| 武将名 | 武将名(ひらがな) | 肖像画 | 概略 | 関連ページ | |
| お市 | おいち | ![]() |
織田信長の妹。当時絶世の美女。浅井長政と政略結婚する。長政滅亡後、柴田勝家と再嫁する。北庄城で勝家と運命を共にする。 | ||
| 正親町天皇 | おおぎまちてんのう | 後奈良天皇の崩御により即位する。織豊期に入り織田信長の援助を受け、朝廷・公家社会の安定を得ることができた。 | |||
| 大久保 忠隣 | おおくぼ ただちか | 忠世の嫡男。徳川秀忠の付家老を務める。秀忠および直参旗本からの信頼は絶大であったが、のちに政敵・本多正信の失脚工作によって改易された。 | |||
| 大久保 忠世 | おおくぼ ただよ | 三方ヶ原合戦、長篠合戦など多くの合戦に従軍し、その豪胆な性格で抜群の功を立て、織田信長や豊臣秀吉にも器量を高く評価された。1594年(文禄3年)9月15日死去。享年63歳。 | |||
| 大久保 長安 | おおくぼ ながやす | 徳川家家臣。主家の天領の統括、新技術を利用した金銀の採鉱、一里塚・伝馬宿の設立など幕府の民政、財政面に大きく貢献し「天下の総代官」の異名をとった。 | |||
| ★ | 大熊 朝秀 | おおくま ともひで | 足軽大将衆。大熊長秀(ながひで)とも言う。越後国中頸郡箕冠城主。初め上杉謙信の側近として国政に参画。1556年(弘治2年)謙謙信の出家騒動に乗じて謀反をするも敗れ、越中国へ逃れる。1563年(永禄6年)武田信玄に招かれ、山県昌景軍に組み込まれる。1582年(天正10年)3月天目山の戦いで討死。 | 武田家臣団 | |
| ★ | 大熊 長秀 | おおくま ながひで | =大熊朝秀。 | 武田家臣団 | |
| 太田 一吉 | おおた かずよし | はじめ丹羽家に仕えるが、主家没落後は豊臣秀吉に仕える。関ヶ原合戦では西軍に属し居城・豊後臼杵城に籠城して戦うが、主力の敗北により開城。その後は京都に隠棲した。 | |||
| 太田 牛一 | おおた ぎゅういち | 主君、織田信長の生涯を伝える「信長公記」の著者。 信長、豊臣秀吉に近侍の武士。信長に仕えて六人衆のうち弓三張の一人。信長の晩年には奉行として近江国にあり、のち秀吉に仕えて伏見の検地奉行を務めたりしたが、秀吉の晩年には側室松の丸殿(京極殿)の警護役を務めていた。 |
織田家臣団 | ||
| 太田 資長 | おおた すけなが | 扇谷上杉定正の重臣。1476年(文明8年)足利政知の命で今川氏の内訌鎮定のため出陣した。しかし、1486年(文明18年)7月26日主君定正によって相模国糟屋館で謀殺された。享年55歳。 | |||
| 太田 道灌 | おおた どうかん | =太田資長。 | |||
| 大谷 吉継 | おおたに よしつぐ | 刑部少輔。幼名は紀之介。豊臣秀吉の小姓となり、1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いには七本槍に継ぐ武功を立て、順調に出世をする。その戦の采配は秀吉に100万の大軍を率いさせて見たいと言わしめたほどであった。しかし、癩病に侵されてからは、第一線を退く。 関ヶ原の戦いの折には、盟友石田三成ために素晴らしい働きを見せるが、東軍に内応した小早川秀秋に攻められ、自刃する。享年42歳。 |
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| 大野 治胤 | おおの はるたね | 豊臣秀頼の家臣。大野治長の弟。大坂夏の陣の際、和泉堺を焼討にした。大坂城落城のとき、脱出をはかり逃走したが、5月21日捕らわれ、6月27日堺で処刑された。 | |||
