三大山城の一つ

歴代の城主を初め安土城の歴史・遺構を詳しく紹介しています。

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岩村城の城攻め日記です。 

 
岩村城の公式サイトです。
     
    
お城データ
所在地 岐阜県恵那市岩村町城山    
本丸にある六段の石垣
 
別名 遠山城、霧ヶ城
 
城の種別 山城
 
築城者 加藤景廉
築城年 1185年(文治元年)
 
天守の構造 天守は無し
 
主な城主 おつやの方、秋山虎繁
   
簡単な歴史  平安時代末期から鎌倉時代にかけて、源頼朝の挙兵に従い、軍功のあった加藤景廉がこの地を与えられ、その子景朝が築城したのが始まりと伝えられる。築城年に至っては1185年(文治元年)、1195年(建久6年)の2説がある。
 戦国期に入って、西の大垣、東の岩村と称されるように軍事上重要な拠点となり、武田信玄高遠城秋山信友に命じて岩村城を攻めさせる。岩村城主遠山景任はこれを受け、織田信長の救援を受け、秋山勢を敗退させている。。1571年(元亀2年)景任が病没すると、景任に子供がなかったので、信長は5男の坊丸(後の勝長)を遠山の養子とし、景任夫人おつやの方を女城主とした。1572年(元亀3年)景任の死を知った信友は再び岩村城を攻めるも、なかなか攻め落とすことができず、和議が成立した。岩村城の落城に危機を覚えた信長はすぐさま、付近の豪族に奪い返すよう指示を出したが、秋山勢の前に敗退している。
 1575年(天正3年)長篠の戦いで敗れた武田勢に追い打ちをかけるように信長は岩村城に攻撃を仕掛ける。5か月に及ぶ戦いの中、ようやく城兵の命を助けるという約束の下、開城することとなった。しかし、信長は自分の叔母を取り込み城を乗っ取ったことに対して信友夫妻に非常に憎悪を抱いていたため、信友夫妻5名を長良川の河原で逆さ磔の刑に処した。その後、信長河尻秀隆を岩村城に入れ、秀隆が大改修を行っている。このとき、現在に伝えられる城郭に近い姿となった。秀隆甲斐国に移封になった後は森長可が入り、長可死後は森忠政が入る。このとき城代として入った家老各務元正が現在に伝えられる城郭を完成させた。忠政信濃国松代へ移封になると、変わって田丸直昌が入城。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍についた田丸氏が改易させられると、松平家乗が入城。このとき、城下町が整備される。その後、丹羽氏、松平氏が入り明治維新を迎える。
 
現在の状況 本丸にある六段の石垣をはじめ城跡としては比較的良好な状態で残ってる。建造物としては残っていないが、三大山城の名に恥じない標高で頂上までに所々門の跡、井戸の跡、櫓跡があり、頂上に近づくにつれ、遺構も増えていく。
 
一言メモ 三大山城ということもあり、麓の太鼓櫓より頂上を目指すと普通に山登りをする恰好で行かないととても上がれない。頂上近くに駐車場がありそこから頂上を目指すこともできるが、体力に自信のある方はそれなりの装備をして是非、麓から徒歩で上がって頂けると三大山城のすごさを味わえるので、是非挑戦して頂きたい。体力に自信のない小さいお子様、年配の方は駐車場から頂上を目指すのをお勧めします。
 
 背景の家紋 遠山景任の家紋を背景としております。  
遠山九字直違(とおやまくじすじかい)紋
岩村城