| 武将名 | 武将名(ひらがな) | 概略 | 関連ページ | |
| 清韓 | せいかん | 京都東福寺の僧。朝鮮出兵の際、加藤清正に従い、渡海した。1600年(慶長5年)東福寺に入寺。1614年(慶長19年)事件となった方広寺大仏殿鐘銘を草したことにより駿府に送られた。後豊後国に住み同地で没した。 | ||
| 盛徳院 | せいとくいん | 奥平信昌の室。徳川家康の第1女。17歳で信昌に嫁ぎ、4男1女を儲ける。 | ||
| 仙石 忠政 | せんごく ただまさ | 仙石秀久の3男。長兄久忠は盲目であり、次兄秀範は関ヶ原の戦いの折、西軍に与したため、父秀久から勘当を言い渡され、廃嫡となった。1614年(慶長19年)父の死去に伴い、家督を相続。大坂冬・夏の陣にも参加している。1622年(元和8年)大坂の陣の軍功により上田へ移封となる。 | ||
| 仙石 秀久 | せんごく ひでひさ | はじめ斎藤氏に仕えるも、斎藤氏が織田氏に滅ぼされると、豊臣秀吉の家臣となる。秀吉に従い各地を転戦し、1585年(天正13年)四国討伐の軍功で讃岐国を与えられ、高松城主となる。しかし、翌年の九州征伐で長宗我部元親との確執により、命令違反を犯し、戸次川の戦いで大敗を喫する。この大敗により長宗我部信親、十河存保などの有能な武将失い、秀久は単独で小倉へ撤退し、領国讃岐国へ逃げ帰ってしまう。これらの行状に激怒した秀吉は所領地没収のうえ、高野山に謹慎を命じた。1590年(天正18年)の小田原征伐で徳川家康を頼って、従軍しその軍功により信濃国佐久群に5万石を与えられ、小諸城主となり大名へ返り咲いた。秀吉の死後は家康に接近し、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは東軍につき、徳川秀忠に従い、上田城攻めに参加している。 1614年(慶長19年)江戸から小諸へ帰る途中に発病し、病没した。享年63歳。 |
||
| 仙桃院 | せんとういん | 長尾為景の女。上杉謙信の実姉。長尾政景に嫁し、景勝など2男2女をもうけるが、政景は1564年(永禄7年)に死去。その後謙信のもとに身をよせ1609年(慶長14年)2月15日出羽国米沢で死去。 | ||
| 千姫 | せんひめ | 徳川秀忠の長女。1603年(慶長8年)7歳で豊臣秀頼に嫁し、大坂に入る。1615年(元和元年)豊臣氏の滅亡により江戸へ戻り、翌1616年(元和2年)本多忠政の嫡子忠刻に再嫁。播州姫路へ移ってからは播磨姫君と称され、10万石の化粧料を賦与。1男1女をもうけたが、男子は早世。ついで1626年(寛永3年)に忠刻とも死別。1女を連れて本多家を去り、再度江戸へ帰る。落飾して天樹院と号す。 | ||
| 千利休 | せんりきゅう | わび茶の大成者。10代の頃より茶の湯の道に入る。初め織田信長の茶頭として仕える。信長の死後は豊臣秀吉に仕え、政治の面にも大きな影響を及ぼす存在となった。しかし、秀吉との茶の湯の考え方の違い等などより次第に秀吉とは疎遠になる。ついには秀吉より切腹を命じられ、1591年(天正19年)2月28日自刃。享年70歳。 | ||