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| 浅野 長政 | あさの ながまさ | 長吉(ながよし)。五奉行筆頭。後に家康から大野治長、土方雄久(ひじかた たかひさ)と共に家康暗殺の計画の疑いを掛けられ、領国の甲斐国に蟄居を命じられる。 | |
| 池田 輝政 | いけだ てるまさ | 池田恒興の次男。織田信長没後、秀吉に属し、小牧・長久手の戦いで父恒興・兄元助が討死すると、その遺領を継ぎ、大垣城主となる。秀吉に従い各地を転戦。1594年(文禄3年)秀吉の命により、徳川家康の息女督姫と結婚。関ヶ原の合戦の頃、三河国吉田城主を務めており、東軍につき織田秀信の守る岐阜城を攻略する。 関ヶ原の戦いの後、その功により播磨国姫路52万石を得て、姫路宰相とも呼ばれた。 1613年(慶長18年)正月25日姫路城で死去。享年50歳。 |
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| 生駒 一正 | いこま かずまさ | 親正の子。はじめ織田信長に属す。信長死後は秀吉に属すも、関ヶ原の合戦の折は父とは反対に徳川方につく。戦後その功により丸亀城主となり、翌年には讃岐国高松城主となる。 1610年(慶長15年)3月18日死去。享年56歳。 |
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| 生駒 親正 | いこま ちかまさ | 親重の子。雅楽頭。はじめ織田信長に仕えるも、信長の死後秀吉に仕える。関ヶ原の合戦の折には子親正とは逆に西軍につく。戦後、一正の功により、許されて一正がいる高松城に赴き、没した。享年78歳。 | |
| 石田 三成 | いしだ みつなり | 幼名、佐吉。正継の子。1573年(天正元年)近江国長浜城主だった秀吉に見出され、以後近習として秀吉に仕える。秀吉の信任厚く五奉行に列せられる。秀吉の死後、徳川家康の態度の急変に打倒家康で、関ヶ原の合戦を起こすも、敗戦。 1600年(慶長5年)、逃走中のところを発見され、10月1日京都六条河原で処刑された。享年41歳。 |
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| 太田 一吉 | おおた かずよし | はじめ、丹羽長秀に仕える。長秀死後、秀吉に仕え、豊後国臼杵城主となる。朝鮮出兵にも従軍しており、第二次朝鮮出兵の折は軍監を勤めている。 1600年(慶長5年)の関ヶ原の合戦には西軍に属し、最後まで城に籠り抗戦したが、10月4日開城した。しかし、黒田如水のおかげで知行没収にとどまり、剃髪し、宗善と号し京都で余生を送った。 |
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| 大谷 吉継 | おおたに よしつぐ | 刑部少輔。幼名は紀之介。秀吉の小姓となり、1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いには七本槍に継ぐ武功を立て、順調に出世をする。その戦の采配は秀吉に100万の大軍を率いさせて見たいと言わしめたほどであった。しかし、癩病に侵されてからは、第一線を退く。 関ヶ原の戦いの折には、盟友石田三成ために素晴らしい働きを見せるが、東軍に内応した小早川秀秋に攻められ、自刃する。享年42歳。 |
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| 大野 治長 | おおの はるなが | 修理亮。母は淀殿乳母大蔵卿局。秀吉馬廻を勤め、後に秀頼に仕える。後に家康から浅野長政、土方雄久(ひじかた たかひさ)と共に家康暗殺の計画の疑いを掛けられ、下総国の結城秀康の元に身柄を預けられる。片桐且元が大坂城退城後は、大坂方の中心人物として諸事を勤める。1615年(元和元年)大坂夏の陣の時、秀頼に従い殉死。 | |
| 織田 長益 | おだ ながます | 幼名、源五郎。有楽斎(うらくさい)如庵。織田信長の弟。はじめ、信長の一門衆として甲州征伐などに従軍している。また、利休七哲に挙げられる程の茶の名人。後に有楽好みなどの独自の感性を見せる。大坂の陣は豊臣方に味方をして、大坂城に籠るが落城前に大坂城を出ている。 | |