| 大野 治長 | おおの はるなが | 豊臣秀吉馬廻、のち豊臣秀頼に仕える。1594年(文禄3年)京都伏見城の工事を分担。1599年(慶長4年)秀頼に伺候。浅野長政とともに徳川家康暗殺の容疑で下野国結城に追放されたが、関ヶ原の戦いの直前に釈放。家康の奥州会津征伐に参陣した。のち秀頼の側近として仕え、片桐且元の退城後は大坂方の中心人物として諸事を勤め、大坂の陣では指導的役割を果たした。1615年(元和元年)大坂夏の陣のとき、秀頼に従い殉死。 | |||
| 大政所 | おおまんどころ | =天瑞院。 | |||
| 小笠原 貞慶 | おがさわら さだよし | 小笠原長時の3男。1553年(天文22年)信濃国塩尻峠の戦いで武田氏に敗れ、父と共に長尾氏を頼り、三好氏、織田氏に仕える。1579年(天正7年)長時より家督を相続し、1582年(天正10年)本能寺の変により織田信長が横死すると、徳川家康に仕え、旧領に復帰した。1585年(天正13年)石川数正の出奔に従い、豊臣秀吉に仕えるようになる。1598年(天正18年)小田原の役では前田利家に属し、奮戦。その功により讃岐国半国を与えられるも、九州の陣の折に秀吉に追放された尾藤知宣を庇護したため、改易された。その後、再び徳川家康に属し、子の秀政の領地下総国古河へ移った。1595年(文禄4年)5月10日死去。 | |||
| 小笠原 長時 | おがさわら ながとき | 1548年(天文17年)に信濃国塩尻峠にて武田氏に敗れ没落した。一時、長尾氏に身をよせたのち、摂津国芥川城に住む。1568年(永禄11年)織田氏に敗れて再び上杉氏を頼る。上杉謙信の死後、会津国蘆名氏に寄寓し同地で1583年(天正11年)2月25日死去。 | |||
| 小笠原 信嶺 | おがさわら のぶみね | 信濃国松尾城主。深志小笠原氏との対立から武田氏に属す。1582年(天正10年)織田氏が甲州攻めを始めると、武田氏に背き織田氏の案内役として信濃国高遠城を攻めた。本能寺の変のち、徳川氏に属した。1590年(天正18年)徳川氏の関東移封に伴い、武蔵国本庄城主となる。1598年(慶長3年)2月19日に死去。享年52歳。 | |||
| 小笠原 秀政 | おがさわら ひでまさ | 小笠原貞慶の長男。はじめ徳川氏に質に出された。1585年(天正13年)石川数正と父の徳川氏出奔に従い、豊臣秀吉に仕えた。父が秀吉に改易されると、家康に属した。1615年(元和元年)5月7日大坂夏の陣にて戦死。 | |||
| 岡田 重孝 | おかだ しげたか | 織田信雄の家老。尾張国星崎城主。1584年(天正12年)3月6日豊臣秀吉吉に通じた疑いにより、伊勢国長島城で信雄に殺害される。 | 織田家臣団 | ||
| 岡田 重善 | おかだ しげよし | 1527年(大永7年)に生まれる。 織田信秀・信長の臣。1542年(天文11年)今川氏との三河国小豆坂の戦いにおいて、小豆坂の七本槍の一人に挙げられる。 信長の死後、信雄に属し尾張国星崎城主になる。 1583年(天正11年)3月16日死去。享年57歳 |
織田家臣団 | ||
| ★ | 岡部 長宗 | おかべ ながむね | 忠兵衛。水軍(海賊衆)。駿河国今川氏の臣。今川氏真に仕えた。1568年(永禄11年)、武田信玄との薩摩山合戦のとき、軍監を勤めた。 | 武田家臣団 | |
| ★ | 岡部 正綱 | おかべ まさつな | 先方衆(駿河衆)。今川氏の臣。主君今川氏真の没落後、武田信玄に属す。清水城の守将となる。1572年(元亀3年)の三方ヶ原の戦い、1574年(天正2年)の武田勝頼の遠江国高天神城攻撃戦に従軍した。武田氏滅亡後浪人となるが、のち徳川家康に仕えて甲斐国平定に功労を挙げる。1583年(天正11年)12月8に甲府で死去。 | 武田家臣団 | |
| 荻野 直正 | おぎの なおまさ | =赤井直正。 | |||
| 奥平 貞久 | おくだいら さだひさ | 奥平貞能から見て3代前の当主にあたる。 | |||
| 奥平 貞昌 | おくだいら さだまさ | =奥平信昌。 | |||
