| 武将名 | 武将名(ひらがな) | 概略 | 関連ページ | |
| 前田 慶次 | まえだ けいじ | 前田利家の長兄利久の養子。滝川一益の子とも伝えられる。はじめ織田信長、のち利家に仕えたが、自ら浪人として上杉景勝に仕えた。関ヶ原の戦いで景勝が徳川氏に敗れてからは再び浪人として奇行をほしいままにした。 | ||
| 前田 玄以 | まえだ げんい | 徳善院。美濃国出身で尾張国小松原寺の住職であったと言われるが、比叡山延暦寺に入り、その後還俗して織田信長の嫡子信忠に仕え、7千石を領した。本能寺の変事は信忠の命令で岐阜に逃れ、信忠の嫡子三法師(後の秀信を擁して尾張国清洲に移った。その後織田信雄から京都所司代(奉行)に任ぜられ、後に秀吉に仕え、1585年(天正13年)には丹波国亀山に5万石を領した。その後豊臣政権内で奉行職を務める。キリシタンに対してははじめ自分が僧侶出身であることから反感を示したが、のちに好意をよせてキリシタンのためにいろいろ便宜を図っている。秀吉の死去直前に定められた五奉行にも名を連ねる。関ヶ原の戦いの折には西軍につくも、家康に三成挙兵の報を知らせるなどしたため、所領を安堵することができた。1602年(慶長7年)5月7日死去。 | ||
| 前田 利家 | まえだ としいえ | 織田信長の臣。赤母衣衆の一人。信長に従い各地を転戦して、越前国平定後は不破光治、佐々成政と並び、越前2群を与えられて、「府中三人衆」と呼ばれる。本能寺の変後の賤ヶ岳の戦いにおいては、柴田勝家に属するも、戦わず、離脱する。その後は秀吉に従い、秀吉の最も信頼する重臣となる。 | 織田家臣団 | |
| 前田 利大 | まえだ としおき | =前田慶次。 | ||
| 前田 利長 | まえだ としなが | 前田利家の嫡男。家督を相続後、謀叛の兆しありとの噂が流れるが、母・芳春院を人質に出して徳川家康の討伐を免れた。関ヶ原合戦で東軍に属し、加賀100万石を領した。 | ||
| 前田 利春 | まえだ としはる | =前田利昌。 | ||
| 前田 利久 | まえだ としひさ | 利家の兄。1560年(永禄3年)家督を継ぐも、1569年(永禄12年)織田信長の命により家督を弟利家に譲った。 | ||
| 前田 利昌 | まえだ としまさ | 利家の父。別名利春。1560年に死去。 | ||
| 増田 長盛 | ました ながもり | 右衛門尉。五奉行の一人。豊臣秀吉の下で奉行職に勤め、検地などの功績をあげる。 関ヶ原の合戦の折、石田三成の敗北を知ると、いち早く徳川家康に降伏の使者を送るが、それまでに、西軍につきつつも、西軍の情報を家康に流していたり、はっきりしない態度をとっていたため、家康より、高野山追放を命じられる。のち武蔵国岩槻へ配流される。1615年(元和元年)大坂夏の陣のとき息子盛次が大坂へ入城。息子が戦死したことから死を命じられ5月27日自害。享年71歳。 |
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| 増田 盛次 | ました もりつぐ | 豊臣氏に仕えるが、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いが西軍の敗戦で終わると、父長盛が配流。そののち一時徳川家に仕えるも、1615年(元和元年)大坂夏の陣では徳川方とは訣別し、大坂方につく。5月7日長宗我部軍に属し、藤堂高虎と戦って戦死。 | ||
| 松井 友閑 | まつい ゆうかん | 織田信長の側近として仕え、右筆(ゆうひつ)[現代でいう書記]、和泉堺の政所となる。信長が正倉院の蘭奢待を拝受したとき、奉行を勤め、1580年(天正8年)、石山本願寺開城の際、目付となる。その後、豊臣秀吉に仕えたが、1586年(天正14年)6月14日、堺の政所(代官)を罷免された。元々は清洲の商人.。 | 織田家臣団 | |
| 松下 之綱 | まつした ゆきつな | はじめ、今川氏に仕える。この頃後の豊臣秀吉を寄食させる。今川氏滅亡後は徳川家康に仕え、さらに秀吉に召し出され、秀吉に仕えるようになる。1598年(慶長3年)2月28日死去。 | ||
| 松平 家乗 | まつだいら いえのり | 徳川家康の家臣。1582年(天正10年)大給松平氏の家督を継ぐ。1587年(天正15年)家康から一字を賜る。関ヶ原の戦い後、美濃国岩村城を与えられる。40歳で死去。 | ||
| 松平 勝俊 | まつだいら かつとし | 徳川家康の家臣。久松俊勝の4男。母は伝通院。1560年(永禄3年)家康が阿古屋を訪れ、異父弟として松平の称号と家康の一字を与えられる。 | ||
| 松平 清康 | まつだいら きよやす | 徳川家康の祖父。一時三河国を制圧した武将。1535年(天文4年)尾張国に侵攻し、守山に在陣中、家臣に誤って殺される。これを守山崩れという。同年12月5日死去。享年25歳。 | ||