| 織田 信雄 | おだ のぶかつ | 織田軍団、参照。 | |
| 垣見 一直 | かきみ かずなお | 家純(いえすみ)とも言う。第二次朝鮮出兵の軍監。豊後国東郡富来城主に封ぜられる。関ヶ原の戦いの折りには、西軍に属し美濃国大垣城に籠城するも、相良長毎(ながつね:初名は頼房)らに謀殺された。 | |
| 加藤 清正 | かとう きよまさ | 幼名、虎之助。幼くして秀吉の子飼いの武将となり、秀吉の下で賤ヶ岳の戦いをはじめ、数々の武功を挙げる。しかし、石田三成との不和により、関ヶ原の戦いの折は徳川家康につき、熊本にあって西海を鎮める。その後、秀頼を保護する一方、1610年(慶長15年)の名古屋城の普請には先頭にたって行なった。1611年(慶長16年)熊本で死去。享年50歳。 | |
| 加藤 光泰 | かとう みつやす | はじめ、斎藤龍興に仕え、斎藤家没落後、秀吉に仕えた。播磨国三木城攻めで功を挙げて、丹波国周山城主、近江国貝津城主、近江国高島城主を経て1585年(天正13年)美濃国大垣城主となる。一時知行を没収されたが、許されて1587年(天正15年)近江国佐和山城主となる。小田原の役後、甲府城主で24万石を与えられた。1592年(文禄元年)朝鮮出兵に従軍し、京城に籠城。帰国の途中で病死した。 | |
| 加藤 嘉明 | かとう よしあき | 賤ヶ岳の七本槍の一人。 水軍を指揮し、四国征伐、九州征伐、小田原役、文禄の役などに従軍している。関ヶ原の合戦の折、徳川方につき、大坂夏の陣にも参加。戦後、会津若松城主となる。 |
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| 木村 重成 | きむら しげなり | 豊臣秀頼の小姓。 大坂夏の陣で見事討死している。 |
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| 熊谷 直盛 | くまがい なおもり | 秀吉の家臣。勇猛でもって知られた。文禄・慶長の役に従軍し、慶長の役では軍監を勤めた。その功により豊後国安岐城主となり、1万5千石を領した。関ヶ原の戦いの折りには、西軍に属し美濃国大垣城に籠城するも、相良長毎(ながつね:初名は頼房)らに謀殺された。 | |
| 来島 通総 | くるしま みちふさ | 出雲守。村上通康の第4子。母は湯月城主河野通直の女。はじめ、河野氏に属すが、1582年(天正10年)河野氏に背き、秀吉に属す。その後は水軍の将として活躍する。1597年(慶長2年)慶長の役にも従軍するが、9月16日全羅道鳴梁で戦死。享年37歳。 | |
| 黒田 長政 | くろだ ながまさ | 黒田軍団、参照。 | |
| 黒田 孝高 | くろだ よしたか | 幼名、万吉。通称官兵衛。姫路に生まれる。祖父重隆は播磨国の守護赤松氏の一族小寺氏の養子となったため、はじめ小寺氏と称した。織田信長が中国に軍を向けてきた頃から信長の傘下に入り、秀吉に属するようになる。その後も秀吉の天下取りに多いに貢献するも、その才能が返って秀吉に恐れを抱かせ、大封を得ることはなかった。関ヶ原の合戦では豊前国で大友義統を破った。1604年(慶長9年)山城国伏見で死去(豊前国博多で死去したとも言われる。)享年58歳。 | |
| 小西 行長 | こにし ゆきなが | 幼名、弥九郎。堺出身の豪商小西隆佐の次男。はじめ、宇喜多直家に仕えるが、1580年(天正8年)の頃より、秀吉に仕えるようになる。肥後宇土城を与えられ、肥後半国を領する。朝鮮出兵では加藤清正と共に先陣として派兵。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、敗戦。伊吹山山中で捉えれ、1600年(慶長5年)、10月1日京都六条河原で斬首された。 | |
| 副田 甚兵衛 | そえだ じんべい | 紀州侍。秀吉の妹旭姫の夫。大徳寺の信長の法要の奉行の一人。徳川家康に旭姫を嫁がせるため、秀吉の命により離縁を命じられる。その代わりに知行の加増を言い渡されるが、それを潔しとせず、自刃。 | |
