| 武将名 | 武将名(ひらがな) | 概略 | 関連ページ | |
| 飯尾 定宗 | いいお さだむね | 織田信秀の伯父とも従兄弟とも伝わるが、定宗及びその子尚清(ひさきよ)の年代からみると、後者の方が確かなようである。 飯尾氏の養子となり、奥田城主。織田信長に従って、1556年(弘治2年)6月、守山城攻めに従軍。 今川氏の西進の折、鷲津砦を守備するも、今川氏の先鋒部隊の朝比奈泰能(やすよし)の猛攻を支えきれず、鷲津砦において自刃。 |
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| 井伊 直孝 | いい なおたか | 直政の次男。彦根藩3代当主。大坂の陣では井伊軍を率いて軍功を挙げている。「夜叉掃部(やしゃかもん:夜叉のような掃部頭(かもんのかみ)」の異名で剛毅な体躯と武力を恐れられたが、字をあまりしらなかったという。しかし、将軍秀忠や幼い家光、家綱を補佐するにあたっては、あるべき政道にたち、堂々と意見して、わからないことがあれば幕府儒官の林羅山に教えを乞うという謙虚さをもっていた。贅沢な格好に流れる家臣をたしなめるために、禁令を出す代わりに自ら粗末な綿服をきて、率先垂範で華美を封じたという。1659年(万治2年)に死去した。享年70歳。 | ||
| 井伊 直親 | いい なおちか | 1562年(永禄5年)、今川氏真に召し出され、駿府に赴く途中、掛川城下で朝比奈泰朝の手の者により斬られる。 | ||
| 井伊 直政 | いい なおまさ | 1575年(天正3年)、徳川家康に見出され徳川家に仕えることになる。その後は家康の小姓として仕える。1582年(天正10年)武田家滅亡後は武田家の遺臣をそっくり抱えて、「井伊の赤備え」として戦場を疾駆する。その戦いぶりは「井伊の赤鬼」と恐れられた。しかし、1600年(慶長5年)関ヶ原の合戦で敵中突破をする島津軍を追撃したときに受けた鉄砲傷が原因で2年後の1602年(慶長7年)に死去している。 | ||
| 池田 恒興 | いけだ つねおき | 織田信長とは乳兄弟。幼少の頃より織田信秀に次いで信長に仕えた。1570年(元亀元年)姉川の戦いにおいては丹羽長秀と共に、徳川家康軍の援軍となり、勝利の端緒を開いた。1578年(天正6年)摂津国有岡攻めに従軍し、花隈城を攻略した。その功により摂津国を与えられる。本能寺の変時は摂津国に在しており、東上してきた羽柴秀吉と合流し、秀吉と共に賤ヶ岳の戦い・小牧・長久手の戦いに従軍する。しかし、小牧・長久手の戦いのおり、長久手に軍を進めたとき、徳川家康に攻撃され、討死。 | 織田家臣団 | |
| 池田 輝政 | いけだ てるまさ | 池田恒興の2男。本能寺の変後は豊臣家に属し、各地で活躍。関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後、播磨姫路52万石を領して「姫路宰相」「西国将軍」と呼ばれた。 | ||
| 池田 利隆 | いけだ としたか |
池田輝政の長男。1605年(慶長10年)、徳川秀忠の養女・鶴姫(榊原康政の娘)を妻に迎えて幕府との関係を深めた。1613年(慶長13年)、父の輝政が死去したため、家督を継いだ。1614年(慶長19年)からの大坂の陣では徳川方に与した。1616年(元和2年)、33歳の若さで病死した。あまりに突然の死だったため、継母・督姫による暗殺説も囁かれた。死後、家督は嫡男の池田光政が継いだ。 |
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| 池田 知正 | いけだ ともまさ | はじめ織田信長に仕えたが、1570年(元亀元年)池田氏の内訌により摂津国池田城主を相続し、1571年(元亀2年)、三好三人衆と結び信長と敵対し、和田惟政を敗死させた。その後、信長麾下の荒木村重が摂津国を支配したため、村重に従い1580年(天正8年)、村重が信長に背いたのちは豊臣秀吉に仕え、小牧・長久手の戦い・九州平定に参陣した。秀吉の死後は徳川家康に仕えた。 | ||
