| 武将名 | 武将名(ひらがな) | 概略 | 関連ページ | |
| 上杉 顕定 | うえすぎ あきさだ | 関東管領上杉房定の次男。上杉房顕の養子となる。1466年(文正元年)家督を継ぎ、西上野国・武蔵国・相模国を領した。また、東上野国・下野国・下総国を領する古河公方足利成氏とも対立していた。扇谷上杉定正・上杉朝良とも対立し、一進一退の攻防を繰り広げた。1507年(永正4年)越後守護上杉房能が守護代長尾為景に攻め殺されると、顕定は越後に出兵し、いったんは為景を越中国に追ったが、1510年(永正10年)6月20日再起した為景軍と戦い、敗死。 | ||
| 上杉 顕実 | うえすぎ あきざね | 山内上杉氏の当主。古河公方足利成氏の息子。顕定の養嗣子。同じ顕定の養子憲房と対立し、憲房の家宰長尾景長に居城武蔵国鉢形城攻略され、下総国古河城に逃れた。癩病をわずらい、療養のため赴いた信濃国諏訪の温泉で没したと伝えられている。 | ||
| 上杉 景勝 | うえすぎ かげかつ | 長尾政景の息子。母は上杉謙信の姉仙桃院。後に謙信の養子となり、1578年(天正6年)謙信が病没すると、謙信の後継者争いで上杉景虎を御館の乱で破り、謙信の後継者となる。その後執政直江兼続の助けを得て越後国一国を統一し、佐渡をも掌握する。1598年(慶長3年)会津120万石に国替えとなり、豊臣秀吉没後5大老の一人として活躍した。1600年(慶長5年)石田三成と結んで挙兵し最上氏・伊達氏と戦ったが、主戦場関ヶ原の敗北により徳川家康に降伏し、出羽国米沢30万石に減封された。1623年(元和9年)3月20日米沢で没する。 | ||
| 上杉 景虎 | うえすぎ かげとら | 北条氏康の7男。甲駿相三国同盟の成立と共に甲斐国へ人質として赴いていたが、同盟が破綻すると戻り大叔父北条玄庵の養子となった。1570年(元亀元年)4月5日に越相同盟が成立したため、越後国へ赴く。しかし、謙信はこの人質の眉目秀麗ぶりに魅了され、自分の養子にして、自分の旧名を名乗らせ、景勝の妹を妻にさせた。1578年(天正6年)謙信没後、景勝との家督争い(御館の乱)で破れ1579年(天正7年)3月24日自刃。享年28歳。 | ||
| 上杉 謙信 | うえすぎ けんしん | 14歳から武将として活躍。武田信玄とは5度に渡り対峙するが、どれも戦いという戦いはなく、唯一激戦だったと言われる、第4回川中島の戦いも前半は上杉勢が優勢で後半は武田勢が優勢ということで結局は勝負がつかなかった。その後信玄が上洛のため西上すると織田信長と同盟を結ぶが、信玄の死後、同盟を破棄し、加賀で織田軍を撃破する。その後、関東攻略のため総動員令を出すが、1578年(天正6年)出陣直前に厠(かわや:便所のこと)で脳溢血(のういっけつ)で倒れそのまま帰らぬ人になる。享年49歳 | 詳細 | |
| 上杉 定勝 | うえすぎ さだかつ | 上杉景勝の子。2代米沢藩主。 | ||
| 上杉 定実 | うえすぎ さだざね | 越後国守護。守護代長尾為景に擁立されて上杉房能を自害させ、1508年(永正5年)越後守護となる。房能没後は長尾晴景に擁されたが、晴景が弟景虎と争うと両者を和解させ、景虎を春日山城主につけた。 | ||
| 上杉 定正(政) | うえすぎ さだまさ | 上杉定政とも。1473年(文明5年)上杉政真の遺臣に擁され、以後家宰太田道灌の助けを得て扇谷上杉氏の威勢回復に努める。しかし、山内上杉顕定が古河公方足利成氏と合力して関東を平定しようとする方針に反対し不和となり、この間にあって武蔵国・相模国の安定化を計ろうとした道灌の真意を疑い、道灌に反逆の企てがあるとして1486年(文明18年)7月26日相模国糟屋で道灌を謀殺した。1488年(長享2年)以降、武蔵国・相模国で顕定と戦ったが、1494年(明応3年)10月5日荒川を渡ろうとして落馬。それが原因で没した。 | ||
| 上杉 高救 | うえすぎ たかすく | 扇谷上杉氏の武将。三浦義同の実父 | ||
| 上杉 輝虎 | うえすぎ てるとら | =上杉謙信。 | ||
| 上杉 朝興 | うえすぎ ともおき | 扇谷上杉氏の武将。1516年(永正13年)北条早雲の攻撃を受けた三浦義同救援のため出兵したが、敗れた。1518年(永正15年)扇谷上杉朝良が没し、その息子藤王丸が幼少だったので名代となった。1524年(大永4年)北条氏綱軍に江戸城を奪われ河越城に逃れ、1530年(享禄3年)武蔵国府中に兵を進めたが、北条氏康に敗れた。その後しばしば相模国にも兵を進めるが勢力を挽回できないまま1537年(天文6年)4月27日河越城中で没した。 | ||
| 上杉 朝定 | うえすぎ ともさだ | 扇谷上杉朝興の息子。1537年(天文6年)父の死により家督を相続。北条氏に対抗するも北条氏綱の大軍の前に本拠河越城を奪われる。1545年(天文14年)駿河国今川義元と通じて北条氏を挟撃することとなり、古河公方足利晴氏の軍を加えて河越城を攻めるも、攻めきれず翌1546年(天文15年)に河越城の救援に向かった北条氏康軍の奇襲にあい敗死した。 | ||
