| 武将名 | 武将名(ひらがな) | 概略 | 関連ページ | |
| 西郷局 | さいごうのつぼね | 徳川家康の側室。名は昌子。通称於愛の方。15歳のとき、母方のいとこの西郷義勝の後妻としてとついだ。しかし、夫の義勝は武田氏との戦いで戦死。1578年(天正6年)3月浜松城に帰る途中の家康が西郷村の西郷氏宅に休息した際に、その美貌が家康の目にとまり、家康の側室となった。家康が最も愛した側室とも言われている。西郷局は3男長丸(のちの徳川秀忠)4男福松丸(のちの松平忠吉)を生んでいる。 1589年(天正17年)5月19日28歳の若さで没した。 |
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| 斎藤 龍興 | さいとう たつおき | 美濃国稲葉山城主。斎藤義龍の子。14歳で父を失い家督を継ぐも、幼いために失政も多く、家臣に離反するものがあり、西美濃三人衆と称される氏家ト全、稲葉一鉄、安藤守就が織田信長に通じた。1567年(永禄10年)信長に攻められ、開城して伊勢長島に流れ、さらに越前国朝倉氏を頼る1573年(天正元年)朝倉氏の滅亡と運命を共にした。 | ||
| 斎藤 道三 | さいとう どうさん | 幼くして仏門に入るが、還俗し油屋に奉公する。斎藤家の家臣長井氏と接するようになり、長井氏・斎藤氏を乗っ取る。1542年(天文11年)美濃国主土岐頼芸を攻めて国外へ追放し、美濃国を乗っ取ることに成功する。1556年(弘治2年)長男義龍と長良川で戦い敗死した。 | ||
| 斎藤 利三 | さいとう としみつ | 母が光秀の妹になり、光秀の6歳下の甥になる。五宿老の一人。はじめ斎藤義龍に仕えた。後に稲葉一鉄の兄通勝の娘を妻とし、稲葉一鉄に属した。その後、織田信長に仕え、1580年(天正8年)光秀に仕え、1万石を与えられて丹波国黒井城主となる。本能寺の変、山崎の戦いに従い、敗戦後、近江国堅田で捕らえられ、斬られた。徳川家光の乳母春日局の父である。 | ||
| 斎藤 義龍 | さいとう よしたつ | 斎藤道三の男。実は守護土岐頼芸の子とも。父道三が正室の子に家督を譲ったので、1555年(弘治元年)、長井道利と謀って2人の弟を殺し父と義絶した。1556年(弘治2年)父道三と長良川で戦い敗死させ、稲葉山城主となる。 | ||
| ★ | 三枝 昌貞 | さえぐさ まささだ | 足軽大将衆。甲斐国武田氏の臣。守友とも。信玄に従い、各地を転戦。1575年(天正3年)長篠の合戦では主戦場から離れた鳶の巣山の山麓を守備する。そのため、酒井忠次による別動隊の襲撃を早朝に受け、必死の抵抗をするも奮戦むなしく、討たれている。 | 武田家臣団 |
| 坂井 大膳 | さかい だいぜん | 尾張国守護代清洲城主織田氏の臣。1552年(天文21年)織田信長を討とうとして失敗。1554年(天文23年)主人織田信友の命を受け、守護斯波義統を襲い、自殺させた。 | 織田家臣団 | |
| 酒井 忠次 | さかい ただつぐ | 左衛門尉(さえもんのじょう)。のちに左衛門督(さえもんのかみ)となる。妻は松平広忠の妹碓井姫。若き徳川家康を石川数正と共に支え、1564年(永禄7年)家康が三河国一国を統一したとき、吉田城主となり、徳川家臣団の重臣となる。しかし、家康の正室築山殿、嫡子信康を織田信長から武田家に通じていることを疑われ、その弁明の使者に向かうも、良い返事を得ることができず、築山殿、信康を死なせている。この頃より、徐々に落ち目に合う。1596年(慶長元年)死去。 | ||
| 坂井 孫八郎 | さかい まごはちろう | 織田信光の家臣、信光が織田信長と謀って清洲城の織田信友を追い、那古野城に入ったのちに信光を殺害した、その後佐々孫介に討たれた。 | 織田家臣団 | |
| 坂井 尚恒 | さかい ひさつね | 久蔵。阪井政尚の長男。 織田信長の臣。1568年(永禄11年)9月、織田信長が将軍足利義昭を擁して上京する途次、六角義賢の近江国観音寺城を攻撃した際に功があり、義昭から感状を与えられた。わずか14歳であった。1570年(元亀元年)6月、姉川の戦いで戦死。 |