| 池田 長吉 | いけだ ながよし | 池田恒興の3男。小牧・長久手の戦い、小田原、九州の陣に従軍。朝鮮出兵では肥前国名護屋城に駐屯。関ヶ原の戦いでは徳川家康に属して岐阜城を攻略。ついで近江国水口城主長束正家を降した。1614年(慶長19年)9月14日死去。享年45歳。 | ||
| 池田 秀氏 | いけだ ひでうじ | 第2次朝鮮出兵には渡海し、各地を転戦。関ヶ原の戦いの折には西軍に味方し、伏見城攻撃に参加。その後美濃国駒野城に籠って東軍に抗戦したが、敗北。このため、所領を没収され、高野山に逃れていたが、召し出され藤堂高虎に仕えた。 | ||
| 池田 光政 | いけだ みつまさ | 池田利隆の長男。父利隆が早世のため1616年(元和2年)7歳で家督相続。江戸初期の大名中で名君の誉れが高い。 | ||
| 池田 元助 | いけだ もとすけ | 池田恒興の長男。初陣は摂津国有岡攻め。その後、父恒興から離れて淡路国岩屋攻め、甲信出陣などいずれも池田軍の総指揮官を務めている。このことより若年ながらも、織田信長よりその将才を認められていたものと思われる。本能寺の変後は父と共に羽柴秀吉の味方をし、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いに参陣するも、小牧・長久手の戦いのおり、長久手に軍を進めたとき、徳川家康に攻撃され、父と共に討死。 | 織田家臣団 | |
| 生駒 一正 | いこま かずまさ | 親正の子。はじめ織田信長に属す。信長死後は豊臣秀吉に属すも、関ヶ原の合戦の折は父とは反対に徳川方につく。戦後その功により丸亀城主となり、翌年には讃岐国高松城主となる。1610年(慶長15年)3月18日死去。享年56歳。 | ||
| 生駒 親正 | いこま ちかまさ | 雅楽頭。はじめ織田信長に仕えるも、信長の死後豊臣秀吉に仕える。関ヶ原の合戦の折には子一正とは逆に西軍につく。戦後、一正の功により、許されて一正がいる高松城に赴き、没した。享年78歳。 | ||
| 石川 家成 | いしかわ いえなり | 徳川家康の臣。今川氏真が没落したのち遠江国掛川城の守将となる。家康に従い各地に転戦。家康の関東入国の際、伊豆国梅縄を与えられる。1609年(慶長14年)10月19日死去。享年75歳。 | ||
| 石川 数正 | いしかわ かずまさ | 徳川家の臣。徳川家康が今川氏に人質として送られていた頃よりの臣。桶狭間の戦い後の織田氏との清洲同盟の成就に大きく貢献した。その後西三河の旗頭として活躍した。本能寺の変後の豊臣家との外交を一手に引き受け、徳川氏存命に大きく貢献した。しかし、1585年(天正13年)11月突然家康の元を出奔し、秀吉の元に赴く。九州の陣、小田原の陣に従軍した後、信濃国松本城主で8万石を与えられた。1592年(文禄元年)3月朝鮮の役に際して肥前国名護屋に出陣したが、同年に没する。 | ||
| 石川 康通 | いしかわ やすみち | 徳川家康の臣。家成の息子。家康関東入国の際には、上野国鳴子2万石を与えられる。関ヶ原の合戦の折には、尾張国清洲城を守り、近江国佐和山城攻めに加わる。その功により美濃国大垣城主5万石を与えられる。1607年(慶長12年)7月26日没する。晩年はキリスト教に帰依し、洗礼名をフランシスコと言った。 | ||
| 石田 三成 | いしだ みつなり | 幼名、佐吉。1573年(天正元年)近江国長浜城主だった羽柴秀吉に見出され、以後近習として秀吉に仕える。秀吉の信任厚く五奉行に列せられる。秀吉の死後、徳川家康の態度の急変に打倒家康で、関ヶ原の合戦を起こすも、敗戦。1600年(慶長5年)、逃走中のところを発見され、10月1日京都六条河原で処刑された。享年41歳。 | ||
| 磯谷 信介 | いそがや しんすけ | 吉田兼見の小姓逐電の際捜索を行う。 | ||
| 磯野 員昌 | いその かずまさ | 浅井氏の重臣。1561年(永禄4年)より佐和山城主として、対六角氏の最前線となる。対織田信長戦においても佐和山城に半年あまり持ちこたえている。籠城の末、浅井長政から援軍が来ない事を知ると、佐和山城を開城して、小谷城に引き返す。その後人質にだしていた母が磔にされ曝されていることを知ると、長政を見限り、織田家に仕える。その後は高島郡小川城主になり、信長の忠実な部将として、1575年(天正3年)越前一向一揆攻めなどにも従軍。しかし、1578年(天正6年)突然織田家を出奔。その原因、その後の消息は不明。 | 織田家臣団 | |
