大高城入口にある碑石

 1.別名  -  
 2.所在地

愛知県名古屋市緑区大高町字城山

 3.城の種別

山城  

 4.築城者

花井備中守

 5.築城年 1504年
 6.遺構

本丸跡、二の丸跡、内堀跡、土塁跡

 7.簡単な沿革
   知多半島の脊梁(せきりょう)山地の末端近くに、西側が開けた丘陵上に築かれた東西約106m、南北32mの山城である。室町時代、永正年間(1504年〜1521年)に花井備中守によって築かれたものと伝えられる。
 戦国時代、天文・弘治年間(1532年〜1558年)の頃には、水野忠氏父子が居城していたが、はじめ今川氏に属し、後に織田氏についたため、今川方の鳴海城山口教継に攻められ、今川義元の家臣鵜殿長照が入った。
 1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いのときに、松平元康(後の徳川家康)が織田方の包囲の中を兵糧の運び入れに成功し、そのまま城を守った。元康は義元が討たれ、今川方が敗走するまでいて、今川方撤退後に父祖の城である岡崎城に入った
 大高城は戦略上の価値を失い廃城となったが、1616年(元和2年)尾張藩家老志水忠宗が城跡に館を構えたが、明治3年に廃止された。
 現在は本丸・二の丸とこれを分ける内堀がよく残っているが、外堀土塁などは急傾斜の地形を安全上の理由から改変し昔の面影は薄い。丸根・鷲津の両砦とともに昭和13年国の史跡に指定された。(現地案内板より)
 
 8.歴代城主   
  年代 歴代城主  
1504年
〜1521年(永正年間)
花井備中守  正確な築城年代は不明だが、この頃に花井備中守が居城したと伝えられている。
  1532年(天文元年)
1559年(永禄2年)
水野忠氏  1559年(永禄2年)鳴海城山口教継の調略により沓掛城と共に今川方へ落ちる。
  1559年(永禄2年) 朝比奈輝勝   1559年(永禄2年)今川義元の命で朝比奈輝勝が城主に入る。 
  1560年(永禄3年) 鵜殿長照   1560年(永禄3年)桶狭間の前哨戦においては鵜殿長照が城主に入る。
  1560年(永禄3年) 松平元康  1560年(永禄3年)松平元康が織田勢の包囲網をかいくぐり兵糧を大高城へ兵糧を運び入れる。兵糧を運び入れた後、鵜殿長照に変り松平元康が城主として入る。
 桶狭間の戦いにおいて今川義元が討たれると、今川勢が敗走するまで城に待機をしているが、撤退後、父祖伝来の地岡崎に入った。大高城は戦略上の価値を失ったため、廃城となった。
   
 9.ご案内   
       見所  現在は大高城址公園として本丸跡、二の丸跡を残すのみだが城としてはそれなりの規模があったということ伺い知れる。また、2022年、2023年と2階に発掘調査をしている。2022年の一次調査では今まで考えられていた堀の形と違うこと。桶狭間の戦い以前からこの地に建造物があったことが判っている。2次調査以降の結果も楽しみである。
入城料  無料 
開城時間  常時開放 
休城日  常時開放 
 アクセス   鉄道 JR東海道本線『大高駅』より徒歩10分
 車  国道23号線〜県道50号線
 地図    
   
 10.感想   
   令和5年2月14日 火曜日 晴れ  
 

 鷲津砦跡、丸根砦跡をみて最後に大高城跡を訪れた。規模としては城跡だけあり両砦と比べて規模が大きいことが判る。二の丸跡がかなり広いが現在は何もなくだだっ広いというのに尽きる。その中心部に少し小高い本丸跡があるという感じだ。
 城跡は発掘調査中なのでいろいろ今後判ってくるのだろうが、ここから鷲津砦跡、丸根砦跡がはっきり確認することができる。松平元康がこの監視の中をかいくぐって兵糧運びいれたのは元康、三河武士団が只者ではないことが諸国にも知れ渡ったのではなかろうか。
 周囲は住宅に囲まれており、道も狭いため車でいくことはお勧めしない。