織田家臣団 | |
| 坂井 政尚 | さかい まさひさ | 織田信長の臣。1568年(永禄11年)9月、六角義賢の近江国箕作城攻撃に功労があった。1570年(元亀元年)の姉川の戦いでは、第一陣で2千余の兵を率いるも、浅井家の磯野員昌に突破される。同年11月浅井方に与した近江国堅田城攻撃の大将となりこれを攻略したが討死した。そのときの働きは「一人当千」、「高名比類なし」と言われた。 | 織田家臣団 | |
| 榊原 康政 | さかきばら やすまさ | 徳川四天王の1人。「無」の旗を掲げて戦場を疾駆し、各地で抜群の功を立てた。晩年、「老臣権を争うは亡国の兆し」と老中への就任を辞退した。 | ||
| 佐久間 信栄 | さくま のぶひで | 佐久間信盛の長男。織田信長の重臣・佐久間信盛の長男として生まれ、若くして父と共に各地を転戦、伊勢国大河内城攻略戦、対六角氏戦などで父と共に戦功をあげ、1576年(天正4年)には対石山本願寺戦で天王寺城の守備を任されている。 原田直政の戦死によって父・信盛が石山本願寺攻めの指揮官になるとこれを補佐し、平行して畿内各地に援軍として出兵するが、石山攻めでは一向に結果が出せず、業を煮やした信長が1580年(天正8年)朝廷を動かして本願寺と和睦すると、19ヶ条に渉る譴責状を突きつけられて父共々高野山に追放された。 父・信盛の死後、1582年(天正10年)1月には赦免されて織田信忠に仕え、本能寺の変後は織田信雄に仕えた。信雄が改易されると茶人として秀吉に召抱えられ、大阪の陣後は徳川秀忠に御咄衆として三千石で仕えている。 |
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| 佐久間 信盛 | さくま のぶもり | 織田信長の重臣。姉川の戦いでは、織田家は13段構えの陣で望んだが、11段まで突破されたが、信盛が必死の抵抗をして持ちこたえた。 1580年(天正8年)石山本願寺との戦いで目立った功績がなかったのを理由に追放され、熊野で没した。 |
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| 佐久間 盛重 | さくま もりしげ | 織田信秀・信長父子の臣。今川義元の西進の折、丸根砦を守備する。しかし、松平元康に(後の徳川家康)攻められ落城、討死。 | 織田家臣団 | |
| 佐久間 盛政 | さくま もりまさ | 織田信秀の臣。豪勇をもって知られた武将。北陸征討戦に功があり、のち柴田勝家に仕え加賀国尾山城主になる。本能寺の変後、勝家に属し賤ヶ岳の戦いでは羽柴方の中川清秀を討ったが、大垣から戻った秀吉軍に逆に強襲され、賤ヶ岳の戦いの敗因となった。後に秀吉に捕らえられ、その豪勇を惜しんだ秀吉は家臣になることを進めたが、頑として拒み、斬首された。 | ||
| 佐治 一成 | さじ かずなり | 織田信雄の臣。尾張国大野城主。1584年(天正12年)小牧・長久手の戦いに従軍し戦後、豊臣秀吉に所領を没収された。伊勢国安濃津で織田信包に仕え、信包の丹波国柏原移封にも従った。1634年(寛永11年)9月26日没した。 | 織田家臣団 | |
| 佐治 日向守 | さじ ひゅうがかみ | 秀吉の妹旭姫の夫と伝わるが、確証ではない。徳川家康に旭姫を嫁がせるため、秀吉の命により離縁を命じられる。その代わりに知行の加増を言い渡されるが、それを潔しとせず、自刃。 | ||
| 佐竹 義重 | さたけ よししげ | 常陸国戦国大名。太田城を本拠に関東で覇権を確立し、宇都宮・佐野らの諸氏を支援して後北条氏と対決し、岩城・蘆名らの諸氏を助けて伊達政宗とも争った。 | ||