| 板垣 信方 | いたがき のぶかた | 武田信玄の臣。武田氏の親族衆。信濃国諏訪郡の武将。1546年(天文15年)上野国笛吹峠で上杉憲政軍を破る。1548年(天文17年)2月14日村上義清との信濃国上田原合戦で緒戦の勝利に気を緩め、首実検しているところを義清に急襲され、討死。 | 武田家臣団 | |
| ★ | 板垣 信憲 | いたがき のぶのり | 武田家家臣。信方死後、家督を継ぐも所行不届で1552年(天文21年)信玄の勘気を蒙り、処罰される。これにより板垣姓は断絶となる。 | 武田家臣団 |
| ★ | 板垣 信安 | いたがき のぶやす | 武田家家臣。御親類衆。元は於曾氏。信方の男信憲が信方死後、家督を継ぐも、所行不届で信玄に処罰されたため、信玄は信方の娘婿の於曾佐京亮に板垣信安と名乗らせ、板垣の名跡を継がせた。武田勝頼の時代は駿河国田中城主となる。生没年不詳。 | 武田家臣団 |
| 板倉 勝重 | いたくら かつしげ | 徳川家家臣。はじめ僧侶であったが、父と弟の死により還俗、家督を継ぐ。駿府や江戸の町奉行を務めたあと、京都所司代となり、西国諸大名らの監視を行った。 | ||
| 板倉 重宗 | いたくら しげむね | 徳川家家臣。勝重の長子。関ヶ原の戦い、大坂の陣に従軍する。父同様京都所司代になり、内政面で活躍する。 | ||
| ★ | 伊丹 康直 | いたみ やすなお | 水軍(海賊衆)。今川義元、氏真に仕えるも、今川氏が没落後は武田信玄に仕えて、水軍をまとめる船大将となる。武田氏滅亡後は徳川家康に仕え、駿河国で船奉行となる。1596年(慶長元年)7月21日死去。 | 武田家臣団 |
| ★ | 市川 等長 | いちかわ とうちょう | 足軽大将衆。甲斐国武田氏の家臣。梅隠斎。小畠虎盛の娘婿。1553年(天文22年)信濃国海津城二の曲輪に入り、のちに信濃国長沼城を守った。 | 武田家臣団 |
| ★ | 一条 信龍 | いちじょう のぶたつ | 御親類衆。甲斐国武田氏の家臣。武田信虎の八男。武田信玄とは異母弟。信玄、勝頼親子に仕え、武田24将に数えられる。名将。断絶していた甲斐源氏・武田信義の次男一条忠頼を祖とする一条家の養子となり家督を継ぐ。 三方ヶ原の戦いで戦功を挙げる。信玄没後は遺書により勝頼の後見人を託され、1575年(天正3年)長篠の戦いにも参戦。1582年(天正10年)織田・徳川の甲州征伐戦では徳川軍を駿河国で迎撃するも撤退し、甲斐国上野城へ籠城。その後、城を徳川家康に包囲されると、信龍は子信就(のぶなり)と城を出て討って出るも徳川軍1万に対して300という圧倒的な兵力差により討死。 |
武田家臣団 |
| ★ | 一条 信就 | いちじょう のぶなり | 御親類衆。甲斐国武田氏の家臣。一条信龍を父にもつ。1580年(天正8年)9月以前に家督を譲られる。1582年(天正10年)織田・徳川の甲州征伐戦では父信龍と共に甲斐国上野城へ籠城。城を包囲されたのち、父信龍と城より討って出るも討死。 | 武田家臣団 |
| 伊藤 盛正 | いとう もりまさ | 1599年(慶長4年)、家督を相続し、美濃国大垣城主。1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの際には、西軍につく。戦後、領地没収の上追放された。のち前田家に仕えた。 | ||
| 伊奈 忠次 | いな ただつぐ | 主君徳川家康の近習として民政に参画。関東全土で検地や治水を行い、江戸幕府の経済基盤確立に貢献した。その地方仕法は「伊奈流」と呼ばれた。 1610年(慶長15年)6月13日死去。 | ||
| 稲葉 一鉄 | いなば いってつ | =稲葉良通。 | 織田家臣団 | |
| 稲葉 貞通 | いなば さだみち | 稲葉一鉄の長男。織田信長に仕え、父と共に各地を転戦。本能寺の変後豊臣秀吉に属し1588年(天正16年)郡上八幡城に移り、増改築を行なった。関ヶ原の戦いのときははじめ西軍織田秀信に属したが、決戦前に東軍に降伏。1600年(慶長5年)12月臼杵に転封。1603年(慶長8年)9月3日死去。 | ||
| 稲葉 通勝 | いなば みちかつ | 稲葉一鉄の兄。 | ||