| 奥平 貞能 | おくだいら さだよし | 徳川家家臣。はじめ今川氏に仕えるが、1560年(永禄3年)桶狭間の合戦後、松平元康に属す。1568年(永禄11年)からの掛川城攻めに従軍、1570年(元亀元年)の姉川の戦いには酒井忠次の麾下として出陣。1572年(元亀3年)武田氏の三河国侵攻により、武田氏に属す。1573年(天正元年)武田信玄が死去すると、徳川氏へ復帰する。1575年(天正3年)長篠の戦いに出陣。1598年(慶長3年)12月11日伏見で死去。 | |||
| 奥平 信昌 | おくだいら のぶまさ | 徳川家家臣。貞能の長子。1570年(天正元年)姉川の戦いに参戦。一時武田氏に仕えるが、再び徳川氏へ帰順する。長篠の戦いでは長篠城を死守し、織田・徳川連合軍の勝因を生む。翌年徳川家康の娘亀姫を妻に迎える。甲州征伐、小田原征伐、関ヶ原の戦いに参戦し、関ヶ原の戦い後、西軍の将安国寺恵瓊を捕らえる。翌年美濃国加納10万石へ転封となり、1615年(元和元年)3月14日同地で死去。 | |||
| 小督 | おごう | =崇源院。 | |||
| 於大 | おだい | =伝通院。 | |||
| 小田 氏治 | おだ うじはる | 常陸国小田城主。1556年(弘治2年)結城政勝と戦って敗れ、一時小田城を失う。その後も各地で敗戦と和睦を繰り返すが、1590年(天正18年)豊臣秀吉の関東平定戦で失領。娘が結城秀康の側室だったので越前国に移住、同地で没した。 | |||
| 織田 勝長 | おだ かつなが | 織田信長の六男。1560年(永禄3年)、武田信玄の養子(人質)となったが、1581年(天正9年)武田勝頼はこれを送り返した。信長は勝長を犬山城主とした。本能寺の変の折、長兄信忠と共に二条御所にあり討死をしている。1582年(天正10年)6月2日死去。 | 織田家臣団 | ||
| 織田 達勝 | おだ たつかつ | 尾張国守護(斯波義統)の守護代。 | 織田家臣団 | ||
| 織田 長益 | おだ ながます |
織田信秀の末子。織田信長の実弟。幼名は源五(あるいは源五郎)。有楽斎如庵(うらくさいじょあん、有樂齋如庵)と号し、後世では織田有楽、織田有楽斎と呼ばれることが多い。 |
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| 織田 信興 | おだ のぶおき | 尾張国小木江城主。織田信秀の子。織田信長の弟。小木江城(現愛知県立田村森川)は木曽川下流にある平城で、対岸は伊勢国長島。1570年(元亀元年)長島の一向一揆に攻撃され、11月21日信興は自刃して落城した。 | 織田家臣団 | ||
| 織田 信雄 | おだ のぶかつ | 織田信長の次男。幼名を茶筅丸。北畠家の家督を継ぐ。本能寺の変後、徳川家康と結び、小牧・長久手の戦いを起こすも、羽柴秀吉と勝手に和平を結び、秀吉に仕える。 晩年は織田常真入道信雄と称す。 |
織田家臣団 | ||
| 織田 信包 | おだ のぶかね | 織田信長の弟。伊勢国長野家の家督を継ぐ。本能寺の変後は羽柴秀吉に接近して、秀吉政権下では織田一門中一番出世した。 関ヶ原の戦いには西軍に属して、田辺城を攻撃したが、戦後、旧領安堵を受け、以後豊臣秀頼に近侍する。 1614年(慶長19年)7月17日病没。享年72歳 |
織田家臣団 | ||
| 織田 信清 | おだ のぶきよ | 尾張国犬山城主。 | |||
| 織田 信孝 | おだ のぶたか | 織田信長の3男。幼名は三七丸。 次男信雄よりも20日程早く生まれるも、母の身分が信雄の母よりも低かったため、三男となる。 神戸家の家督を継ぐ。本能寺の変後は柴田勝家と結び、羽柴秀吉に対抗するも、勝家が賤ヶ岳の戦いにおいて、敗れると信雄を通じて秀吉から切腹を命じられる。 1583年(天正11年)5月2日(4月29日とも)自刃。享年26歳。 |
織田家臣団 | ||