| 高山 重友 | たかやま しげとも | 右近。キリシタン大名。高山友照の子。摂津国高槻城主。摂津国主荒木村重が信長に反逆するに及び、信長に降ることになる。その後は信長の臣として、緒戦を従軍する。一方高槻領内のキリスト布教活動に力を入れる。山崎の戦いでは自ら秀吉の先陣として参加。その後は秀吉の臣として仕えるが、1587年(天正15年)キリスト教禁令の一貫として、改宗拒否の代償として領地を没収された。しばし、小西行長を頼り、前田利家の招き応じ、利家・利長に仕える。1614年(慶長19年)徳川家康の禁教令により、妻子や内藤飛騨守らと共にルソンへ放逐された。1615年(元和元年)正月マニラにおいて病死。享年64歳。茶人としても有名であった。 | |
| 滝川 雄利 | たきがわ かつとし | 織田軍団、参照。 | |
| 竹中 重治 | たけなか しげはる | 通称、半兵衛。はじめ美濃国斎藤龍興の家臣であったが、龍興の主君にあるまじき行為に対して、1564年(永禄7年)2月、安藤守就、弟重矩(しげのり)らとともに、わずか十数人で稲葉山城を奪取。しかし、龍興に稲葉山城を返還し、近江の浅井氏に出仕した。 1567年(永禄10年)織田信長により、美濃国平定されると、秀吉に属するようになる。1579年(天正7年)4月播磨国三木城攻めの最中に発病し、向城の平山に至り陣中で6月13日死去。享年36歳。 |
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| 竹中 隆重 | たけなか たかしげ | 秀吉の家臣。重光の子。1579年(天正7年)秀吉に出仕。それ以前は従弟重治の知行のうち、3千石を分領とされていた。第二次朝鮮出兵のときは軍監等を勤めた。関ヶ原の戦いの折には西軍に属すも、東軍に転じた。役後所領は安堵された。1615年(元和元年)10月16日死去。享年54歳。 | |
| 田中 吉政 | たなか よしまさ | 兵部小輔。はじめ宮部継潤につかえ、豊臣秀次に仕える。関ヶ原の合戦の頃には三河国岡崎城主を務めるまで出世した。関ヶ原の合戦には東軍に属した。1600年(慶長5年)9月23日、伊吹山山中で石田三成を捕獲した。1609年(慶長14年)2月28日没す。享年62歳。 | |
| 豊臣 秀次 | とよとみ ひでつぐ | 秀吉の姉瑞龍院日秀(ずいりゅういんにっしゅう)と三好吉房(よしふさ)との間に生まれた長子。 1583年(天正11年)賤ヶ岳の戦いでは功を立てたが、1584年(天正12年)小牧・長久手の戦いでは大敗を喫する。 後に関白職を譲られ、秀吉の世継ぎと目されるが、秀頼が生まれたことにより、秀吉との関係がおかしくなり、乱行が目立つようになり”殺生関白”とも呼ばれた。 1595年(文禄4年)高野山で切腹。妻妾や子は三条河原で惨殺。父三好吉房は讃岐へ流罪。母ともは仏門に入った。 |
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| 豊臣 秀長 | とよとみ ひでなが | 小一郎。初名は長秀。美濃守。秀吉より、3つ下の異父弟。22歳の頃から秀吉の片腕として活躍する。なかでも、1585年(天正13年)の四国平定には大功をたて、郡山城主となる。また、豊臣政権内の武断派、官僚派の調停もうまくし、実質的な豊臣政権の大黒柱であった。1591年(天正19年)正月22日大和国郡山城で死去する。享年52歳。 | |
| 豊臣 秀吉 | とよとみ ひでよし | 百姓の倅として裸一貫から天下統一まで成し遂げた日本一の出世人。 | |
| 中川 清秀 | なかがわ きよひで | 幼名、虎之助。通称瀬兵衛。はじめ、池田勝正に仕え、1572年(元亀3年)、摂津国高槻城主和田惟政を討取る。1578年(天正6年)、織田信長に仕え、荒木村重の配下となる。村重が背いて敗死したのち、秀吉に属する。1582年(天正10年)山崎の戦いでも功を立てる。1583年(天正11年)賤ヶ岳の戦いの折、大岩山砦を守るも、佐久間盛政に攻められて、4月20日敗死。享年42歳。 | |
