武将名 武将名(ひらがな) 概略 関連ページ
九鬼 守隆 くき もりたか  九鬼嘉隆の長男。1597年(慶長2年)家督を継ぎ、鳥羽城3万石を領した。関ヶ原の戦いの折は、父嘉隆と反対に東軍に属し、父子対立となる。1632年(寛永)9年9月15日死去。
九鬼 嘉隆 くき よしたか  志摩7人衆の一人。織田信長の京都進出の頃からその配下に属す。その後、織田水軍を率いて、木津川の戦いで毛利水軍を破るなど各地を転戦する。本能寺の変後は羽柴秀吉に接近して、水軍として文禄の役などで活躍した。
 関ヶ原の合戦時は西軍に属し、息子守隆と争うことになる。しかし、守隆は自分の戦功と引き換えに嘉隆の助命を願い、許されるが、その報が届く前の10月12日に自刃。享年59歳。
織田家臣団
朽木 元綱 くちき もとつな  織田信長の金ヶ崎の撤退戦の際に道案内を務め、以後は織田家に属した。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕える。関ヶ原合戦では東軍に寝返った。
九戸 政実 くのへ まさざね  南部家臣。南部家の家督相続に大きく関与する。家督相続に敗れた政実は叛乱を起こす。しかし、南部信直の要請で出陣した豊臣軍相手に善戦するが敗れ、斬首された。
来島 通総 くるしま みちふさ  出雲守。来島通康の第4子。はじめ、河野氏に属すが、1582年(天正10年)河野氏に背き、豊臣秀吉に属す。その後は水軍の将として活躍する。1597年(慶長2年)慶長の役にも従軍するが、9月16日全羅道鳴梁で戦死。享年37歳。
来島 通康 くるしま みちやす  村上水軍として伊予・来島を本拠とし来島氏を名乗る。伊予・河野氏重臣。当主河野通直に嗣子がなかった為、その女婿であり、通直の信頼も厚い通康が後継者に押されるが、河野一族重臣の強い反対に遭って話は流れた。その後も河野氏の下、各地を転戦。厳島の戦いでは毛利氏を援けて厳島に出陣、その勝利に貢献した。
黒田 官兵衛 くろだ かんべい  はじめ播州御着(ごちゃく)城主小寺氏に仕える。若くして主君より小寺姓を名乗ることを許されるまで出世する。その後、織田信長の中国征伐軍として派遣された羽柴秀吉に見出され、その後秀吉の配下として、活躍する。
 しかし、後年、官兵衛の才知に脅威を覚えた秀吉は官兵衛を豊前12万石に押し込めた。
詳細
黒田 長政 くろだ ながまさ   幼名、松寿丸。黒田孝高の長男。姫路に生まれたが、父孝高が秀吉に属したため、織田信長への人質として、幼少期を秀吉の居城長浜城で暮らす。1582年(天正10年)はじめて秀吉の中国征伐に従軍する。その後、秀吉の下で賤ヶ岳の戦いをはじめ数々の武功を挙げる。しかし、関ヶ原の戦いでは徳川家康方につき、その武功により筑前国52万3千石を賜り、福岡を居城とした。1623年(元和9年)京都で死去。享年56歳。
黒田 孝高 くろだ よしたか  =黒田官兵衛
桑山 重晴 くわやま しげはる  早くから豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いに従軍している。紀伊国和歌山征服戦の時には和歌山城豊臣秀長の城代となり3万石を領した。1606年(慶長11年)10月1日死去。享年80歳(一説に83歳とも)。
ク音
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