| 武将名 | 武将名(ひらがな) | 概略 | 関連ページ | |
| 羽柴 秀勝 | はしば ひでかつ | 於次。羽柴秀吉の養子。織田信長の4男。1582年(天正10年)父信長の命により秀吉に従い、備前国児島城を攻め、ついで備中国高松城の水攻めに加わる。本能寺の変後の山崎の戦いにも参加。明智光秀の丹波国を与えられ亀山城主となる。1585年(天正13年)12月10日亀山城で病没する。旧領は秀吉の甥小吉秀勝が継いだ。 | ||
| 羽柴 秀次 | はしば ひでつぐ | =豊臣秀次。 | ||
| 羽柴 秀長 | はしば ひでなが | =豊臣秀長。 | ||
| 羽柴 秀吉 | はしば ひでよし | =豊臣秀吉。 | 詳細 織田家臣団 |
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| 波多野 秀治 | はたの ひではる | 丹波国八上城主。織田信長の命を受けた明智光秀の丹波攻略により八上城は包囲され、1年半の籠城後捕らわれて、処刑された。 | ||
| 波多野 秀尚 | はたの ひでひさ | 波多野家臣。兄・秀治とともに八上城に籠城して明智光秀軍と戦うが1年半に及ぶ攻防の末、降伏。秀治とともに安土に送られ、磔刑に処せられた。 | ||
| 蜂須賀 家政 | はちすか いえまさ | 小六正勝の子。はじめ織田信長に仕え、後に豊臣秀吉に仕えた。秀吉の中国攻めには黄母衣衆となる。その後各地に転戦し、秀吉股肱の臣として活躍。朝鮮出兵には2度に渡り渡海している。関ヶ原の戦いには西軍に属すが、病気と称して直接戦いには参加しなかった。戦後、息子至鎮が東軍に属したため、改易は免れた。 | ||
| 蜂須賀 正昭 | はちすか まさあき | 正勝の祖父。 | ||
| 蜂須賀 正勝 | はちすか まさかつ | 小六。彦右衛門。豊臣秀吉が木下藤吉郎と呼ばれた時代からの家臣。秀吉に従い、各地を転戦し武功を立てる。また、武功だけでなく、1582年(天正10年)備中国高松城攻めには黒田官兵衛と共に開城に尽力するなど、外交面でも活躍。1586年(天正14年)死去。享年61歳。 | ||
| 蜂須賀 正利 | はちすか まさとし | 蔵人(くらんど)。正勝の父。 | ||
| 蜂須賀 至鎮 | はちすか よししげ | 豊雄(とよかつ)とも言う。家政の子。8歳より豊臣秀吉に仕える。1590年(天正18年)小田原の役に従軍。1600年(慶長5年)徳川家康の養女を迎える。関ヶ原の合戦の折、徳川方につく。大坂冬・夏の陣の功により、淡路国を加えれた。1620年(元和6年)2月26日死去。享年35歳。 | ||
| 初殿 | はつどの | =常高院。 | ||
| 服部 一忠 | はっとり かずただ | 小平太。織田信長の臣。尾張国出身で、1560年(永禄3年)桶狭間の合戦において、今川義元に一番槍をつける。後に豊臣秀吉に仕え黄母衣衆となる。1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いの折には尾張二重掘撤退に際して奮戦。1585年(天正13年)従五位下采女正となる。1590年(天正18年)小田原征伐の功により1591年(天正19年)伊勢国一志郡に3万5千石を与えられて松坂城主となる。1592年(文禄元年)の朝鮮出兵では京城に出陣。1595年(文禄4年)関白秀次の生害の件に連座して改易。上杉家に預けられ自害した。継嗣はなく家は断絶。 | 織田家臣団 | |
| ★ | 馬場 信春 | ばば のぶはる | =馬場信房 | 武田家臣団 |
| 馬場 信房 | ばば のぶふさ | 教来石信保の子。御譜代家老衆。甲斐国武田氏の臣。一族の馬場虎貞が武田信虎に諫言して殺され、馬場氏の名跡が途絶えたが、武田信玄が信房に馬場姓を継がせた。信房は武田四天王の一人として信玄の戦に従軍し、活躍をした。しかし、長篠の戦いで敗色濃厚のところを殿(しんがり)を務めて武田勝頼の退却を見届けて討死。 生涯で一度も戦場で傷を負わなかったことから、「不死身の鬼美濃」とも称される。 |
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| 林 通勝 (又は秀貞とも) |
はやし みちかつ (ひでさだ) |
織田信秀・信長の家臣。佐渡守。はじめ信秀に仕え、信長が信秀から尾張国那古野城を与えられると、平手政秀とともに信長の家老となった。1556年(弘治2年)柴田勝家らと共に信長の弟信行の擁立をはかり信長と戦い敗れたが、許される。1560年(永禄3年)桶狭間の戦い、1574年(天正2年)伊勢長島攻めに従軍した。諸功臣と共に安土に赴き、点茶の饗応にあずかる。1580年(天正8年)24年前の信長廃嫡策動などを理由に追放させられる。追放後は南部但馬守勝利と変名。 | 織田家臣団 | |
| 林 羅山 | はやし らざん | 林家朱子学の祖。方広寺鐘銘事件で豊臣秀頼を誹謗し、大坂の陣のきっかけを作った。のちに幕政に参画、各種公文書を起草した。 | ||
| 速水 守久 | はやみ もりひさ | 豊臣秀吉・秀頼の家臣。1573年(天正元年)近江国長浜のうちから采地を与えられた。のちに近習組頭として小牧・長久手の戦い、小田原征伐に従軍。文禄の役には肥前国名護屋城に本丸広間番衆6番組頭として駐在した。秀吉の葬儀には参列した。その頃、1万石を領する。関ヶ原の戦い後、秀頼に仕えて、1万5百石を領する。大坂7手組頭の一人。1615年(元和元年)5月8日秀頼と共に大坂夏の陣にて自害。 | ||
| 原田 直政 | はらだ なおまさ | 織田信長の臣。1570年(元亀元年)信長が近江国に侵入し、余呉・木本に火を放ち退却したとき、柴田勝家と共に殿軍を勤めた。1575年(天正3年)長篠の戦い後、信長の命によりはじめ塙九郎左衛門重友と称していたのを原田備中守と改称した。1576年(天正4年)細川藤孝・荒木村重・明智光秀・筒井順慶らと3万余騎を率いて大坂本願寺を攻めたが、同年5月3日摂津国三津寺で討死。 | 織田家臣団 | |
| ★ | 原 昌胤 | はら まさたね | 御譜代家老衆。甲斐国武田氏の臣。地理に明るく戦場の陣取りの判断の的確さに賞された。1575年(天正3年)長篠の戦いで戦死。 | 武田家臣団 |