武将名 武将名(ひらがな) 概略 関連ページ
簗田 広正 やなだ ひろまさ  織田信長の臣。政綱(まさつな)とも。1560年(永禄3年)桶狭間の戦いの勝利の一因とも言える今川義元の位置を含めた情報を信長に流した。戦後義元を討った毛利新助よりも勝利への貢献が多かったとされ、毛利新助を抜いて信濃国沓掛三千貫の領地を賦与された。1570年(元亀元年)浅井長政の離反に対し、信長の退路をいち早く確保した。1575年(天正3年)加賀一向一揆の制圧後、加賀国天神山城主となる。しかし、一揆の再起により大聖寺城への退却を余儀なくされ、のちに安土に蟄居。 織田家臣団
山岡 景佐 やまおか かげすけ  近江膳所城主。景隆の弟。実名については景祐、景成ともいう。はじめ近江国佐々木氏に仕えるが、のち織田信長に属す。1582年(天正10年)本能寺の変に際しては徳川家康の退路を守備。のち豊臣秀吉に従うが、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家に内通したため、兄景隆とともに所領没収。その後徳川家康に召し出され駿府に伺候。1589年(天正17年)正月、同地で死去。(一説には1588年(天正16年)。 織田家臣団
山岡 景隆 やまおか かげたか  はじめ将軍足利氏に仕え、江南旗頭として織田信長に対抗するが、1569年(永禄12年)から信長に属す。1573年(天正元年)7月、足利義昭の挙兵に対して応戦し、これを撃破。また、1582年(天正10年)本能寺の変では瀬田を守衛して明智軍の進路を阻止し、近江国坂本へ追撃。のち豊臣秀吉に従うが、翌年、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家側に内応したため、弟景佐とともに所領没収。1585年(天正13年)正月14日、60歳で死去。 織田家臣団
山県 昌景 やまがた まさかげ  武田信玄の家臣。はじめ飯富源四郎といい、飯富虎昌の弟。信玄の近習・使番を経て譜代家老衆となる。1565年(永禄8年)、兄虎昌の誅殺後に山県姓に改める。1575年(天正3年)長篠の戦いに従軍し、戦死する。 武田家臣団
山口 教継 やまぐち のりつぐ   左馬助。尾張国鳴海城の守将。代々、織田家に仕える1553年(天文22年)7月17日、今川義元に降伏。織田信長に殺された。  
山中 鹿之助 やまなか しかのすけ  =山中幸盛
山中 幸盛 やまなか ゆきもり  尼子氏重臣。通称鹿之助。尼子氏が毛利氏に滅ぼされた後、京都の寺に入っていた、新宮党系の勝久を擁立し、尼子氏再興を目指し、1569年(永禄12年)出雲国、1573年(天正元年)因幡国で活動したが失敗し、織田信長を頼る。1577年(天正5年)、支援を得て播磨上月城に入るが、毛利軍に包囲されて落城。備中国合の渡で殺害された。
山内 一豊 やまのうち かずとよ  はじめ織田信長に仕え、のちは羽柴秀吉の家臣となる。秀吉死後、関ヶ原の戦いの折は東軍に属し、その功により土佐一国を貰い受ける。1605年(慶長10年)9月20日没する。
山内 忠義 やまのうち ただよし 土佐藩の第二代藩主。山内康豊の長男で、伯父の山内一豊の養嗣子。1592年(文禄元年)、掛川城にて生まれた。一豊に嗣子ができなかったため、1603年(慶長8年)一豊の養嗣子となり、徳川家康秀忠に拝謁する。このとき、家康から松平姓を下賜された。1605年(慶長10年)一豊の死後、家督を相続する。しかし幼少のため、実父康豊の補佐を受けた。1614年(慶長19年)大坂冬の陣では、徳川方に味方して参戦した。1615年(慶長20年)大坂夏の陣では、暴風雨のために渡海できなかったため、参戦できなかった。
山内 康豊 やまのうち やすとよ

山内一豊の弟。前半生は浪々の生活をしたと伝えられる。1572年(元亀3年)頃から織田信長の嫡男織田信忠に仕えたが、本能寺の変で信忠明智光秀の襲撃によって自害したとき、康豊は早々に逃げてしまったという。兄一豊の招聘に応じて山内家に帰参。その補佐に努めた。関ヶ原の戦いの後、一豊が土佐藩主となると、康豊は1601年(慶長6年)6月、土佐中村2万石に封ぜられた。1605年(慶長10年)に一豊が死去すると、その養嗣子となっていた康豊の長男山内忠義が土佐藩第2代藩主に就任する。しかし若年だった忠義のため、康豊が2年間ほど後見人を務めた。1625年(寛永2年)8月29日に76歳で死去。

山本 勘助 やまもと かんすけ  =山本晴幸
山本 晴幸 やまもと はるゆき  武田信玄の軍師と伝える。俗説では、三河国牛窪の出身で、1543年(天文12年)ごろ板垣信方の推挙で武田氏に仕え、足軽大将となって信玄の緒戦の軍議に与り、1561年(永禄4年)川中島の合戦で討死したという。
         
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