| 中村 一氏 | なかむら かずうじ | 秀吉の家臣。一政の子。1578年(天正5年)8月、天王子城で大坂本願寺門跡派の一揆を破り、その功により1584年(天正12年)岸和田城主となる。1585年(天正13年)6月四国征伐の功により、近江国水口城主となる。1590年(天正18年)の小田原の役には山中城の攻め手に加わり、その功により、駿河国駿府城主を務める。1598年(慶長3年)7月中老職となる。関ヶ原の戦いのおりには東軍に属するも、突如発病し、7月17日死去。 | |
| 長束 正家 | なつか まさいえ | 大蔵大輔。五奉行の一人。はじめ、丹羽長秀・長重に仕えた。1585年(天正13年)7月奉行職につき、手腕を発揮し、近江国水口城主となる。関ヶ原の戦いの折には、西軍に属し伊勢口を固めた。9月15日会戦のおりには南宮山に陣取るも、吉川広家に遮られ、帰城。10月3日池田長吉に欺かれ、城を出てしまい、近江国桜井谷で自殺。 | |
| 蜂須賀 正勝 | はちすか まさかつ | 小六。彦右衛門。秀吉が木下藤吉郎と呼ばれた時代からの家臣。秀吉に従い、各地を転戦し武功を立てる。また、武功だけでなく、1582年(天正10年)備中国高松城攻めには黒田如水と共に開城に尽力するなど、外交面でも活躍。1586年(天正14年)死去。享年61歳。 | |
| 蜂須賀 至鎮 | はちすか よししげ | 豊雄(とよかつ)とも言う。家政の子。8歳より秀吉に仕える。1590年(天正18年)小田原の役に従軍。1600年(慶長5年)徳川家康の養女氏姫を迎える。関ヶ原の合戦の折、徳川方につく。大坂冬・夏の陣の功により、淡路国を加えれた。1620年(元和6年)2月26日死去。享年35歳。 | |
| 早川 長政 | はやかわ ながまさ | 小牧・長久手の戦い、九州征伐、小田原征伐に従軍。文禄・慶長の役にも従軍し、慶長の役では先手目付の一人となった。蔚山(うるさん)の日本軍救援に尽力した。豊後国府内城主となり、2万石を領した。関ヶ原の戦いの折には西軍に属し、敗戦後浪人となる。大坂の陣には豊臣方に属す。 | |
| 速水 守久 | はやみ もりひさ | 秀吉・秀頼の家臣。1573年(天正元年)近江国長浜のうちから采地を与えられた。のちに近習組頭として小牧・長久手の戦い、小田原征伐に従軍。文禄の役には肥前国名護屋城に本丸広間番衆6番組頭として駐在した。秀吉の葬儀には参列した。その頃、1万石を領する。関ヶ原の戦い後、秀頼に仕えて、1万5百石を領する。大坂7手組頭の一人。1615年(元和元年)5月8日秀頼と共に大坂夏の陣にて自害。 | |
| 土方 雄久 | ひじかた かつひさ | 織田軍団、参照。 | |
| 一柳 直末 | ひとつやなぎ なおすえ | はじめ、秀吉の知行美濃2千5百貫のうち25貫を与えられた。播磨攻略で戦功を立て、1573年(天正元年)9月近江国長浜のうち2百5十石を領した。黄母衣衆、大母衣衆となり1578年(天正5年)10月播磨国姫路のうち2千5百石、1585年(天正12年)5月小牧・長久手の戦いでは美濃国竹鼻城を攻め落とした。1588年(天正15年)丹波国・山城国のうち五千石、ついで6千2百石の加増を受けた。 諸所の戦で功績があり、兵糧奉行・普請奉行として重用された。堀尾吉晴と共に120日間籠城した鳥取城の守将吉川経家に降伏を勧める。 1590年(天正18年)小田原征伐に従軍し、3月29日伊豆山中城攻めの先鋒として奮戦したが、流れ弾にあたり戦死。享年45歳。 |
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| 一柳 直盛 | ひとつやなぎ なおもり | 直末の弟。小田原征伐のときに兄直末を失ってから秀吉直属として仕える。 関ヶ原の合戦の頃、尾張国黒田城主を務める。石田三成より西軍に誘われるも、これを拒否し岐阜城攻めに参加し、本戦では大垣と三成の居城佐和山城の間に陣し、通路を遮断した。1601年(慶長6年)1万5千石加増で5万石となり伊勢国神戸へ移封。1610年(慶長15年)尾張国名古屋城築城の公役を勤め、1611年(慶長16年)伯耆国米子城を守備し、大坂の役にも参陣した。1636年(寛永13年)1万6千石加増のうえ、伊予西条へ移封となったが、その地へ赴く途中の8月19日大坂で死去。享年73歳。 |