| 稲葉 通孝 | いなば みちたか | 稲葉貞通の3男。関ヶ原の戦いは父に従い、初め西軍に属すも、決戦以前に徳川家康に降伏。戦後、父に従い豊後国臼杵に移る。 | ||
| 稲葉 良通 | いなば よしみち | 一鉄。頑固一鉄の語源となるほどの頑固者。 西美濃三人衆の一人。初め、斎藤家に仕えるも織田家に引き抜かれて、その後は織田家の将として働く。本能寺の変後は美濃において、自立の勢いを示すが、やがて羽柴秀吉に従い、小牧・長久手の戦い等に従軍する。 |
織田家臣団 | |
| 稲生 政勝 | いのう まさかつ | 三河国亀崎城主。三河国刈谷城主水野信元に築かれた亀崎城に入り、亀崎水軍として活躍する。 | ||
| 猪子 高就 | いのこ たかなり | 兵介。初め、斎藤氏に仕えるも、織田信長による美濃平定後は信長の臣下となる。 本能寺の変時、二条御所で討死した。 |
織田家臣団 | |
| 今川 氏真 | いまが うじざね | 駿河国・遠江国・三河国の戦国大名。今川義元の子。母は武田信虎の娘。1558年(永禄元年)には駿河の国政を委ねられていた。1560年(永禄3年)父義元の討死後家督を継いだが、衰勢を回復することはできなかった。1562年(永禄5年)に独立をはかった松平元康を攻めたが振るわず、1566年(永禄9年)までに三河国を喪失。1567年(永禄10年)武田信玄との同盟関係が破棄され、徳川家康と提携した信玄のため1568年(永禄11年)に駿河国を喪失。氏真は遠江国掛川城に拠ったが、家康に攻められ降伏。のち北条家・徳川家に養われ、1614年(慶長19年)12月28日死去。 | ||
| 今川 氏親 | いまがわ うじちか | 駿河国・遠江国の戦国大名。家督争いの末、家督を継ぐ。遠江国平定を目指し、遠江国平定に成功している。1526年(大永6年)6月13日病死。 | ||
| 今川 氏輝 | いまがわ うじてる | 駿河国・遠江国の戦国大名。1525年(大永5年)元服して五郎氏輝と名乗る。翌年父氏親が没したため、家督を相続。1535年(天文4年)駿河国に侵略した武田信虎を戦う。1536年(天文5年)3月17日病没。 | ||
| 今川 義忠 | いまがわ よしただ | 駿河国今川家6代目当主。正室は伊勢新九郎(北条早雲)の姉とされる北川殿。 | ||
| 今川 義元 | いまがわ よしもと | 駿河国・遠江国・三河国を支配した戦国大名。今川氏親の3男。幼児に出家させられたが、兄氏輝の死去後の家督争いで、異母兄玄広恵探を倒して家督を継いだ。その後武田氏と同盟を結び、一時北条氏と敵対関係になったが、三国同盟により背後の憂いを排除した。三河国制圧後、西上する途中桶狭間の戦いにおいて織田信長に敗れ、討死。 | ||
| ★ | 今福 長閑斎 | いまふく ちょうかんさい | 御譜代家老衆。浄閑斎ともいう。甲斐国武田氏の家臣。駿河国久能城を築城。城代も務めた。1582年(天正10)年3月に自害。 | |
| 色部 長実 | いろべ ながざね | 上杉家家臣。1590年(天正18年)には豊臣秀吉の命による出羽仙北一揆平定の際には大谷吉継に属して戦った。1592年(文禄元年)朝鮮出兵に参加するが、発病し、京都で死去した。 | ||
| 色部 光長 | いろべ みつなが |
色部長実の子。1592年(文禄元年)、京都で長実が病死したので、家督を継ぎ、直江兼続の妹を妻に迎えた。関ヶ原の戦いでは、西軍が敗退し、最上氏の追撃を受けるもこれを退け、見事撤退に成功している。また、大坂の陣にも出陣し活躍している。 |
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| 岩崎 重次 | いわさき しげつぐ | 左門。京極高知の家臣。信濃国高遠城を城代として統治。 | ||
| 岩成 友通 | いわなり ともみち | 三好三人衆の一人。三好義継に従い、畿内で活躍する。足利義昭が織田信長に挙兵したとき、義昭に応じるも、信長の臣細川藤孝に攻められ、1573年(天正元年)8月2日討死。 | ||
| 岩室 重休 | いわむろ しげよし | 1560年(永禄3年)、今川氏の先鋒部隊との遭遇戦において討死。 | 織田家臣団 | |