| 武将名 | 武将名(ひらがな) | 概略 | 関連ページ | |
| 大儀院 | だいぎいん | 上杉景勝室。武田信玄の第5女。1579年(天正7年)上杉氏との提携のため、上杉景勝に嫁し、甲斐御前と称される。関ヶ原合戦後、人質として伏見に赴く。1604年(慶長9年)2月16日同地で死去。享年47歳。 | ||
| 高遠 頼継 | たかとお よりつぐ | 諏訪氏の庶流にあたる名族高遠氏の7代目当主。1542年(天文11年)、諏訪家当主の諏訪頼重が武田信玄の謀略によって自刃すると、同年9月10日、諏訪家当主となるべく高遠の地で挙兵。9月25日に安国寺合戦で敗れると、高遠の地へ逃れた。 1545年(天文13年)に、武田家との講和が成立すると、高遠城を無血開城した。その後は甲斐国で隠居生活を送る。 1552年(天文21年)、武田氏により自刃させられ、高遠氏は滅亡した。 |
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| 高山 右近 | たかやま うこん | =高山重友。 | ||
| 高山 重友 | たかやま しげとも | キリシタン大名。洗礼名はジュスト。摂津国に生まれる。豊臣秀吉に仕えて明石城の城主となったが,秀吉の禁教令にしたがわなかったため追放され,加賀国前田家に身をよせた。1614年(慶長19年)江戸幕府のキリシタン追放令によってマニラ(フィリピン)に追われ,その地で死んだ。 | ||
| 滝川 一益 | たきがわ かずます | 甲賀の出とも言われるが、出生は豊臣秀吉のように不明。しかし、その才気で織田信長の下で、頭角を示す。武田家を滅ぼした後、関東方面の指揮官に任じられるも、すぐに本能寺の変が起きてしまい、北条氏との戦いに敗れる。その後は柴田勝家と結んで秀吉に対抗するも、秀吉に敗れる。晩年は茶人として生きる。 | 織田家臣団 | |
| 滝川 雄利 | たきがわ かつとし | 織田信雄の家老。木造具康の子(弟とも)。 はじめ出家して源常寺の学生をしていたが、織田信長が見込んで、滝川一益の養子にした。 1584年(天正12年)小牧・長久手の戦いを契機に羽柴秀吉に仕える。1590年(天正18年)7月小田原の戦いの功により、伊勢国神戸城主となり、2万石を領することになる。1595年(文禄4年)伊勢国員弁郡5千石を加増されたが、豊臣秀次事件に連座し、封を失う。その後、秀吉の御咄衆に加えられ、3千石を領す。1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの折には西軍に属したため、所領を失うが、徳川家康より常陸国片野に2万石を与えられ御咄衆に列す。 1610年(慶長15)2月26日死去。享年68歳。 |
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| 武田 勝頼 | たけだ かつより | 甲斐国・信濃国を支配した戦国大名。武田信玄の4男で、母は諏訪頼重の娘。はじめ諏訪氏を称し、1562年(永禄5年)高遠城主となる。1573年(天正元年)父信玄の死後、武田家の家督を継ぐ。1575年(天正3年)長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に大敗を喫すると、領国経営・家臣団の統率が困難になり、離反するものが続出した。1580年(天正10年)織田家に攻め込まれ、天目山で一族と共に自害する。 | 武田家臣団 | |
| 武田 信玄 | たけだ しんげん | 甲斐国・信濃国を支配した戦国大名。父信虎を甲斐国から追放し、武田家を継ぐ。その後信濃国攻略戦で、上杉謙信と5度に渡り川中島で対峙する。その後三方ヶ原の戦いにおいて徳川家康を破り、西進する途上病没する。また、内政面においても信玄堤と現代まで残る治水事業があり、文武両道であった名将であった。 | 詳細 武田家臣団 |
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| 武田 信廉 | たけだ のぶかど | 武田信虎の4男。絵画の才能があり、父信虎像は彼の手によるもの。1570年(元亀元年)信濃国高遠城主となる。1582年(天正10年)織田信長の甲斐国侵攻の際、府中相川で殺された。 | 武田家臣団 | |
| ★ | 武田 信繁 | たけだ のぶしげ | 武田信虎の次男。武田信玄の弟。子信豊も典厩と呼んだので、古典厩という。はじめ、父信虎は長男晴信(信玄)よりも信繁を寵愛し、家督を継がせようとした。1541年(天文10年)、晴信はそれを察知し、事前に信虎を駿府へ追った。信繁は兄信玄を補佐し副当主格となった。1561年(永禄4年)9月の信濃国川中島の戦いで戦死。 | 武田家臣団 |
| 武田 信虎 | たけだ のぶとら | 甲斐国を支配した戦国大名。暴君の評判が高く、信玄を廃そうと考えたことから逆に国を追われ駿河へ追放され、今川氏の庇護を受ける。後に京で隠居中に孫の勝頼から帰国を認められたがすでに発言権はなく、信濃国高遠城で病没した。 | 武田家臣団 | |