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| 福原 長堯 | ふくはら ながたか | 豊臣秀次が高野山で切腹の折、福島正則・池田秀氏と共に検使役を勤めた。1597年(慶長2年)豊後国府内城主として12万石を領した。(この褒賞には長堯が石田三成の女婿もしくは妹婿であったためらしい。)第二次朝鮮出兵には奉行として渡海。1599年(慶長4年)徳川家康に朝鮮の役での諸将との対立を咎められ6万石に減封された。1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの折りには西軍に属し、美濃国大垣城を守備した。戦後、和議により開城し、伊勢国朝熊(あさま)に幽閉され、10月2日自害。 | |
| 古田 重然 | 織部正(おりべのしょう)。美濃出身の武士で初め織田信長に仕えるが、利休七哲に挙げられる程の茶人でもあった。 千利休が失脚後、その後任として豊臣秀吉の茶頭となり、武人の茶は武人らしくという考え方から「大名茶」という一流を築く。 秀吉の死後は徳川家康に用いられ、徳川秀忠の茶道指南に任じられる。 大坂冬の陣の際、佐竹義宣の陣中を見舞い、竹束のかげで茶を点てているときに敵方から鉄砲を打ちかけられ、坊主頭にかすり傷を負っている。このとき、慌てふためかず、傷口を袱紗(ふくさ:茶器を拭いたり、お盆の代りに茶器の下に敷く絹布)でぬぐい、周囲の者から「袱紗で傷をぬぐうとはさすが数寄者の名に恥じず」と言わしめた。その後、家康から血止めの薬を送られている。 しかし、大坂夏の陣の際、大坂方への内通を疑われ、大坂夏の陣の直後、家康より切腹を命じられて、嫡子重広と共に果てている。次男に左近がいる。 |
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| 細川 忠興 | ほそかわ ただおき | 父は細川藤孝。母は明智光秀の娘玉子。しかし、本能寺の変後の山崎の戦いの折には秀吉側につく。その後、秀吉の子飼い武将と共に各地を転戦する。関ヶ原の合戦の折、徳川方につく。 千宗易の門下七哲の一人に数えられるなど、父藤孝同様当時一流の文化人でもあった。 |
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| 堀尾 吉晴 | ほりお よしはる | 茂助。秀吉の尾張時代からの家臣。それ以前は織田信長に仕えたという。しばしば軍功があって1573年(天正元年)近江国長浜のうちで100石を与えられる。以後秀吉に従い、各地で一柳直末と共に120日間籠城した鳥取城の守将吉川経家に降伏を勧めるなどの軍功を重ねる。1590年(天正18年)には、遠江国浜松城主を務め、12万石を領した。秀吉死去後、豊臣家の重鎮として生駒親正・中村一氏らと共に中老職を務めた。1599年(慶長4年)10月、家督を忠氏に譲る。関ヶ原の合戦には東軍に属し、戦後出雲国松江城にて、夭折した忠氏の遺児忠晴を補佐して国政をみた。1611年(慶長16年)6月17日死去。享年68歳。 | |
| 堀尾 忠氏 | ほりお ただうじ | 堀尾吉晴の次男。徳川秀忠のより諱字を賜り忠氏と名乗る。関ヶ原の戦いの折には東軍につく。戦後遠江国浜松城12万石から出雲・隠岐24万石に転封。1604年(慶長9年)8月4日父に先だって死去。享年27歳。 | |
| 堀 直政 | ほり なおまさ | 監物。奥田直純の子。はじめ織田信長に仕え、親戚の縁で堀秀政・秀治に仕えた。本能寺の変後秀吉に従い、堀秀政が越前北庄に転封されると、直政はこれに従った。このときに秀政より堀の姓を賜る。秀治が越後国春日山城主になると、これに従い、沼垂(ぬったり)郡5万石三条城主となった。関ヶ原の合戦では越後国で上杉景勝援軍の一揆を鎮圧した。1608年(慶長13年)2月26日死去。享年62歳 | |
