毛利家自慢の城
広島城

歴代の城主を初め広島城の歴史・遺構を詳しく紹介しています。

入城時間、料金、周辺図などを掲載しています。

広島城で入手したパンフレット、スタンプを掲載しています。

トノが現地で撮影した城郭を掲載しています。

広島城の城攻め日記です。 

 
広島城の公式サイトです。
     
    
お城データ
所在地 広島県広島市中区基町21番1号    
二の丸表御門の前から見た天守
 
別名 鯉城(りじょう)、在間城(ざいまじょう)
 
城の種別 平城
 
天守の構造 鉄筋コンクリート造り5層5階
 
主な城主 毛利輝元、福島正則
   
簡単な歴史  戦国時代末期、中国9カ国を領有する毛利輝元は、それまで本拠としていた先祖伝来の吉田郡山(こおりやま)城では、居城としては狭すぎていたし、城の位置も山間部にあったため、城下の発展もままならないという状態であったので、海陸の接点である現在の地に広島城を築いた。
 関ヶ原の合戦により減封(領地が削られること)となった、毛利氏はせっかく築いた広島城から退去せざるえなくなる。その後、福島氏、浅野氏の居城となる。
 明治以後は天守閣、太鼓櫓、走り櫓、表門、中門のみが残り、昭和6年に天守閣は国宝に指定される。しかし、昭和20年原爆のため全壊した。
 昭和33年に現在の天守閣が再建された。
 
城に関する逸話・伝説 軟弱な土地に建てられた聚楽第に似た城
広島城が建っている場所は元々太田川のデルタ地帯(川の河口付近に土砂が堆積した場所)で軟弱な地形でとても城を建造する土地ではなかったそのため、洪水などの水害に悩まされる地域であった。しかし、世は豊臣秀吉が天下を統一して太平の世に向かっていたため、それまで毛利が居城としていた山城の要害堅固の吉田郡山城では交通の便など不便であったことから利便性のよい平城への移転を考えていた。そんな中秀吉の命令により築城の名手として名高い黒田官兵衛が指導役として築城に手助けをしたとも言われています。また、広島城は毛利輝元が大坂城、聚楽第の豪華さを目の当たりにして、聚楽第に似た城を建てたいと思い、聚楽第に似せさせたとも言われています。
 
現在の状況 鉄筋コンクリートで再建された天守、二の丸には木造により再建された表御門、平櫓、太鼓櫓、多聞櫓、本丸の周囲には水をたたえた内堀がある。また、本丸内には原爆により被災し変色した石垣、原爆の爆風、熱線を浴びながらも奇跡的に生き残った樹木が残っています。
天守は老朽化、耐震性の問題により2026年3月22日閉館。
   
一言メモ 広島城の正面に建つリーガロイヤルホテルからの景色は広島城の城郭全体が上から見ることができるので広島を訪れた際は是非宿泊の検討を!
内堀には広島城の別名にもなっている鯉が優雅に泳いでいます。
 
 背景の家紋 毛利元就の家紋を背景としております。  
一文字三星紋
 〜見どころ〜
   
 2025年11月24撮影
2026年3月22日に閉館の天守
2025年11月24日撮影
二の丸表御門と平櫓、内堀
   
2005年11月18日撮影
三の丸より見た天守と内堀、石垣
 2025年11月24日撮影
太鼓櫓と多聞櫓