| ★ | 武田 信豊 | たけだ のぶとよ | 御親類衆。典厩。武田勝頼の従兄弟。武田信玄の弟、信繁の次男。1561年(永禄4年)9月、父の戦死後に家督を継ぐ。信玄・勝頼に仕えて御親類衆として信濃国小諸城を守る。1582年(天正10年)3月、織田信長の武田氏攻略に際して、城代の下曾根覚雲斎に謀殺された。 | 武田家臣団 |
| 武田 晴信 | たけだ はるのぶ | =武田信玄。 | 武田家臣団 | |
| 武田 元明 | たけだ もとあき | 若狭国守護。1580年(天正8年)家督を継ぐ。同年、織田信長より3千石を安堵されるが、蟄居させられる。本能寺の変で明智光秀に味方し、佐和山城を攻略する。その後、羽柴秀吉に追われ1582年(天正10年)7月丹羽長秀に謀殺される。 | ||
| 武田 義信 | たけだ よしのぶ | 武田信玄の嫡男。1552年(天文21年)駿河国今川義元の娘を妻に迎えた。1561年(永禄4年)信濃国川中島の戦いで父と意見が対立し、以後不和となる。1565年(永禄8年)謀反が発覚し幽閉され、1567年(永禄10年)自害する。 | 武田家臣団 | |
| 竹中 重門 | たけなか しげかど | 豊臣秀吉の家臣。のちに徳川家康に仕える。重治の子。1584年(天正12年)12歳で小牧・長久手の戦いに従軍。1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いでは、はじめ西軍に属したが、加藤貞泰とともに早くから徳川氏に通じ、9月3日家康からの手紙により、東軍につく。9月19日には西軍の将小西行長を粕子山中で生け捕る。1608年(慶長13年)には名古屋城普請で木曽山の材木伐採を担当した。大坂冬・夏の陣にも従軍している。1631年(寛永8年)死去。享年59歳。 | ||
| 竹中 重治 | たけなか しげはる | はじめ美濃国斎藤家に仕えるも、1564年(永禄7年)安藤守就ら十数人で稲葉山城を斎藤龍興から奪取した。のち織田信長が数回も城の譲渡を申し入れたが固辞し、再び龍興に城を返し、近江国の浅井長政に出仕した。1567年(永禄10年)信長の美濃国平定後、羽柴秀吉に属す。1579年(天正7年)播磨国三木城攻めの最中に発病し、陣中で6月13日死去。 | ||
| 竹中 隆重 | たけなか たかしげ | 秀吉の家臣。1579年(天正7年)羽柴秀吉に出仕。それ以前は従弟重治の知行のうち、3千石を分領とされていた。第2次朝鮮出兵のときは軍監等を勤めた。関ヶ原の戦いの折には西軍に属すも、東軍に転じた。役後所領は安堵された。1615年(元和元年)10月16日死去。享年54歳。 | ||
| 竹中 半兵衛 | たけなか はんべい | =竹中重治。 | ||
| 伊達 晴宗 | だて はるむね | 奥州探題。奥羽国戦国大名。伊達政宗の祖父。 | ||
| 伊達 政宗 | だて まさむね | 出羽国米沢城主、のち仙台城主。若くして家督を受け継ぎ、父の不慮の死を乗り越え奥州の覇者となる。しかし、その頃、中央は豊臣秀吉が天下人として君臨しており、やもえなく秀吉に従うことになる。その後も幾度となく謀略をめぐらすが、どれも不発となる。晩年は畳の上で大往生を果たす。 | ||
| 田中 吉政 | たなか よしまさ | 兵部小輔。はじめ宮部継潤につかえ、豊臣秀次に仕える。関ヶ原の合戦の頃には三河国岡崎城主を務めるまで出世した。関ヶ原の合戦には東軍に属した。1600年(慶長5年)9月23日、伊吹山山中で石田三成を捕獲した。1609年(慶長14年)2月28日没す。享年62歳。 | ||
| 玉子 | たまこ | 明智光秀の二女。織田信長の媒酌で細川忠興に嫁す。1582年(天正10年)本能寺の変によりいったん離縁をし、丹後味土野に幽閉されるが、2年後豊臣秀吉の仲介で復縁。忠興が九州に出陣中、1587年(天正15年)大坂で受洗し、ガラシアという洗礼名をうけ、熱心なキリシタンとなる。1600年(慶長5年)徳川家康方に従う諸将の妻子を人質にとろうと謀った石田三成に、大坂城への入城を強要されたが、それを拒み、家臣の手によって最期を遂げた。 | ||
| 田丸 直昌 | たまる なおまさ | 北畠氏の一族で蒲生氏郷の妹婿。1584年(天正12年)豊臣秀吉より所領を安堵され、氏郷の与力となる。関ヶ原の戦いの折には、西軍に従ったため、領地を召し上げられ、越後国へ追放となる。しかし、その後許され、会津国へ行き蒲生家のもとに身を寄せる。 | ||
| 団 忠正 | だん ただまさ | 織田家臣。はじめ、織田信長に仕える。血気はやる武将で先駆けによる軍令違反でたびたび信長から叱責を受けている。それから、息子信忠に仕えるようになり、武田家への侵攻には信忠に従い、目覚ましい活躍を見せている。戦後、美濃国岩村城を与えられるも、本能寺の変の折に、信忠に従い、二条城で討死を遂げている。 | 織田家臣団 | |