| 堀 秀政 | ほり ひでまさ | 久太郎。はじめ斎藤氏に仕えた。越前一向一揆・紀伊雑賀一揆を平定。1578年(天正6年)織田信長より近江国坂田郡のうち2万5千石を与えられ長浜城主となった。その後織田信忠に従い摂津国で荒木村重を討ち、1582年(天正10年)武田攻略にも従軍した。同年備中国高松城攻めに出陣し、そのまま秀吉に属し山崎の戦いに参戦する。賤ヶ岳の戦後、近江国佐和山9万石を領した。1584年(天正12年)小牧・長久手の戦いでは徳川家康と戦い、榊原康政・大須賀康高を破った。紀伊根来攻め、四国征伐に従軍し1585年(天正13年)越前国北庄18万850石に転封した。その後、九州征伐・小田原征伐にも従軍し、小田原征伐の際、1590年(天正18年)5月27日早川口の陣中で病死。享年38歳。 | |
| 前田 玄以 | まえだ げんい | 徳善院。美濃国出身で尾張国小松原寺の住職であったと言われるが、比叡山延暦寺に入り、その後還俗して織田信長の嫡子信忠に仕え、7千石を領した。本能寺の変事は信忠の命令で岐阜に逃れ、信忠の嫡子三法師を擁して尾張国清洲に移った。その後織田信雄から京都所司代(奉行)に任ぜられ、後に秀吉に仕え、1585年(天正13年)には丹波国亀山に5万石を領した。その後豊臣政権内で奉行職を務める。キリシタンに対してははじめ自分が僧侶出身であることから反感を示したが、のちに好意をよせてキリシタンのためにいろいろ便宜を図っている。玄以の長男秀以・次男茂勝はキリシタンに受洗している。秀吉の死去直前に定められた五奉行にも名を連ねる。関ヶ原の戦いの折には西軍につくも、家康に三成挙兵の報を知らせるなどしたため、所領を安堵することができた。1602年(慶長7年)5月7日死去。 | |
| 前野 長康 | まえの ながやす | 本姓は坪内。蜂須賀正勝と義兄弟の盟あって1566年(永禄9年)墨俣一夜城築城に協力して秀吉に臣従。その後秀吉に従い各地を転戦。1585年(天正13年)播磨国三木城より5万3千石を宛がわれ出石城に転封。1595年(文禄4年)秀次事件に連座して中村一氏もとで自害する。 | |
| 増田 長盛 | ました ながもり | 右衛門尉。五奉行の一人。秀吉の下で奉行職に勤め、検地などの功績をあげる。 関ヶ原の合戦の折、三成の敗北を知ると、いち早く徳川家康に降伏の使者を送るが、それまでに、西軍につきつつも、西軍の情報を家康に流していたり、はっきりしない態度をとっていたため、家康より、高野山追放を命じられる。のち武蔵国岩槻へ配流される。1615年(元和元年)大坂夏の陣のとき息子盛次が大坂へ入城。戦死したことから死を命じられ5月27日自害。享年71歳。 |
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| 松浦 鎮信 | まつら しげのぶ | 式部卿法印。道可隆信の嫡子。父隆信と共に秀吉の九州征伐に従軍。文禄・慶長の役では所領である平戸が前衛基地となり作戦に大きく貢献した。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、本領肥前国松浦・彼杵2郡と壱岐国6万3千石を安堵された。平戸にオランダ・イギリス商館を設置し、平戸貿易を盛んにした。1614年(慶長19年)5月26日没す。享年66歳。 | |
| 御子田 正治 | みこだ まさはる | 秀吉古参の家臣。秀吉の長浜領有時代の黄母衣衆の一人。山崎の戦いの時、天王山に陣取る等、秀吉に従い、各地を転戦し武功を挙げる。しかし、小牧・長久手の戦いの時、織田信雄の攻撃を受けて敗走。その責めにより1584年(天正12年)5月1日改易、追放される。その後、豊後国に流浪。1587年(天正15年)秀吉の命により、自刃。 | |
| ★ 2/20 |
毛利 秀頼 | もうり ひでより | 織田信長、豊臣秀吉に仕える。信長の甲斐国侵攻の際、信濃国伊奈郡に領地を与えられる。本能寺の変後、秀吉に従い、各地を転戦。1593年(文禄2年)閏9月死去。 |
| 山内 一豊 | やまのうち かずとよ | はじめ、織田信長に仕え、1570年(元亀元年)越前金崎・姉川合戦に従う。のちに秀吉に仕えるようになり、近江国長浜で4百石を賜り、次第に加増され、1585年(天正13年)には若狭国高浜城で1万9千8百石余を領した。同年閏8月には近江国長浜城主となり2万石を領した。小田原征伐にも従軍し、戦後遠江国掛川城主を務め、5万石を領した。関ヶ原の合戦には東軍に属し、戦後、徳川家康より土佐一国20万石余を受け、高知城に入る。1605年(慶長10年)9月20日高知で没す。享年60歳。 | |