| 上杉 朝良 | うえすぎ ともよし | 扇谷上杉定正の養子。1494年(明応3年)定正の死後家督を相続する。北条早雲・今川氏親と結んで山内上杉顕定と戦った。1504年(永正元年)顕定と武蔵国立河原に戦い敗れ、翌年河越城を包囲されて降伏し江戸城に隠居し、家督を朝興に譲った。 | ||
| 上杉 憲房 | うえすぎ のりふさ | 山内上杉氏。上杉顕定の養子となる。顕定の没後、関東管領上杉顕実と争い、1512年(永正9年)顕実を討って山内家を継ぐ。1525年(大永5年)3月25日没する。 | ||
| 上杉 憲政 | うえすぎ のりまさ | 関東管領。上杉憲房の息子。1531年(享禄4年)管領となった。扇谷上杉朝定や駿河国の今川義元と結び北条氏康抗争した。1546年(天文15年)河越城を包囲するも逆に北条氏康の奇襲にあい敗北する。1548年(天文17年)には越後国長尾景虎の元に走り、景虎を頼ることになる。1557年(弘治3年)には景虎を上杉家の養子として迎え関東管領職を継承した。1578年(天正6年)に上杉謙信が没すると、上杉景虎と上杉景勝が家督を争う御館の乱が起る。1579年(天正7年)3月17日景勝の陣に景虎の子道満丸と伴い、赴いたが斬殺された。 | ||
| 上杉 房顕 | うえすぎ ふさあき | 上杉顕定の養父。 | ||
| 上杉 房定 | うえすぎ ふささだ | 関東管領。上杉顕定の父。 | ||
| 上杉 房能 | うえすぎ ふさよし | 越後国守護。上杉房定の子。兄の関東管領山内上杉顕定を助けるために越後衆を率いて関東に出兵、扇谷上杉朝良の河越城を攻めた。領国経営において国人層の在来の特権を否定する施策をとったので国内が動揺し、守護代長尾為景と対立し、1507年(永正4年)8月7日松之山郷に戦って敗死。 | ||
| 上杉 政真 | うえすぎ まさざね | 1473年(文明5年)11月武蔵国五十子で戦死する。享年24歳 | ||
| 上杉 政虎 | うえすぎ まさとら | =上杉謙信。 | ||
| 宇喜多 直家 | うきた なおいえ | 当代きっての謀略家として知られる。浦上家の一家臣だった宇喜多家を下克上により大名まで押し上げた。羽柴秀吉の中国進出が始まるとはじめは毛利氏の麾下となるが、のちに秀吉に通じて毛利攻撃の第一線に立つ。1581年(天正9年)2月14日岡山城にて病死。享年53歳。 | ||
| 宇喜多 八郎 | うきた はちろう | =宇喜多秀家。 | ||
| 宇喜多 秀家 | うきた ひでいえ | 1572年(元亀3年)、宇喜多直家の子として備前岡山城に生まれる。しかし、織田信長の中国攻略の命を受けた羽柴秀吉にわずか8歳のときに人質として出される。その後、秀吉の養子となり、秀吉の寵愛を一身にうけて、文禄の役(第一次朝鮮出兵)の時では遠征軍の総大将を任されたり、豊臣政権の5大老の一人に選ばれたりした。関ヶ原の合戦では福島正則を相手に奮戦し、小早川秀秋らの寝返りを躊躇させる原因となる。敗戦後は薩摩に逃れて島津家、前田家のとりなしで死罪は免れるも、八丈島への流罪は決定し、秀家は自分の子、孫九郎、小平次と家臣数名で、八丈島に行き、そこで生涯を終える。享年、84歳。関ヶ原参戦武将中最高齢であった。 | 詳細 | |
| 宇佐美 定満 | うさみ さだみつ | 1564年(永禄7年)、長尾政景を上杉家中の内乱の種と考えた定満は、政景を野尻湖に誘い、自らの命をもろとも、野尻湖に政景を沈めた。 | ||
| 氏家 直元 | うじいえ なおもと | ト全(ぼくぜん)。西美濃三人衆の一人。初め、斎藤家に仕えるも織田家に引き抜かれて、その後は織田家の将として働く。 姉川の合戦では、横山城の押さえとして陣を布いていたが、織田家劣勢のときに姉川の地に参陣して織田・徳川連合軍の勝利のきっかけをつくる。 1571年(元亀2年)伊勢国長島一向一揆討伐戦は柴田勝家に従い出陣したが、全軍退却のとき殿として戦い、討死した。 |
織田家臣団 | |
| 氏家 ト全 | うじいえ ぼくぜん | =氏家直元。 | ||
| 碓井姫 | うすいひめ | 松平広忠の妹。酒井忠次に嫁ぐ。 | ||
| 鵜殿 長照 | うどの ながてる | 三河国上郷城主。長持の子。1557年(弘治3年)父の死後家督を継ぎ、今川氏に仕える。1559年(永禄2年)から尾張国大高城主。桶狭間の戦い後三河国の諸将は今川氏を離れて徳川家康に属したが、長照は父長持の妻が今川義元の妹という関係で今川氏にとどまる。1562年(永禄5年)2月(一説に3月)、家康の攻撃を受け上郷城は落城。長照は自刃。 | ||
| 鵜殿 長持 | うどの ながもち | 三河国上郷城主。今川家臣。今川義元の妹を妻とする。1557年(弘治3年)9月11日死去。 | ||