
上田城に続き日本100名城が近くにあるからということで、小諸城があるということで上田城の後にそのまま小諸城を訪れた。小諸城は懐古園と呼ばれており、門と石垣が残っている程度ということぐらいしか下調べをせずに行った。現地に着いたら、渥美清氏が演じる寅さんの看板があり、何かゆかりでもあるのかと思ったぐらいでそのまま通り過ぎた。駐車場に車を止めて、三の門へ向かう途中にお土産屋が数軒あったが、帰りによることとし、先を急いだ。三の門へ着くと入場券売り場、博物館があった。そこに「仙石秀久が築いた穴城」と大きな看板があり、漫画「センゴク」を読んでいる自分としてはすごく興味がそそられた。まずは100名城のスタンプをゲットするために入場券売り場の人に聞くと、博物館の中に入って、事務室にあるとのことだったので、中に入っているみると、役所の受付みたいな感じで中は普通に仕事をしているサラリーマンの方々がいた。城跡へ入るには動物園と一緒になっており、とりあえず城跡だけが見れる散策券を手にして中に入った。
中に入ると結構石垣が残っており、びっくりした。その中でも最初にびっくりするのが、石垣の中に人物の肖像画が入った石垣である。石垣にこのようなものがあるのは今まで見た中で初めてである。良く見てみると転用石とは別で後から功績をたたえて造ったものとあるが、仙石秀久も石垣に人物の顔が彫られるとは思ってもみなかっただろう。そして、二の丸跡を見てみると、ここに関ヶ原の戦いの折に徳川秀忠が上田城を攻めたときに本陣を置いたとあり、改めてここでなかなか落ちない上田城にやきもきしていた秀忠の顔を浮かべてみた。
天守台跡に歩を進めると北の丸跡があり、弓道場になっていた。ここで弓矢とか放たれていたら、なお良かっただろうな。と思っていたら、一人の老人が奥から出てきて、えらく大きい弓をひきしぼり的に向かって放っていた。良いものが見れたと満足し、次に進むと本丸跡が見えてきた。ここは懐古神社となっており上田神社に引き続きまたまた神社を訪れることになった。懐古神社の中には山本勘助が愛用したと伝えられる鏡石があった。それから富士見台をから富士山が見えるかと思い、目を凝らしてみたが全く見えなかった。空気の澄んだ冬でないとみえないかと思い、諦めて水の手展望台から千曲川を見て目当ての天守台へ辿り着いた。天守台は野面積みで石と石の間から雑草が茂っており、無骨な古城跡にふさわしい面構えだった。築城した仙石秀久を思い起こすような石垣であった。その後、来た道を戻り歩いて行くと、北の丸の弓道場はどうなっているかなっとのぞいたら、先ほどの老人が人が来るのを待つかのように物陰に隠れていたので、思わず笑ってしまった。ギャラリーがいないと矢を放たないのだと思った。
来る前とは印象が180度変わった城でまた、来てじっくり見たいと思った。
| 年代 | 歴代城主 | |
| 1554年(天文23年) 〜1582年(天正10年) |
武田氏城代 | 1554年(天文23年)武田氏が大井氏を追い、馬場信房、山本勘助を普請奉行として、現在の小諸城の原型となる城を築城する。 |
| 1582年(天正10年) 〜1590年(天正18年) |
織田氏 徳川氏 |
1582年(天正10年)3月武田氏が織田氏により滅ぼされると、織田氏の領有となる。しかし、同年6月に勃発した本能寺の変により織田信長が死去すると、徳川氏の領有となる。 |
| 1590年(天正18年) 〜1614年(慶長19年) |
仙石秀久 | 1590年(天正18年)小田原征伐の軍功により大名に返り咲いた仙石秀久がこの地に入封する。このとき、3層の天守、二の丸、黒門、櫓等を建てた。 |
| 1614年(慶長19年) 〜1622年(元和8年) |
仙石忠政 | 1614年(慶長19年)秀久が病没すると、その後を三男忠政が継ぐ。忠政の代になり、三の門、足柄門を建てた。 |
| 1622年(元和8年)仙石忠政は上田城にうつされ、替って徳川家光の弟忠長が入城する。その後は青山氏、坂氏、西尾し、牧野氏と続き明治維新を迎える。 | ||

三の門、大手門、天守台、石垣、堀、城郭
1554年(天文23年)
平山城(穴城)
平安時代末期から鎌倉時代にかけてこの地(現城址の東側)に小室太郎光兼(木曽義仲の部将)が館を築いたのが始まりとされている。その後、大井光忠が小室氏をこの地から追い払い、鍋蓋城を築いた。その子、光為が出城として現城址の二の丸跡に乙女坂城、別名白鶴城を築いた。その後、武田信玄の侵略にあい、武田氏の支配下に置かれる。信玄はこの地が軍事上重要な拠点であるとし、重臣の馬場信房、名築城家でも知られる山本勘助に築城を命じた。このとき、完成した城が現在の城址となり、酔月城とも呼ばれた。
その後、武田氏が織田信長に滅ぼされると織田氏の支配下に置かれるも、すぐさま本能寺の変がおこり、徳川氏の支配下と目まぐるしく支配者が替る。豊臣政権が安定期に入ると、九州征伐で失敗した仙石秀久が小田原征伐の軍功により大名に返り咲くとともにこの地が与えられた。秀久は二の丸、黒門、大手門を建て、その子忠政が三の門、足柄門を建て現在の小諸城が完成した。忠政が上田城に移された後は徳川家光の弟徳川忠長が入城し、その後城代がおかれ、青山氏、酒井氏、西尾氏、牧野氏と続き明治維新を迎える。

三の門
長野県小諸市丁311
酔月城、鍋蓋城