| 佐竹 義宣 | さたけ よしのぶ | 佐竹家19代当主。義重の嫡男。父に劣らぬ猛将ぶりで知られた。関ヶ原合戦では西軍に属す決意を固くし、徳川家康から「今の世に稀な律儀者」と評された。 しかし、西軍の敗北により出羽国へ転封を命ぜられた。1633年(寛永10年)正月25日に死去。享年64歳。 | ||
| 佐々 成政 | さっさ なりまさ | 織田信長の臣。内蔵助(くらのすけ)。黒母衣衆の一人。越前国一向一揆討伐後は、前田利家、不破光治と並び、越前2群を与えられて、「府中三人衆」と呼ばれる。本能寺の変後は羽柴秀吉と敵対するも、降服。その後肥後国を与えられるも、失政を責められ自刃。享年50歳。 | 織田家臣団 | |
| 佐々 孫介 | さっさ まごすけ | =佐々盛広。 | 織田家臣団 | |
| 佐々 政次 | さっさ まさつぐ | 織田信秀・信長父子の臣。佐々成政の長兄。1548年(天文17年)3月、三河国小豆坂の戦いに殿(しんがり)で奮戦し、小豆坂の七本槍の一人に数えられた。1560年(永禄3年)、今川氏の先鋒部隊との遭遇戦において討ち死。 | 織田家臣団 | |
| 佐々 盛広 | さっさ もりひろ | 織田信長の臣。佐々成政の次兄。孫介。 織田信長の甥を殺害して逐電した。 |
織田家臣団 | |
| 真田 信繁 | さなだ のぶしげ | =真田幸村。 | ||
| ★ | 真田 信綱 | さなだ のぶつな | 先方衆(信濃衆)。信濃国上田城主。甲斐国武田氏の臣。真田幸隆の長男。弟昌輝、昌幸ととも武田信玄に仕えた。父幸隆とともに上田城を守り、先方衆として上杉謙信に対抗する。1574年(天正2年)、幸隆の病死によりその遺領を継ぐが、1575年(天正3年)5月の長篠の合戦で武田勝頼に従い、弟昌輝とともに奮戦して討死。 | 武田家臣団 |
| 真田 信之 | さなだ のぶゆき | 真田昌幸の長男。父昌幸が徳川家康に臣従したとき、人質として浜松に入り、本多忠勝の娘小松姫を妻とした。関ヶ原の合戦では父昌幸、弟信繁と敵対して東軍につく。戦後の論功行賞により上田城主となる。大坂冬・夏の陣でも活躍し、信濃国松代へ移封となる。1658年(万治元年)死去。享年92歳。 | ||
| ★ | 真田 昌輝 | さなだ まさてる | 先方衆(信濃衆)。甲斐国武田氏の臣。信玄、勝頼の2代に仕える。弾正忠幸隆の次男。兄信綱と共に信濃国上田城を守る。1569年(永禄12年)、武田氏の小田原城攻囲に際して北条氏照を破り、軍功を挙げる。信玄の没後、1575年(天正3年)5月に勝頼に従い、参戦した長篠の合戦で討死。 | 武田家臣団 |
| 真田 昌幸 | さなだ まさゆき | 真田幸隆の3男。はじめ武田信玄に仕えた。主家没落後は真田家として独立するも、強国に挟まれ、謀略の限りを尽くして真田家の本領を守る。そのため、「表裏比興の者」と豊臣秀吉に評された。また、関ヶ原へ行軍途中の徳川秀忠軍3万8千を数千の兵で翻弄し、秀忠軍を信濃に釘付けにした。 しかし、本戦が西軍敗北により2男幸村と共に紀伊九度山へ蟄居させられる。 | 武田家臣団 | |
| 真田 幸隆 | さなだ ゆきたか | 武田家家臣。主君信玄が攻略出来なかった信濃戸石城を謀略で落城させ、知略は信玄に勝ると賞された。以後、信玄の参謀の1人として活躍する。 1574年(天正2年)病没する。 | 武田家臣団 | |
| 真田 幸村 | さなだ ゆきむら | 真田昌幸の2男。父昌幸が徳川家康と対立して信濃国上田城を包囲されたとき、越後国の上杉景勝に救援を求めて、信濃屋代郷を安堵された。その後豊臣秀吉の近臣となり、大谷吉継の娘を妻とした。関ヶ原の戦いでは父昌幸と共に西軍につき、中仙道から進軍する徳川秀忠の軍を足止めした。しかし、本戦が西軍敗北により紀伊九度山へ蟄居させられる。大坂の陣の際には、蟄居先の紀伊九度山から大坂城に入り、大坂の陣で寡兵ながらも徳川の大軍を相手に奮戦した。その戦いぶりは「真田日本一の兵」と称賛された。 | ||
| 佐野 昌綱 | さの まさつな | 下野国唐沢山城主。武田信玄・北条氏康と結んで上杉謙信と戦った。計10回にも及ぶ攻撃を受けたが、城を守り続けた。 | ||