| 織田 信賢 | おだ のぶたか | 織田信安の子。 | |||
| 織田 信忠 | おだ のぶただ | 織田信長の嫡子。幼名は奇妙丸。早々に信長の後継者として育てられるも、本能寺の変の折、二条御所で明智軍と戦って敗死する。 1582年(天正10年)6月2日自刃。享年26歳。 |
織田家臣団 | ||
| 織田 信友 | おだ のぶとも | 広信とも伝えられる。通称彦五郎。尾張国清洲城主。織田大和守達勝の養子。尾張下4郡の守護代。織田信長の台頭により次第に家運が衰えたので、1555年(弘治元年)小守護代の坂井大膳が織田信光と結ぼうとしたが、大膳は信光の野望を見抜いて駿河国へ脱出した。信友はそのあと、信光に攻められ、同年4月20日切腹。清洲城は信光から信長に贈られた。 | 織田家臣団 | ||
| 織田 信長 | おだ のぶなが | ![]() |
桶狭間の戦いにより今川義元を破り、各地の大名を切り従え、天下統一への道を驀進する。しかし、志半ば、本能寺の変により明智光秀に破れ、この世を去る。 | 詳細 織田家臣団 |
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| 織田 信治 | おだ のぶはる | 尾張国野天夫(一宮市)城主。織田信秀の子。信長の弟。信長に従軍して合戦に参加。1570年(元亀元年)近江国坂本を守備していて朝倉・浅井連合軍の攻撃を受け、9月20日森可成らとともに討死にした。 | 織田家臣団 | ||
| 織田 信秀 | おだ のぶひで | 織田信長の父。尾張の虎と異名を取るほどの勇猛果敢な武将だった。尾張国内で勢力をつけ、尾張国統一を目指し今川氏、斎藤氏との外敵とも戦ったが、1551年(天文20年)3月3日、末森城で病死。享年42歳。また、信長が家督を譲り受け、あれだけ活躍できたのも、父信秀が蓄えた財力にも一因があるとされている。 | 織田家臣団 | ||
| 織田 信広 | おだ のぶひろ | 織田信長とは、腹違いの兄。今川家の安祥攻めの折に捕らえられるが、竹千代(後の徳川家康)との交換条件で、尾張国に戻される。 1557年(弘治3年)頃、美濃国斎藤義龍とはかって信長に謀反し、清洲城を奪取しようとしたが、未遂に終わった。しかし赦免されて信長の合戦に従軍。1574年(天正2年)7月伊勢長島の一向一揆攻撃に参加し、討死した。 |
織田家臣団 | ||
| 織田 信光 | おだ のぶみつ | 尾張国守山城主。織田信秀の弟。信長の叔父とも言われる。1548年(天文17年)三河国小豆坂での信秀と今川勢との合戦で信秀が敗れたときは殿軍をつとめ、小豆坂の七本槍の一人に数えられる。1552年(天文21年)から信長に協力、1555年(弘治元年)に信長と密約し、守護代織田信友を切腹させて清洲城を乗っ取り、これを信長に与え、自身は那古野城に移ったが、同年11月26日家臣の坂井孫八郎に殺されてしまった。 | 織田家臣団 | ||
| 織田 信安 | おだ のぶやす | 伊勢守。尾張国上4郡の守護代岩倉城主。1558年(永禄元年)織田信長に岩倉城を攻められ、浮野で戦って敗戦、ついで子の信賢らに追放された。その後、斎藤義龍を頼り、尚も信長に反抗した。晩年信長から美濃国白銀荘を与えられて閑居した。1591年(天正19年)10月24日没。 | |||
| 織田 信行 | おだ のぶゆき | 織田信長の弟。勘十郎。父母は、信長と同じ。兄信長を廃嫡して、信秀の跡取に重臣たちに担ぎ出され、信長と対立するも、降参する。しかし、再度謀反を企て、重臣の密告により1557年(弘治3年)11月2日信長に謀殺される。 | 織田家臣団 | ||
| 織田 秀信 | おだ ひでのぶ | 三法師。織田信忠の嫡男。織田信長からは嫡孫にあたる。21歳のときに、関ヶ原の戦いの頃は西軍につき、前哨戦、居城岐阜城にて、東軍の諸将を迎えるが、信長の桶狭間に習って、城から討って出て、見事に失敗している。その後、高野山に入るが1605年(慶長10年)5月8日没した。享年26歳。 | 織田家臣団 | ||
