| 室町時代の応永年間に築かれた。その際、この地にあった成海神社は北の乙子山に移された。 その後、一時廃城となる。 天文年間には織田信秀が廃城となった城を修築し、家臣山口教継を今川氏に備えるべく、城主に据える。 |
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| 1552年(天文21年) | 織田信秀が病没し、織田信長が家督を継ぐと、山口教継は今川義元に寝返り、鳴海城を子の教吉に守らせて、教継は桜中村城に籠る。 織田信長はすぐさま、鳴海城に兵800を率いて攻めるも落城させることはできなかった。 |
| 1553年(天文22年) | 山口教継・教吉父子は今川義元に織田家の二重スパイを疑われ、殺害される。 山口教継の後に今川家の家臣岡部元信が入城し、城主を務める。 |
| 1559年(永禄2年) | 織田信長は鳴海城を囲むように丹下砦、善照寺砦、中島砦を築き、鳴海城と大高城の連絡を遮断するように鷲津砦、丸根砦を築いた。 |
| 1560年(永禄3年) | 桶狭間の戦いにより、今川義元が討死。 主君今川義元の敗死により、敗走する今川軍の中、岡部元信は鳴海城にて抵抗し、主君義元の首級と引換えに鳴海城を織田家に引き渡して、退却する。 その後、織田信長は家臣佐久間信盛を城主に据える。 |
| その後、廃城の時期としては明確になっていないが、城主佐久間信盛が刈谷城に移った1575年(天正3年)とする説、佐久間信盛が織田家を追放された1580年(天正8年)とする説、現地説明板にある1590年(天正18年)とする説がある。 | |