国宝に指定されるも、戦災により灰塵とかしてしまう。それから、10余年昭和34年(1959年)10月、天守閣は再建されて、今に至る。
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   名古屋城の門は、櫓門(二階建)高麗門(平屋建)を枡形(ますがた)に配置し、
石垣には防備を誇示するために大きな石を組み入れた。
 この石は加藤清正が運んできたといわれてきたが、この石塁は黒田長政の丁場(ちょうば)であったので、「清正石」というのは、伝説と考えられる。
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14.清正石
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   大天守閣と小天守閣を連絡する橋台は、石垣を築き左右両側に土塀を設けて通路の防備とし、さらに外部に面する西側には、軒桁(のきけた)に30センチメートル余の槍の穂先を並べて、忍返し(しのびがえし)として外敵に備えた。
 剣塀は大天守閣に東接する「不明門」にも見られる。
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11.剣塀
   深井丸の東端であって、本丸の東北にあたる。築城以後無名の場所であったが、寛文6年(1663年)ここに塩を貯蔵する蔵が建てられた。西之丸にも塩蔵はあったが、ここが最も多量に貯蔵され、この郭を塩蔵構と呼ぶようになった。
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9.塩蔵構跡
8.本丸御殿跡  (戦災により、焼失)
   天守閣の南、本丸のほぼ中央に建てられた書院造の大建築で、日常は将軍などが上洛するときの宿舎にあてられたりする以外は使用されなかった。
 玄関には一之間・二之間の二部屋があった。それぞれの部屋の床の間や襖などには、金地に虎や豹が描かれていたため、虎之間とも呼ばれた。玄関の入口には向唐破風(むかいからはふ)の屋根をいただく「車寄」が設けられており、また「大廊下」を通じて表書院に進むようになっていた。
 この御殿は、二条城の二之丸御殿と並んで書院建築の双璧であり、第二次世界大戦により焼失したことは誠に悔やまれる。
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 搦手(からめて)門の枡形の内門で、構造は入母屋(いりもや)造り本瓦葺、上層は総塗籠(そうぬりごめ)造り右脇小門の開戸付きの櫓門であった。表一之門と殆ど同じ構造であったが、昭和20年戦災により焼失。
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6.東一之門  (昭和20年戦災により、焼失)
 古くは南二之門と呼ばれ、本丸追手(おうて)枡形の外門に当たるもので、門柱・冠木(かぶき)とも鉄板張りとし、用材は木割りが太く堅固に造られている。袖塀は土塀として数少ない遺構である。 
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5.表二之門  (重要文化財)
 辰巳(たつみ)隅櫓とも言われ、その規模、構造は西南隅櫓と同じだが、「落狭間」の破風の形が違っている。この櫓は創建当時の姿を伝えるもので、鬼瓦などに葵の紋が見られる。
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3.東南隅櫓  (重要文化財)
 未申(ひつじさる)隅櫓とも呼ばれ、屋根二層・内部三階の櫓。西、南両面には、軍事用の「石落し」を張り出して屋根を付けている。
 濃尾大地震で石垣と共に崩壊したが、大正12年(1923年)宮内省により修理復旧され、鬼瓦などに菊花紋が見られる。
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2.西南隅櫓  (重要文化財)
 戌亥(いぬい)隅櫓とも呼ばれ、また、清須城の古材を多く用いて建築されたことから、清須櫓とも呼ばれる。
 屋根三層、内部三階で最上層は入母屋(いりもや)造り本瓦葺で、一階の外壁の西面・北面に出張った「落狭間(おとしさま:石落し)」を設け、屋根を千鳥破風にして擬装している。現存する他の隅櫓とは違い、内側の東面・南面にも千鳥破風を設けており、安定感がある。
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1.西北隅櫓  (重要文化財)
1.西北隅櫓
2.西南隅櫓
12.二之丸東庭園
13.清正の石曳き
水堀
名古屋城を歩く
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 明治の初めに兵営建築のため、二之丸庭園の多くが壊された。
 「御城御庭絵図(おしろおにわえず)」にある御庭の外側の暗渠(あんきょ)式排水路の遺構が、発掘調査したときのままの状態で整備してある。絵図によれば、この付近に花壇があった。
 これは「金城温古録(こんじょうおんころく)」にある、雨水を引き入れる「水道石樋(すいどういしどい)」の遺構と認められる。現在もここにたまった雨水は石樋を通じて堀へ注いでいる。暗渠に用いられている石材は蓋石(ふたいし)が花崗岩(かこうがん)、側石が硬質砂岩である。
 現在の二之丸東庭園は昭和53年(1978年)4月に開園されたものである。
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   埋門とは、城郭の石垣又は土塀の下をくぐる門のことを言う。埋門のあとは、二之丸庭園の西北の位置にあり城が危急の場合、城主はここから脱出することが決められていた。
 この門をくぐれば垂直の石段があり、これを降り、濠を渡って対岸の御深井丸(おふかけまる)の土居下を通り、大曽根、勝川、定光寺を経て、木曽路に落ちていくことが極秘の脱出路とされていた。
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10.埋門(うずみもん)跡
   この門は東鉄門(くろがねもん)と言われ、もとは二之丸の東二之門(外門)として枡形を形成していたが、昭和38年二之丸の一角に愛知県立体育館が建設されるに当たって、一時解体し保管していた。
 昭和47年、ここ本丸東二之門跡へ移築した。
 形式は高麗門で、本瓦葺き、軒回りは漆喰塗り籠めとし、柱・冠木(かぶき)・扉などには、帯鉄を打ちつけている。
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7.東二之門  旧二之丸東二之門  (重要文化財)
12.二之丸東庭園
3.東南隅櫓
4.表一之門
5.表二之門
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11.剣塀
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14.清正石
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15.南蛮たたき鉄砲狭間
21.天守閣  (戦災により、焼失)
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16.乃木倉庫
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10.埋門跡
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22.那古野城跡
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 大永(1521年〜1528年)の初め、今川氏親が名古屋大地西北端に築いたもので、一名「柳の丸」といった。
 氏親は一族の氏豊を城主として守られていたが、1532年(天文元年)織田信秀のため城を奪われた。その後、信秀が居城し、1534年(天文3年)信長はここで生まれたと言われている。同年、信秀は古渡城に、1555年(弘治元年)信長も清須に移り、一族の信光が居城したが、やがて廃城となった。
 1610年(慶長15年)名古屋城築城の際、二の丸の一部となった。
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御深井丸
本丸
はシャッターポイントです。縄張り図から今現在の名古屋城に迫ってみましょう!!
