小豆坂の七本槍 織田信光
織田信房
岡田重能(重善)
佐々正次(勝通)
佐々孫介(勝重)
中野一安(重吉)
下方貞清(匡範)
伊賀の上忍[御三家] 百地(ももち)家
藤林(ふじばやし)家
服部(はっとり)家
大坂7手組頭 速水守久(七手組筆頭)
青木一重
伊東長実
堀田森高
中島氏種
真野助宗(後に子の真野頼包)
野々村吉安
松浦秀任
五大老 徳川家康
前田利家
毛利輝元
上杉景勝
小早川隆景(隆景死後、宇喜多秀家が務める)
豊臣秀吉が自分の死後のことを憂い、政権を合議制にするようにし、設置した役職。だが、実際は前田利家死後は勢力の均衡がくずれ、徳川家康の独壇場となった。
五奉行 浅野長政
前田玄以(げんい)
増田長盛(ました ながもり)
石田三成
長束正家(なつか まさいえ)
五大老と相対して政権の実務を執り行う役職。
真田十勇士 猿飛佐助(さるとび さすけ)
霧隠才蔵(きりがくれ さいぞう)
三好清海入道(みよし せいかい にゅうどう)
三好伊佐入道(みよし いさ にゅうどう)
穴山小助(あなやま こすけ)
海野六郎(うんの ろくろう)
望月六郎(もちづき ろくろう)
根津甚八(ねづ じんぱち)
筧十蔵(かけい じゅうぞう)
由利鎌之助(ゆり かまのすけ)
実在の人物をモデルにしているケースはあるが、真田十勇士の面々は架空である。
三弾正 高坂昌信(逃げ弾正)
真田幸隆(攻め弾正)
保科正俊(槍弾正)
武田信玄に仕えた弾正忠を名乗った武将の特徴をそれぞれ捉えてこのように呼んだ。
逃げ弾正・・・無理な戦いをしない慎重な采配からこの呼ばれた。
攻め弾正・・・武田信玄生涯一度の敗戦上田原の戦いにおいても、味方が潰走する中一歩も退かず応戦したことからこう呼ばれた。
槍弾正・・・武勇に優れ、槍の使い手であったことからこう呼ばれた。
三中老 生駒親正
堀吉晴
中村一氏
五大老と五奉行をつなぐ役職。五大老と五奉行で意見がまとまらない場合は、間にはいり仲裁等を行なった。
賤ヶ岳の七本槍 福島正則
加藤清正
片桐且元(かつもと)
脇坂安治(やすはる)
糟谷武則(かすや たけのり)
加藤嘉明(よしあき)
平野長泰(ながやす)
他に一番槍の功をたてた者として秀勝の臣、石川一光(かずみつ)(又は石河(いしこ)兵助とも)、秀長の臣、桜井佐吉がいるが、この二人が七本槍に数えられなかったのは、石川一光はその場で戦死、桜井佐吉もまもなく病死したためなどの諸説あるが、秀吉直臣でなかったのが、大きかったのかもしれない。
船中鶴翼の材器 長船紀伊守吉兵衛
中村形部次郎兵衛
明石掃部頭(かもんのかみ)が、長船紀伊守の財政、中村形部の外交手腕の力を評価して、こう評した。
武田四天王 高坂昌信
内藤昌豊
馬場信房
山県昌景
築城の三名手 加藤清正
藤堂高虎
黒田長政
天下の三兵法家 真田昌幸
直江兼続
島左近
徳川四天王 本多忠勝
酒井忠次
榊原康政
井伊直政
西美濃三人衆 安藤守就(もりなり)
稲葉良通(よしみち)[一鉄]
氏家直元(うじいえ なおもと)[卜全(ぼくぜん)]
府中三人衆 佐々成政
不破光治
前田利家
平、平、吉、とんとナ宇喜多の三家老(おとな) 戸川平右衛門秀安
岡平内利勝
長船吉兵衛
宇喜多直家を助け、宇喜多家の再興に尽力を尽くした人達を代表して、民衆から囃された。
三好三人衆 三好長逸(ながゆき)
三好政康(まさやす)
岩成友通(いわなり ともみち)
毛利両川 吉川元春
小早川隆景
毛利元就が毛利家をより強固にするために有力豪族へ次男、三男を養子に出し、家督を継がせることに成功。これにより本家毛利家を支える家として吉川及び小早川のそれぞれ『川』の字をとり、こう呼んだ。
利休七哲 細川忠興
古田重然(織部)
芝山宗綱(監物)
瀬田正忠(掃部)
蒲生氏郷
高山重友(右近)
牧村利貞
千利休の高弟7人を指す呼称。後世に呼ばれたもの。
利休門三人衆 細川忠興
芝山宗綱(監物)
蒲生氏郷
千利休の弟子の中で特に優れていた3人の武将を指す。後世に呼ばれたもの。
両兵衛 竹中半兵衛重治
黒田官兵衛孝高
豊臣秀吉に仕えた二人の軍師の『兵衛』の字を取って、こう呼んだ。しかし、二人が一緒に仕えた期間は非常に短く、二人の功績をたたえて後世の人がこう呼んだ。

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活躍した人、功績を残した人をひとくくりにして、〜衆、〜組など呼ぶのは、今も昔も変わらなかったようです。
しかし、ひとくくりにしても有名になった人、あまり有名にならなかった人など千差万別です。
どんな人が有名人と同列に列せられていたかを見てみましょう。