で切腹。妻妾や子は三条河原で惨殺。父三好吉房は讃岐へ流罪。母ともは仏門に入った。
   
    
3.概要    
   農民の子として生まれたため、秀吉の前半生は謎に包まれている。現在、伝えられるのは、秀吉の功績を伝説化した「太閤記」によるものである。
 織田信長に仕え、メキメキ頭角を表した秀吉は小谷城攻略の戦功が評価され、今浜を与えられ長浜と地名を改め、琵琶湖岸に長浜城を建てる。百姓の出の秀吉はこれで、晴れて一国一城の主となったのである。
 信長が本能寺の変で倒れると、交戦中であった毛利氏とすぐさま和睦し、主君信長の敵(かたき)を討ち、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破ると、信長の後継者として、着々と天下統一への道へ歩みはじめる。
 1590年(天正18年)小田原の北条氏を破り、150年にも及ぶ戦乱の世を天下統一へ導く。しかし、晩年、2度に渡る朝鮮出兵で天下統一の功績に汚点を残してしまう。
 1598年(慶長3年)一粒種の秀頼のことだけを案じつつ、伏見城で逝去する。享年62歳
    
4.エピソード   
  サルからネズミへ   
   秀吉といえば、その風貌・ちょこちょこ動く動作からサルと呼ばれていた。しかし、晩年頭髪も抜け、頬もこけてきてネズミのような顔になってきた。それを見て信長は”ハゲ鼠”とも呼んだ。いずれにしても、サルやらハゲ鼠など呼んでいた人達はまさか秀吉が天下を統一するとは思っても見なかっただろう。
    
5.殿批評    
  戦略  ★★★★★  彼に城攻めをさせたら右に出るものはないだろう。三木城の干殺し・高松城の水攻めなど自軍の損害を最小限におさえ、敵を降伏させる。この手法に限らずとも城攻めに関してはかなりの得意であったようである。
 城攻めに限らず、金ヶ崎の退きの口など、絶対絶命の窮地にも関わらず、殿(しんがり)という大役を果たしている事から、兵の采配は一級品であったようだ。
  武勇 ★★★  槍をもって、武功を挙げる武将ではなかった。しかし、槍は短い方がいいと主張し続けた大沢主水(もんど)を三間の長槍で打ち負かすなど、全くの官僚型ではなかった。
  政略 ★★★★★  人を使うのが上手で、なかなかはかどらない城普請を3日で完了させたりしている。
 それ以外に刀狩令による完全な兵農分離、各地の経済力を明確にする太閤検地など、政略的ビジョンはかなり優れたものがあった。
  人望 ★★★★★  人たらしと言われるほど、どんな人でも自分の中に取り込んでいく技術は素晴らしいもので、また、それが嫌らしくなくないので、憎まれることはほとんどなかった。
 また、民衆の出ということもあり、民衆には絶大な人気を誇った。その人気は江戸時代になって豊臣家をいくら中傷しても、変わらなかったという。
  総評 ★★★★★
★★★★★
 羽柴秀吉、いわゆる天下統一を行うまでの秀吉の功績は素晴らしいものである。当時としては農民というマイナスからのスタートにも関わらず、天下取りレースに見事勝利している。しかし彼の役目・目標は天下統一であり、その後の日本はどうあるべきかというものを全く想像すらしていなかったのであろう。その結果が、外へ戦を求め朝鮮出兵というそれまでの秀吉の功績を台無しにする暴挙だ。この暴挙がなければ、もっと秀吉は後世の人達に支持され、世界的にも注目を浴びたのではなかろうか。
  ★★★★★:人並み外れて優秀 ★★★★:人並み以上 ★★★:人並み ★★:人並みより劣る :人並み外れて不得手
※総評のみ10段階評価
 
    
 6.殿語る...    
   まさに空前絶後の大出世を遂げた人である。このような人はこれから先も現れないであろう。秀吉は周知のとおり農民の出であり、武家としての心得もなく、字も満足にかけない人である。このような人が天下統一をするには並大抵の努力ではない。また、努力だけでなく、人並み外れた運もなくてはならない。この運とは織田信長との出会いである。信長の目に止まらなくては秀吉は、武将になることすら及ばなかったであろう。それ程、農民が武士になるのは難しいことである。そして、信長は当時としては珍しい家柄・出地にはこだわらない能力重視型の主君であったことが、秀吉にとってはまた恵まれていた。通常は譜代の武将が徐々に出世していく終身雇用型であり、秀吉などの外部からの者はいつまでたっても、外部扱いで重臣になることはなかった。そのような時世であったので、信長の下にはそのような外部からの者が多く、互いにしのぎを削り、出世していった。
 そんな順風満帆な中、本能寺の変という自分を引き立ててくれた命の恩人信長が殺されるという事件が起る。それまでの秀吉は信長という大きな柱があったことで、信長第一に考えていればよいと思っていただけに、この先、どうすればいいかかなり焦ったに違いない。ましてや、自分は”中国の雄”毛利軍と戦闘中である。そのとき、参謀として側に控えていた黒田官兵衛の「これで天下がとれますな」と一言とその官兵衛が自分の家臣であったこと。これも秀吉にとってかなりの好条件であった。このめぐり合わせもきっと秀吉の運であったのであろう。その後、山崎の戦いで明智光秀を破り、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った秀吉は名実と共に天下人となった。しかし、私が考えるには秀吉は明智光秀に戦いを挑む。この時が人生の最潮期だったと思う。恐らく、大抵の人も晩年の狂気に満ちた秀吉よりも織田家家臣として、汗水流して戦場を疾駆している秀吉が好きだ思う。私もそうだ。だから、豊臣秀吉よりも羽柴秀吉の方が好きだという人が多い。
 冒頭に秀吉は空前絶後の大出世を果たした人であると述べたが、その反面コンプレックスの塊という部分も多分にあったと思う。それが羽柴秀吉から豊臣秀吉になって、前面に出てきた。そのために羽柴秀吉は好きだが、豊臣秀吉はなんか背伸びをしているようで、見ている方が辛くなるような振る舞いばかりしている。その典型的な出来事が朝鮮出兵である。この暴挙により彼はそれまでの自分の功績をすべて台無しにしてしまった。また、この暴挙は400年以上もたった今も朝鮮の人々の心に深く刻み込まれており、朝鮮の人にとっては秀吉という人物は侵略者以外なにものでもない。憎むべき人物になっている。では、何故、秀吉はそこまでしてこの暴挙をやらなくてはいけなかったか、これは秀吉という人間の出地によるところが大きいと思う。信長が亡くなってからは、信長の悲願であった天下統一を目標に頭を傾けておればよかった。しかし、天下統一後どうすればいいかというビジョンが彼にはなかった。そう彼には出地が低かったことから、きちんとした教育をうけておらず、教養もなく、歴史も知らなかった。そのために自分が天下人になった手段、戦いしか知らなかったのである。そのため、朝鮮出兵などという暴挙に走らざる得なかったのであろう。そう、彼は勝ちすぎたのである。だから前に進むことしか考えておらず、立ち止まって後ろをみることはなかった。そのおかげでここまで出世できた反面、戦に飽きた民衆に気付かず、前を見て走らざる突き進まざる得なかった。このとき、譜代の家臣がいて、命をかけてこの暴挙を止めて、次にやるべきことを示してくれる人物がいれば、あのような暴挙はなく、秀吉の晩年も光輝いたに違いない。その点、晩年彼は孤独で可愛そうな天下人であったのかもしれない。