| 松平 定勝 | まつだいら さだかつ | 徳川家康の家臣。久松俊勝の3男。母は伝通院。1560年(永禄3年)家康が阿古屋を訪れ、異父弟として松平の称号と家康の一時を与えられる。1584年(天正12年)羽柴秀吉の養子になるところ、伝通院の強い反対で実現しなかった。関東入国後、下総国香取郡小南で3千石を経て1617年(元和3年)伊勢国桑名城で11万石。1624年(寛永元年)3月14日死去。享年65歳。 | ||
| 松平 定行 | まつだいら さだゆき | |||
| 松平 忠吉 | まつだいら ただよし | 幼名は福松丸(ふくまつまる)。徳川家康の四男。母は秀忠と同じで西郷の局。妻は家康の重臣、井伊直政の娘。 武勇に優れ、関ヶ原の戦いでも戦功を挙げる。しかし、関ヶ原の戦いの時に受けた傷がもとで、わずか28歳で死去。 |
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| 松平 信康 | まつだいら のぶやす | 徳川家康の長男。1567年(永禄10年)織田信長の息女徳姫と結婚。家康が浜松城に移城後、岡崎城主となる。1579年(天正7年)武田氏との間で不穏の動きがあると疑いをもたれ、信長の指示により遠江国ニ俣城で自害。享年21歳。 | ||
| 松平 広忠 | まつだいら ひろただ | 徳川家康の父。1535年(天文4年)松平清康が織田信秀と対陣中に横死したのち、1537年(天文6年)今川氏の援助により家督を継ぐ。今川義元の後盾に支えられながら、織田信秀と抗争したが、1549年(天文18年)家臣に殺害された。 | ||
| 松平 元康 | まつだいら もとやす | =徳川家康。 | ||
| 松平 康元 | まつだいら やすもと | 徳川家康の家臣。久松俊勝の次男。母は伝通院。1560年(永禄3年)家康が阿古屋を訪れ、異父弟として松平の称号と家康の一時を与えられる。家康に従い転戦し、1572年(元亀3年)の三方ヶ原の戦いでは九死に一生を得た。関東入国後は下総国関宿で4万国を与えられる。関ヶ原の戦いの折には江戸城留守居役を勤める。1603年(慶長8年)8月14日死去。 | ||
| 松田 政近 | まつだ まさちか | 太郎左衛門。丹波衆。山崎では山手右翼先陣を務める。先陣に抜擢されたのは地元山崎の豪族であったっため土地勘を買われたため、ともいう。 | 明智家臣団 | |
| 松永 久秀 | まつなが ひさひで | はじめ三好家に仕えるも、次第に主家を凌ぎ権勢を振るう。1565年(永禄8年)三好三人衆とはかり将軍足利義輝を謀殺。1567年(永禄10年)奈良の交戦で東大寺大仏殿などを焼く。翌1568年(永禄11年)入京した織田信長に降り大和一国の支配を安堵。その後、朝倉家、石山本願寺攻めなどに加わるが、信長に背き1577年(天正5年)10月信貴山城を攻略されて自殺。享年68歳。茶人・文化人としても著名。 | ||
| 松永 久通 | まつなが ひさみち | 久秀の子。1565年(永禄8年)父に従い、将軍足利義輝の謀殺に加担。1568年(永禄11年)織田信長に降る。1577年(天正5年)信長に背き、信貴山城を攻略されて父と共に自殺。 | ||
| 松の丸殿 | まつのまるどの | はじめ、若狭国の守護武田元明に嫁すが、1582年(天正10年)元明が羽柴秀吉に滅ぼされたのち、秀吉の側室となる。京極殿と呼ばれ、また大坂城西の丸、のち伏見城松の丸に移り住んだことから、西の丸殿、松の丸殿と称され、側室の中では淀殿に次ぐ地位を占めていた。秀吉の没後は落飾し、一時京極高次の居城大津城にいたが、関ヶ原の合戦後は京都に戻り晩年を送る。1634年(寛永11年)9月1日死去。 | ||
| 松本 善右衛門 | まつもと ぜんえもん | 関ヶ原の戦いの折、最上氏を攻めた際は、第二陣として篠井泰信、本村親盛、横田旨俊らと上山城を攻めるが、最上軍との物見山の戦いで敗北した。 | ||
| 松浦 鎮信 | まつら しげのぶ | 式部卿法印。豊臣秀吉の九州征伐に従軍。文禄・慶長の役では所領である平戸が前衛基地となり作戦に大きく貢献した。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、本領肥前国松浦・彼杵2郡と壱岐国6万3千石を安堵された。平戸にオランダ・イギリス商館を設置し、平戸貿易を盛んにした。1614年(慶長19年)5月26日没す。享年66歳。 | ||
| ★ | 間宮 造酒丞 | まみや みきのじょう | 水軍(海賊衆)。信高とも。甲斐国武田氏の臣。今川氏の没落後、駿河を制圧すると武田信玄は北条氏、里見氏の水軍に対抗するために水軍を編成しており、1573年頃より武田氏の水軍として参戦している。 | 武田家臣団 |
| ★ | 間宮 武兵衛 | まみや ふへい | 水軍(海賊衆)。甲斐国武田氏の臣。今川氏の没落後、駿河を制圧すると武田信玄は北条氏、里見氏の水軍に対抗するために水軍を編成しており、1573年頃より武田氏の水軍として参戦している。 | 武田家臣団 |