| 織田 老犬斎 | おだ ろうけんさい | =織田信包。 | |||
| おつやの方 | おつやのかた | 織田信長の叔母にあたる人物。 岩村城主遠山景任の妻。景任が死去したのちは信長の5男坊丸(勝長)を養嗣子として迎えるも、勝長は幼かったため、女城主として岩村城を守備する。 1571年(元亀2年)武田家臣秋山信友に攻められた際に窮地に陥るも、秋山信友より結婚を条件に和議を申し込まれ、これに従う。1575年(天正3年)長篠の戦いで武田軍が敗れると、武田勢は劣勢に追い込まれ、岩村城も落城すると、遠山一族も秋山信友に連座することになり、逆さ磔の刑に処せられる。このときおつやの方は信長もあっけないしに方にさせてやると言ったと伝えられる。 |
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| 小野木 重勝 | おのぎ しげかつ | 豊臣秀頼の家人で黄母衣衆・大母衣衆。小牧長久手の戦い・小田原征伐に従軍。朝鮮出兵の際は渡海。関ヶ原の戦いの折には、西軍にあって、丹波国田辺城を占拠したが、西軍の敗戦により細川忠興に城を包囲。降伏して自害。 | |||
| ★ | 小畠 虎盛 | おばた とらもり | 「鬼虎」と呼ばれる。 甲斐国武田氏の臣。武田信虎に仕えた。高坂弾正の副将。信濃国海津城二の曲輪を守った。 | 武田家臣団 | |
| ★ | 小幡 信定 | おばた のぶさだ | 先方衆(西上野衆)。上総国小幡城主。武田氏の麾下。のち織田信長に通じて1582年(天正10年)3月織田信忠に降って本領を安堵された。本能寺の変後は滝川一益に属して北条氏直と武蔵国金窪・神流川に戦った。1590年(天正18年)小田原の役に没落した。 | 武田家臣団 | |
| ★ | 小幡 光盛 | おばた みつもり | 足軽大将衆。小畠虎盛の子。信濃国海津城を守った。1582年(天正10年)武田氏滅亡により越後国へ逃れた。 | 武田家臣団 | |
| ★ | 小浜 景隆 | おばま かげたか | 水軍(海賊衆)。甲斐国武田氏の臣。もと伊勢国畠山氏の水軍の将。1571年(元亀2年)、武田信玄に仕える。1582年(天正10年)3月武田氏滅亡後は徳川氏に仕えた。 | 武田家臣団 | |
| 飯富 虎昌 | おぶ とらまさ | 武田信虎・信玄の2代に仕えた。1565年(永禄8年)8月信玄の嫡男義信が謀反を企てた事件に連座し、自害した。 | 武田家臣団 | ||
| 小山 高朝 | おやま たかとも | 結城政朝の次男で小山政長の跡を継いだ。1547年(天文16年)攻撃してきた宇都宮氏を破った。1562年(永禄5年)上杉謙信に攻められ、降伏した。1574年(天正2年)12月3日没した。 | |||
| 小山 政長 | おやま まさなが | 下野国の豪族。 | |||
| ★ | 小山田 信有 | おやまだ のぶあり | 甲斐国武田氏の臣。1532年(天文元年)、武田氏に仕えた。1553年(天文21年)村上義清と信濃常田の合戦で討死。 | 武田家臣団 | |
| ★ | 小山田 信茂 | おやまだ のぶしげ | 御譜代家老衆。武田氏に仕え、甲斐国谷村城主。小山田信有の子。武田信玄に従い、武蔵国八王子の戦いに戦功があった。1582年(天正10年)3月織田信長に通じて武田氏滅亡に力を貸したが、織田信長に殺された。 | 武田家臣団 | |
| ★ | 小山田 昌成 | おやまだ まさしげ | 御譜代家老衆。甲斐国武田氏の臣。昌行(まさゆき)、昌重(まさしげ)とも。1575年(天正3年)長篠の合戦において、敗走中に追撃してきた徳川方の松平伊忠を返り討ちにしている。1582年(天正10年)3月には高遠城主仁科盛信の副将として高遠城に入り、討死している。 | 武田家臣団 | |