6.東一之門
17.石垣の刻銘
西之丸
那古野城跡を追加しました。これで完璧のはずです。
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7.東二之門
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18.天守閣礎石
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空堀

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21.天守閣
二之丸
22.那古野城跡
9.塩蔵構跡
20.鵜の首
8.本丸御殿跡
19.霜傑亭(茶席)跡
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 この門は本丸追手(おうて)枡形の主門を形造るものであって、屋根入母屋(いりもや)造り、本瓦葺の三間一戸脇戸付櫓門であった。正面下層は柱、冠木(かぶき)羽目、扉と共に一面に細い幅の鉄板を小札打とし、上に本瓦葺の庇屋根を加え、落狭間(おとしざま)を装置して防備としていた。扉は脇戸共竪格子(たてごうし)板張りの堅固な構造となっていた。戦災により焼失。
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4.表一之門  (戦災により焼失)
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   1610年(慶長15年)加藤清正徳川家康に願い出て、大小の天守閣の石垣工事を施工した。清正は巨石を修羅(しゅら)に乗せて運ぶとき、石の上に乗り、気勢を上げたと伝えられ、世に「清正の石曳き」と言われている。
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13.清正の石曳き
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   二之丸御殿北御庭の北端の石垣の上に東西長く伸びた練塀の遺構である。この練塀は「南蛮たたき」で固められた非常に堅固なものであり、円形の鉄砲狭間が見られる。
 名古屋城の遺構では、非常に珍しいものであり、貴重な文化財である。
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15.南蛮たたき鉄砲狭間
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   登録有形文化財(平成9年)
 乃木希典(のぎまれすけ)が名古屋鎮台(ちんだい)に在任していた明治初期に建てられたと伝えられ、誰ということなく「乃木倉庫」と呼ばれるようになった。
 楝瓦造(れんびぞう)平屋建で旧陸軍の弾薬庫であった。昭和20年(1945年)5月14日名古屋空襲の際、天守閣、御殿等が焼失したが、本丸御殿の障壁画や天井絵類の大半を取りはずしてここに保管していたため、被災を免れた。のちに楝瓦の保全のため白亜塗りにした。なお、被災を免れた障壁画等は現在重要文化財に指定されている。
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16.乃木倉庫
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  石垣の築造は丁場割(ちょうばわり)に基づき、加藤清正をはじめ20の諸大名に分担させたものである。そのため、諸大名が自分の運んだ石を他の大名と区別するために刻んだ「目印」が今日に残る多種多様な記号なのである。
 また、天守閣の石垣は、清正一手の築造であり、その4箇所の隅石には銘石を用いて、担当した家臣の名を刻んでいる。
 なお東北隅北面には、「加藤肥後守内小代下総」と刻銘されている。
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17.石垣の刻銘
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 昭和34年、天守閣再建のとき、旧国宝名古屋城天守閣の礎石をここに移して再現した。
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18.天守閣礎石
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 旧二之丸庭園には、多春園(たしゅんえん)、山下御席(やましたおせき)、余芳亭(よぼうてい)、風信亭(ふうしんてい)など、6つの茶席があったが、そのうちでも霜傑亭は最大の規模のもので数寄屋造りの建物であった。発掘調査の結果「御城御庭絵図」とほぼ一致する霜傑亭跡が確認されたので、亭のうち、畳の部分を五郎太(ごろた)石、廊下の部分を砕石、漆喰たたき、平面部分を小砂利(こざり)で表示し、建物の構造を理解しやすくしてある。
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19.霜傑亭(そうけつてい:茶席)跡
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 西之丸・御深井丸(おふかけまる)など郭の接するところに防衛上入りこんだ堀を設けている。
 これを鵜(う)の首という。本丸を巡って鵜の首と呼ばれる箇所は5個所残っている。
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20.鵜の首